教会、聖書の専門家が盲人となり、聖書も神も見えなかった人々の目が開かれる。

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No.241 盲人


”テキスト:ヨハネ9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。
13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

 

本日は、「盲人」という題でメッセージをします。

主イエスが上記テキストの中で「盲人」「目が見えないこと」について語られた時、その話の中にパリサイ人が登場して来ることは、注目すべきことがらです。
この時、目が見えないことと関連して「目医者」や「目薬の店員」は登場せず、また大工も
漁師も登場せず、かえってパリサイ人が登場して、「私たちも盲目なのですか。」と聞いたことには、隠された意味あいがあります。今日はそのことを見ていきたいと思います。

当たり前のことですが、聖書は人が書いたものというより、「神御自身が著者」である世界で唯一の書なのです。それで、その何気ない記述、登場人物にも隠された意味あいがあります。必ずあると私あたりが断定することなどできないのですが、その可能性があるので、聖霊の助けにより注意して読むことが良いと思われます。

かつて主が金持ちの青年と語った時、その青年は「小さい時から、律法を守ってきたこと」を語りました。
ですから、聖書でいう「金持ち」「律法に落ち度のない」人々とは関係がるかもしれないことが想像できます。また、かつて主は「遊女や取税人」に関して、「蛇よまむしのすえよ」とはいいませんでしたが、律法学者、パリサイ人にはそういいました。ですから、「蛇」エデンの園の蛇は律法学者、パリサイ人と関係があることが想像できるのです。

さて、この時、何故盲人と関連して、パリサイ人が出てくるのでしょう。
それは、聖書でいう「盲人」とは、肉体の目が見えないということより、霊の目が見えないことに関連しているからです。具体的には、ここで「「私たちも盲目なのですか。」(そんなはずはない)と質問する彼ら、パリサイ人、聖書や宗教の専門家こそ、「盲人」だということを語りたいのです。
盲人ということばは「見えない」ということと「たとえの連鎖」があり、以下のイザヤのことばの「見る」ことと関係があるのかもしれません。

”マタイ13:4 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。”

聖書の専門家、宗教の専門家ということになっている彼らパリサイ人(すぐれた人の意味)が、実は盲人だということなのです。そしてこれは終末の教会においても起こるのでしょう。
教会の専門家、聖書の専門家という人々が実は「盲人」であり、しかもここで「私たちも盲目なのですか。」(そんなはずはない)と質問した人々と同じように自分が盲人だということすらわからない自覚症状さえない重症の盲人になるそんな日が来るのかもしれません。そのことを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」”

弟子達は盲人に関連して、罪について語っています。確かに罪とその人が盲目であることとは関係します。私達が罪を犯し続けるなら、決して聖書の真理、信仰の真理は私達に開かれず「見る」ことはできないことを知るべきです。聖書は世の中の歴史、数学や医学等と全く異なったことがらがあり、それは「罪を犯す者はその真理を見ない」ということです。

”3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。”

さて、この時迄、この人は盲目でした。しかし、この時、主は彼の目を開かれました。
それは、「神のわざがこの人に現われるため」なのです。終末にもそのような人々が現れて来るでしょう。
盲目で、ただただ、盲人の書いた「聖書解説書」に従って聖書を読むしかすべのなかった人々の中から、真に見る人々、目の開かれる人々が現れてくるでしょう。それは、「神のわざがこの人に現われるため」なのです。そうです、終末の日の主の回復のわざがこれらの人々を通してあらわれるために彼らの目は開けられるのです。

聖書がわかるようになる、真理がわかるようになることが「盲人が目が見える」といえば、
「恣意的な解釈ではないか」「何でそんなとっぴな解釈になるのか」という人もいるかもしれません。

聖書のたとえの解釈の一つの原則、ヒントとして「その反対のものを考える」という原則があります。
ここで、パリサイ人、すばらしい人、聖書も神も何もかもわかっているとされているという人々が「盲人」だと暗示されているなら、「その反対のこと」、すなわち、「盲人の目が見える」ということは、実は、「盲目になって今迄見えなかった真理が見えてくる」ことと理解しても大きな逸脱ではないでしょう。もちろんそんな風に書いてある「注解書」はないかもしれませんが、そんな書のことは始めから、考慮していません。

