放蕩息子の二人の兄弟は終末における神の民(兄)と未信者(弟)を表している

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No.214 放蕩息子のたとえ
 
”テキスト:ルカ15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」"


 本日は「放蕩息子のたとえ」という題でメッセージします。この物語りが終末について述べていることを見ていきたいと思います。順に見ます。

”1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。”

ここで、取税人、罪人が登場します。このことには、意味があります。何故ならこの「放蕩息子」でたとえられている人々は実は、彼らだからなのです。彼等が兄、弟どちらに相当するかといえば、勿論、放蕩で身をもちくずす弟に相当します。

”2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」”

さて、ここで、このイエスの行いに不満を表している「パリサイ人、律法学者たち」がいます。
彼らこそ、放蕩息子の物語で示されている「兄」なのです。彼らは兄のように(みことばをまくため)畑ではたらき、父なる神に仕えてきました。しかし、放蕩で財産を食いつぶした弟なる「取税人、罪人」が父なる神の前に帰って来たことは祝福できなかったのです。そして、「食事までいっしょにする」と不平をいっています。

これは、放蕩息子の兄が弟のための宴会に、納得できなかったことに相当します。
また、宴会のたとえを解くなら、それは、食べること、飲むことであり、命のパンなるみことば、聖霊の水にあずかることです。「取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こう」としていたとは、まさに彼らが「宴会」で命のパンを受けていることを示しているのですが、「パリサイ人、律法学者たち」はこのことに納得がいかず、この宴会に賛成できなかったのです。

”3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。”

”ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです”というように、父なる神のこころは罪人が悔い改めることにあります。
私達は神の思いに立って、罪人に接しなければならないとがわかります。

”8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」”

ここでも同じように、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こ」ることが
述べられています。

"11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。"

この二人の息子は、兄である神の民、及び弟なる異邦人、今で言う未信者です。

”12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。”

弟は「遠い国に旅立った」すなわち、父なる神とは全く遠く離れた所へ行ってしまったのです。そして、神から与えられた健康も富も何もかもむなしく使い果たしたのです。

14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

彼は霊の飢えを感じるようになりました。終末の日に、神から全く離れていたこの世の人々が、この世に絶望して、心の飢えを感じる日がきます。

”15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。”

ある人とは、もしかするとこの世の神、悪魔かもしれません。また、豚は異邦人と関係があります。彼は何しろ、この世の人と関係を持つようになったのです。

”16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。”

彼は「豚の食べるいなご豆」、すなわち、この世の食物で腹を満たしたいと思ったのですが、
それでは腹を満たせなかったのです。彼の腹、心の飢えを満たす物を与えてくれる人は誰もいなかったのです。

”17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。”

彼の心は、父である神に対して始めて向きました。この世の人々が世の終わりに心を神に向ける日がきます。

”18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』”

この時、始めて彼、すなわち未信者は悔い改め、方向転換をしたのです。

”20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”

父は彼を見つけました。

”21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。”

「一番良い着物」と書いてあります。着物は義と関係があるようです。未信者である人々がその日、義に満ちるでしょう。指輪は契約と関係があるようです。この日、彼らは神とのすばらしい契約に入ります。
また、くつは足、歩みと関係します。彼らには、クリスチャンとしての良い歩み、行いが与えられるでしょう。

”23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。”

「肥えた子牛をほふる」とは、「ほふられた小羊」と似た意味あいの表現でしょう。罪のあがないがなされます。また、まことの食物、まことのパンなる方の「みことば」を食べて祝うのでしょう。

”24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。”

異邦人、今でいう未信者の人々は、罪の中で死んでいます。しかし、この日、「死んでいたのが生き返り」ます。そして、神の前に「いなくなっていたのが見つか」ります。
「祝宴」と書いてあります。この祝宴には、当然食事、すなわち食べること、飲むことが関係します。
みことばがひらかれ、真の聖霊リバイバルがあります。
そうです、この日は、ペンテコステに匹敵する終末のリバイバルの日なのです。

”25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで”

さて、この物語のもう一つの大事なテーマは、兄に関することです。
この兄は畑にいます。畑は種と関係しています。だから、みことばに関する奉仕をしていたということでしょうか。その彼は家から「音楽や踊りの音」を聞きます。
騒がしい宴会の音を聞くわけです。終末の日、多くの未信者が救われる日も騒がしい、大きな
リバイバルの日です。

”26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』”

この日、弟なる未信者の人々が神の前に帰っってきます。

”28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。”

この時、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。この「家にはいろうともしなかった」との言葉は、さりげなく書かれています。しかし、この言葉は終末の日のキリスト教会を暗示する、大きな意味あいが含まれた言葉のように思えます。家は教会のたとえです。そして、この家に兄が入ろうとしなかったとは、弟が迎え入れられた教会、終末の日に多くの未信者が救われてくる教会には、「まっとうなクリスチャン」は、入らない、関わりを持たないことを暗示しているように思えます。
「父が出て来て、いろいろなだめてみた。」と書いてあります。ですから、神の御心に従い、この終末のリバイバル、教会の回復に関しての説明がいわゆる「クリスチャン」の人々に対してなされるでしょう。
しかし、彼らの多くは「こんなセクト、カルトには関わらない」といって拒否するのでしょう。

”29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』”

兄は弟に関する父の態度に納得がいきませんでした。終末の日にも多くのクリスチャンが、
未信者に対する神の取り扱いに納得できなくなるのでしょう。

”31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」"

「楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」ということで、週末の日に神による宴、リバイバルが起きるのですが、しかし、兄で代表されるクリスチャン達はこれに加わることを拒否するようになるのでしょう。

繰り返すようですが、この放蕩息子のたとえで語られているように、終末の日のリバイバルに多くの神の民、クリスチャンは参加せず、拒否すると思われます。このことを、このたとえに限らず、聖書は表現を変え、書きかたを変えて警告をしているのです。

惑わしから、守られ、正しく判断できるように祈りましょう。

 

終末における主のみこころを行ないましょう。

 

ー以上ー
 

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