終末の日、神の選びは「クリスチャン」と呼ばれる人々と、未信者と呼ばれている人々とで逆転する

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No.213 逆転のリバイバル


テキスト:”ルカ14:7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。
10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
12 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。
13 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。
16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」”

本日は、「逆転のリバイバルという題でメッセージしたいと思います。
終末の日にいわゆる今、「クリスチャン」と呼ばれる人々と、未信者と呼ばれている人々との逆転は、本当に起るようです。このことは、驚くべきことがらなのですが、しかし、どうも聖書はそのように述べているようです。このことを見ていきたいと思います。

順に見ていきます。

"7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。"

上座を選ぶ人が多いようですが、終末の日に、「後なる者は先に」ということばは成就します。

”8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。”

ここで主は、「婚礼の披露宴」に関するたとえを語っています。聖書でいう、婚姻の時とは、
「小羊の婚姻」の時をさし、それは終末におきるキリストとその花嫁なる教会との婚姻をさすたとえです。

ここでは、その婚姻の時、「自分は当然上座」と思っていた人々が恥をかいて末席につく可能性について主は語っています。このことは、書かれている通りにその日に起きるでしょう。
今、クリスチャンと呼ばれる私達は警戒しなければなりません。「後なる者が先に」なる日が近付いているからです。

”10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」”

今の時代に自分を低くする者はその日に高くされます。

”12 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。”

ここでたとえが使われています。
昼食、夕食は要するに食事のことです。食事とは食べること、飲むことであり、パン、みことばを食べること、命の水、聖霊の水を飲むことです。
また、兄弟、親族は同じ家族や、同じ親族であるクリスチャンのたとえでしょう。また、近所の「金持ち」とは、「裕福な青年」のたとえのように、幼い時から律法を守っていると自負する「行いのある人々」です。
これらの人々を呼んで神の集会を開くことのみに力を注いではいけないということでしょう。

”13 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。”

これらの神のことば、聖霊による祝宴には、むしろ「貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招」くよう語られています。
ここにもたとえが使われています。すなわち、霊的に貧しい人、霊的に不具の人、信仰の歩みのできない足なえ、霊の目の開かれない盲人について語られているのです。むしろ彼らを招くよう語られています。

”14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」”

これらの人々は霊的にお返しはできないでしょう。しかし、もし我々の霊の祝宴で彼らが義とされたのなら、我々は、「義人の復活のときお返しを受ける」でしょう。

”15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。”

ここから語られることは、神の国で食事する」幸いな人に関することがらです。

”16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。”

このある人とは、神またキリスト御自身です。主は、世の終わりに盛大な宴会を計画しており、大勢の人を招いておられます。「招かれる者は多い....。」と書かれている通りです。

”17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。”

宴会の時刻になれば、その宴会の主人はしもべを遣わし、招いておいた人々にまず声をかけます。
同じように世の終わりにも主からの招きの声がそのしもべを通してクリスチャンに伝えられます。
それは、終末の「真の」リバイバルなる命の水への招待であり、また終末の日の御言葉に関する回復、真の「命のパン」への招待です。

”18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』”

ところが驚くべきことに招待されていた人々は、みな一様に断わり始めたのです。
ある人は「畑を買った」という理由でその申し出を断わりました。
畑はクリスチャンと密接な意味あいのことばであることを捕らえなければ、なりません。
「畑を買ったから、断わるなんて馬鹿なやつだ」などと笑っている場合ではありません。これは、我々と関係のあることばなのです。畑は種をまくところであり、麦が育つところです。
麦は聖書のことば、もしくはみことばにより成長するクリスチャンのたとえです。
ですからこの人は畑、伝道地を手にいれたので、それを見にいかなければならないといっているのです。他人ごとではないのです。さて、彼はこのようなクリスチャンとしては、申し分ない大義名分」で、キリストからの申し出を断わりました。

”19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』”

次の人の断わり文句もクリスチャンとしては、申し分ない断わり文句です。
牛や羊は牧者なる方に飼われるという意味あいのクリスチャンのたとえです。
ですから、牛をためすとはクリスチャンを試しにいくということでしょう。これ自体、悪いことではありません。しかし、問題は彼はこの申し出を断わったということです。

”20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』”

この次の人も断わりの理由も非常にまっとうな理由です。結婚に関する聖書的なたとえの意味あいは、信者とキリストとの結婚、すなわち、救いをさすことのように思われます。
黙示録の「小羊の婚姻」とのことば、また、エペソ書の結婚に関する「キリストと教会をさす」とのことばもこれを裏ずけるように思えます。ですから、ここで、この人は何と「救われたので、この申し出は受けられない」といっているのです。理由はまた、まっとうですが、しかし、何しろこの人も断わっているわけです。

ですから、これらの人々の問題は、その断わりの理由ではなく、そのキリストからの申し出を「断わったこと」にあることがわかります。なぜこれらのたとえが書かれたのか、それは、断わる人々がどのような人々かを我々に知らせるためのヒントなのです。このたとえを読み取らなければなりません。

そうです。ですから、私達はよくよく気をつけていなければ、なりません。その日には、まっとうな、多くのクリスチャンが「その申し出」を断わることを聖書は確かに暗示しているからです。

このことは、確かにイエスの時には成就しました。その時、聖書で預言されているイエスキリストは来られており、食事の席、すなわち、神のパンと水、みことばの回復と聖霊の油注ぎに多くの人が招かれました。しかし、最初に招待された、神の民、パリサイ人や律法学者は、その申し出を断わりました。

以下のように書かれている通りです。

ヨハネ7:48:「役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。」”

その結果、この「宴会」には、異邦人が招かれることになったのです。

”21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』”

パリサイ人、すなわち、神の民の代表的な人々がこの時、この「宴会」には加わらなかったように、終末の日に代表的な神の民達はこの終末の回復、リバイバルには加わらないでしょう。「怪し気なカルトのリバイバルにひっかかるまい」と皆、自制するのです。しかし、悲しいかな、彼らの判断は、神の前には間違っていました。

ここでいう招待される「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」とは、13節の人々と全く同じです。

彼らは上の説明によれば、自分を高くする人々です。ですから、ここで聖書が語っていることは、こういうことです。すなわち、この日、自分を高くする者への裁きが行われるのです。
自分の判断を頼みにし、神にのみ頼る立場を取らない自称「金持ち、健康な人、歩ける人、目の開いている人々」に裁きがくるのです。

”22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。”

始めに招待されていた人々が断わったため、宴会には席が空きました。それで、「街道や垣根のところにいる」人々、今でいう未信者に救いが移っていってしまうのです。
「イエスの時代」にも全く同じことが起きたことをもう一度思い出して下さい。
神の民、ユダヤ人がイエスの宴会を拒んだので、救いは異邦人に及んだのです。
宴会の食事とはパンとぶどう酒のことであり、イエスのみことば、そして、ペンテコステの日に下った聖霊リバイバルです。ユタヤ人たちは、イエスのみことばもまた、ペンテコステリバイバルも認めませんでした。逆にこの教えにつく、ペテロ、ヨハネパウロを迫害し、この教えをセクトと呼び、迫害し続けたのです。ですから、彼らは宴会に出席することを拒否したのです。

終末の日にも全く同じことが起ります。この終末のリバイバル、また教えの回復は、新約の神の民から、異端視され、受け入れられないでしょう。逆に彼らはこの「終末の宴会」に出席することを拒否しだすでしょう。その結果以下のことばが成就するでしょう。

24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」”

私達の目を神により開いていただき、この終末の神の働きを見せてもらうようにしなければなりません。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 
 
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