また、「生まれつきの盲人」という何度も繰り替えされるフレーズ(ことば)には隠れた意味あいがあるのかもしれません。教会はそれこそ長い間、盲目でした。正しく、聖書のみことばを理解し、正しく働いている霊を見分けることができない、すなわち盲目の日がずっと続いていたかもしれません。
しかし、終末の日に主の恵みの時が来ます。その時、主に触れた人々は長い間続いた「盲目」から解放されるのです。真理を見るのです。

”4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。”

終末には、誰一人真理について語れない「夜」がきます。その夜が来る前に私達はこのわざを進めなければなりません。

”5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」”

光は見ることと関係しています。懐中電灯の光がなければ、夜道を歩けないように、光がなければ、見えないからです。主を求める人は「見る」ことを得ます。

”6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。”

シロアム(遣わされた者)の池で洗って見えるようになるということは、すなわち、「主によって遣わされた者」聖霊によりあらわれるということなのでしょう。彼を通して見える人々があらわれるようになります。洗うとは水で洗うのです。聖霊により彼らは目が開かれてきます。

”8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。”

彼はかつては、「すわって物ごいをしていた人」でした。教会ですわって、人の話をきくだけだったのかもしれません。自分の命の糧さえ稼ぐことができず、人から命のパンをもらうしかすべがなかったのです。また、信仰の歩みも無く、ただ「すわって」いたのです。
しかし、彼は今ものごいでもなく、すわってもいません。自分の足で立ち、真理に歩み出したのです。

また、彼は目が見えるようになったので、かつての彼とは見間違えるようになりました。
だからこそ、”ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った”のです。これは、彼の信仰の劇的な変化を暗示するようです。
そうです、もし私達が終末の日、主によって目が開けるなら、回りの人が驚くような変化が起こるでしょう。
また、ここで彼らはこのかつての盲人に「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
と質問しています。これはこの箇所の中で何度も何度も繰りかえされる質問です。
終末の日にも、盲人である神学者や教師と異なり、「目が開けた人々」に関して、同じ質問が多くの神の子から発せられるでしょう。「何故彼らはこんなことがわかるようになったのか。何故突然、彼らは見るようになったのか」それに対する答えは昔も今もたった一つしかありません。「イエスという方」が目を開いたのです。

”13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。”

彼らはこの人が突然、目が見えるようになったということが理解できないので、パリサイ人のところへ「かつての盲人、今はみえるようになった人」を連れていきました。終末の日にも同じように「目が見えるようになった人々、真理がわかるようになった人々」は教会の神学者や教師、牧師達のところへ連れていかれるでしょう。そしてこれらの「宗教の専門家」の結論は「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」ということでした。同じように終末の日に、「真理に対して目が開かれた人々」もささいな聖書の教えとの違いを理由に「神からのものではない」と結論づけられるでしょう。

”しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。”

しかし、終末の日に、これら「宗教の専門家」の間にもこの「真理に目が開かれた人々」に関して、意見の分裂が起きるでしょう。彼らの働きに伴う「しるし」がその分裂の理由です。

”17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、”

この時、ユダヤ人たちは、「彼が盲目であったが見えるようになったということを信」じませんでした。目の見えるようになった人が目の前にいてもそれを信じなかったのです。同じように終末の日に確かに「真理に目が開けた人々、回復された人々、神により聖書に対して目が開かれた人々」は起きるのですが、終末の神の民は、「彼らの目が開かれた」こと、その事実そのものを認めようとはしないでしょう。
かえって、「変な終末の異端が出現した」とみなすようになるのでしょう。

”19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。”

今度は彼らは両親に尋ねています。ですから、「生まれつきの盲人が見えるようになった」ということがらがここでは大きな主題として取り上げられていることを理解して下さい。

そうです、生まれつきの盲人、教会の始まり以来、現在に至る迄、決して聖書の隠れた真理を見ることのなかった人々が真理を見る日が来ます。その日について述べているのです。

両親もこの生まれつきの盲人に関して、「どのようにしていま見えるのかは知りません。」と答えています。そうです、このこと、何故今迄決してみることのなかった人々が何故、終末の日に突然、真理を見るようになったのかは、その両親、教会の信仰の父である牧師達にもわからないのです。彼らはただ、「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。」
と答えることができるだけなのです。

”22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。”

この時代、「イエスをキリストであると告白する者」は会堂から追放されました。同じように終末の日には、このキリスト(受こう者)すなわち、油注ぎに関して、「これは神からの霊である」と公言する者は教会から追放されるでしょう。しかし、我々の目はまさにこの聖霊の油注ぎにより開かれるのです。

”24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」”

この当時の宗教の専門家は、彼らの結論として、イエスは罪人であると決めつけていました。他の選択肢はこの当時の人々にはなかったのです。そして、終末の日に、「この霊は悪霊である」と決めつけられる日がきます。しかし、まさにその終末に、その「霊」により見えるようになる人々があらわれるのです。

”26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」”

ここでも彼らは同じ質問、「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」ということばをまたも繰り返しています。ですから、終末の日に「一体何故、彼らの目は突然、開き、真理を見るようになったのだろう」といぶかる多くの人々があらわれるでしょう。ここで弟子について書いてあるように終末の日に主の弟子の目は明らかに開きます。

”28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」”

彼らは自分達はモーセの弟子であり、由緒正しい正統的な教えに従っっていると語っているのです。
ナザレのイエスなどというどこの馬の骨かわからない新参者の教えにはだまされないぞ」と語っているのです。しかし、実際は彼らは盲人であり、彼らは神から遣わされた方を認めることができなかったのです。終末にも同じことが起きるでしょう。

正統的、聖書的だと誇っていた人々が実は盲人に過ぎなかったということが判明する日がくるでしょう。

”30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」”

生まれつきの盲人、聖書も神のみこころも見えなかった人々の目が開ける日がきます。それは、罪や悪霊ではなく、神の霊、聖霊によるものです。

”34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。”

かつては盲人であったが、今は目が見えるようになった青年はそのこと、すなわち、彼の目が見えるようになったこと、そして主に関する立派な証しのゆえに「外に追い出」されました。終末の日にも「その目が見えるようになった」ことのゆえ、そしてその証しのゆえに外へ、すなわち、教会から追出され、異端であるといわれる人々があらわれるでしょう。しかし、神の前には、彼らこそ真に真理に対して「目が開かれた者」であることを知らなければなりません。

”35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。”

もし、終末の日に教会により追出されたり、異端といわれたらどうなるでしょう。お先真っ暗、何の希望もないように思えるかもしれません。しかし、心配はいりません。主が私達を見つけだして下さるからです。教会と主とどちらかを選ばなければならないというそれこそ究極の選択をせねばならない日が終末の日には訪ずれることを私達は知らねばなりません。

”39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」”

このことを覚えて下さい。初降臨の主はさばきのためにこられたのです。さばきということばには、決定するという意味あいがあります。すなわち、ここで主はあたかも主は試験問題のようなものです。主を正しく評価できるものは「見えるもの」であり、正しく評価できず、「あいつは罪人だ」などと間違える人は試験に失敗したものであり、実は「盲人」なのです。イエスを通して、それぞれの人が「盲人」かどうか決定されてしまうのです。人の前には「宗教、聖書の専門家」ということになっていても神の前には盲人なのです。
そして、終末の日にも全く同じことが起きるでしょう。多くの「宗教の専門家」が見間違える日が来るでしょう。

”40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

ここで主はパリサイ人達、宗教、今でいえば、教会の専門家が「盲人」だといっているのです。ここがこのたとえのポイントです。ここから、このたとえを考えてみなければなりません。彼ら、宗教の専門家が「盲人」だとしたら、その反対の立場に位置している「目が開けた生まれつきの盲人」が何をたとえているのか、理解できます。
この青年は「神に対して、聖書に対して、真理に対して目の開けた人」をたとえているのです。

ここで、主はパリサイ人達は『私たちは目が見える。』といっている、だから、彼らの目は開くことがなく、またその罪も残ると語っています。彼らは本当は聖書もまた神についても知らず、目が開かれていなかったのですが、それを認めることができず、それゆえ彼らは最後まで、盲目のまま残り、そしてついには「神の子、王として来られた方」を殺したのです。彼らの「盲目」は彼らに裁きを、永遠の裁きをもたらしたのです。

そして、終末においても話は全く同じです。
これから、終末にかけて、「目が開けた人、教会の回復を語る人々」が現れてきますが、しかし、「宗教の専門家」は決してそれを認めないでしょう。彼らは実は「盲目」だから、この働きが見えないのですが、彼らは決して自分達が盲目であることを認めないでしょう。そしてついには、「目が開けた人々」キリスト教会から追出し、彼らを殉教に追い込み、彼らの霊を「悪霊」と決めつけるでしょう。
そしてそれらの行いは結局そのような専門家、そして、彼らに追従する人々に永遠のさばきをもたらすでしょう。

もうその時は来ようとしています。主に目を開いてもらうように求めましょう。 

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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「艱難」は主につく民に、「裁き」はこの世についた民に。終末の避けて通れない道。

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NO. 240 艱難とさばき


”テキスト:黙示録11:16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。”

 

終末についての記述を理解するのに必要なことはいくつかありますが、その中で大事なことは、「艱難」「裁き」とを区別することと思われます。

黙示録を読んだりするとあらゆる天変地異があり、それが大変複雑であり、何がなんだか、わからないような気がするのです。その一つの原因は、我々が「艱難」「裁き」とをごっちやにして、区分することをしないからです。

しかし、明らかに聖書は「艱難」「裁き」とを区別して記述しています。
以下のようでしょうか。

 

a)主のみこころを行う民は、「3年半の大艱難時代」を頂点とする「艱難」にあいます。
この時、殉教も起こります。
この時、この世についた神の民は必ずしも「艱難」にはあいません。むしろ、「平和無事なり」と気楽にしているでしょう。彼らにとってはこの時は「怪し気なカルトが処分される輝かしいキリストの正義が表される時」というようなことになります。

b)この三年半の艱難が終了してダニエルのいう70週が完全に終了した後、直後に「裁き」の時に入ります。この世についた神の民が裁かれる時です。彼らは殉教に加担することにより、己を罪ある者と定めます。この三年半は70週の最後の半週のことです。
神は「7を70倍するまで(70の7=70週)、兄弟の罪を忍耐」します。それで、この間は裁きはおこなわれません。しかし逆に、この70週が完全に終了した時、裁きがはじまるのです。

この「艱難」「裁き」の区分は主イエスの時代を考える時、明確に理解できます。

a)主イエスの三年半にわたる宣教の期間はそのまま終末の大艱難時代の型です。
主イエスとその弟子は「人の子は枕するところがない」という程、迫害と困難の時を経過しました。
祭司長、律法学者達に命を狙われ、彼らは「艱難」の時を迎えたのです。

b)しかし、そのように主イエス、及び彼につくペテロ、ヨハネ達、クリスチャン達を迫害した、ユタヤ人達、「神の民」は、その後、神の「裁き」にあいました。
主イエスはその裁きについて、
マタイ23:36「まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」と述べました。彼は「この時代(世代)」というある特定の世代について語ったのです。
聖書のいう1世代とは40年のことです。そして確かに主のいわれた通り、主が十字架につけられてから、丁度40年後の西暦70年に、エルサレムはローマ兵に囲まれ、最後の一人迄、殺されてしまったのです。その回りには「逃げようとして捕らえられたユタヤ人の」 多くの十字架が林立したということです。
聖書によれば、クリスチャンは「迫害」を恐れて、エルサレムを離れていったようですので、
この「裁き」には、遭遇しなかったことが想像されます。

このエルサレム陥落」のことがらが、主イエスの十字架の時から、39年目でも、41年目でもなく、まさしく40年目、1世代の後に起きたことには神からの語りかけがあります。
彼らは主イエス「これらの報いはみな、この時代(世代)の上に来ます。」とのことば通り、裁かれたのです。

このように聖書の語る「艱難」「裁き」とは、大いに異なることがらであるということを理解いただけたでしょうか。

さて、主イエスの時代は終末の時代の型であり、予表です。ですから、このように主の時代に起きたことは、もっと大きな規模で終末に繰り返されるのです。
すなわち大規模な「主につく神の民への艱難ー艱難時代」があり、その後、これらの人々を迫害する「神の民」への裁きが行われます。

これらが黙示録を始めとする終末の預言の中心であり、このことを正しく捕らえないとわけのわからない解釈になってしまいます。そして黙示録等が難しいのはこの2つがごっちゃに記述されているので、何が何だかわからないように感じるからです。
以下に若干その区分を記します。

(艱難)
ヨハネの黙示録 6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

黙示録7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

(裁き)
ヨハネの黙示録 6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
ヨハネの黙示録 6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
ヨハネの黙示録 6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

黙示録11:17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。

ーーーーーー

「艱難」は主につく民と関係し、そして「裁き」はこの世についた民と関係しているのです。

終末に関して一つ明らかであると思われることは、我々終末に生きるクリスチャンはこれらの「艱難」「裁き」か、どちらかを受けるようになるということです。

「艱難」「裁き」もどちらも受けたくないというのは、人情ですが、しかし、聖書的にいうなら、どちらかを、程度の差こそあれ、受けるようになるようです。またこの世にあって、我々が敬虔に生きようとするなら、迫害、艱難は避けられないようです。何故なら、以下のように書かれているからです。

”テモテへの手紙第二 3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。”

終末にも同じことがいえるでしょう。ですから今、主のため、そのことばのため、苦難を受けている人々は幸いであり、後の日には栄光を受けることを覚えて下さい。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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終末には再び王(聖霊)殺しが行われる

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No.239 王殺し(2) 


"テキスト:ヨハネ19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」"

本日は「王殺し(2)」としてもう少し、聖書が王について語っていることを見ていきましょう。

繰り返して語るようですが、聖書は主が十字架につけられたことに関する一つの意味あいは
「王殺し」なのだということを明確に語っています。

ですから、イエスキリストが十字架につけられたという事実の意味あいは、単にひとりの預言者、教師を殺したというより、この神の国「ユダ国」を統治している「王自身」を殺したと語っているのです。

神がこの国を統治するということに関しては以下のようにサムエル記で語られています。

”1サムエル8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。”

これは、イスラエルの国の人々が「自分達にも王が必要だ」といい、この国に最初の王サウルがたてられる前の話です。この時、神御自身は明確に「彼らを治めているこのわたしを退けた」と語っています。ですから、目に見えなくてもこの国、神の領地であるイスラエル、ユダの真の王はただ一人、神御自身なのです。

王の支配、統治に関して、聖書は他の箇所で以下のように注目すべき期間を述べています。

イザヤ書 23:15 その日になると、ツロは
、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。”

ここで聖書は「ひとりの王の年代」は70年であると述べています。しかし、不思議なことがあります。
聖書の中に記されている多くの王の中で70年の間、統治した王は見当たらないのです。
ダビデにしてもソロモンにしても70年もの長い間、統治した王とは歴史に見当たらないのです。
それではこの王とは一体誰の事でしょう?

これは、明らかにこの国の唯一の王、神御自身をさすと思われます。
ですから、ダニエルの「70週の預言」とは、実は「神御自身の統治」に関する預言なのです。
そして、70週の終わり頃、「油注がれた者が断たれる」とは、他でもないこの神の国で、
「王殺し」が起きると述べているのです。

油注がれた者とは、旧約聖書をよく読むならわかることですが、王の別名なのです。何故なら、イスラエル、ユダの国においては、どの王も「油そそぎ」を受けて始めて王に即位するからです。

普通の人を殺しても大変な罪ですが、まして王を殺して無事にすむわけがありません。
この「王殺しに加担した世代」は丁度1世代、40年後にローマ軍によるエルサレム攻撃の中で皆殺しに会いました。

歴史においても「王殺し」に加わった人々はその報いを受けています。イギリスピューリタン革命」で王をギロチンにかけた人々、フランス革命ルイ16世や王妃マリーアントワネットをギロチンにかけた人々はその後で自分の命を失っていきました。彼らは「王殺し」という大罪の報いを受けたのです。

さて、終末に生きる私達にとっての問題は、終末の日にこの「王殺し」が再現する、いや終末においてこそ、この「王殺し」の本番があると聖書が述べていることです。

この警告を正しくとらえて歩まないならば我々はかつて「王殺し」に加担して裁きに入っていった人々と同じ過ちを犯す危険があることを覚えて下さい。

終末に王殺しが再現するといえるいくつかの理由は、以下のようです。

1 ダニエルの70週の預言が完結 するのは、終末の日であり、その日に聖書が言う意味での「王殺し」が成就すると思われる。

2 黙示録11章にはそれを裏ずけるように「終末の日に都で十字架につけられる主」について記されている。

この終末の王殺しは具体的にどのように行われるのでしょうか。

結論からいうなら、終末の日に神の民が「聖霊を殺すこと」、それが終末の日の「王殺し」となると思われます。

「霊である聖霊を殺す」という概念は現実的でないように思えるかもしれませんが、問題は聖書がどういっているかということです。以下のように聖書は確かに聖霊「王殺し」とを関係ずけているように思えます。

1 イエスの生涯は明らかに聖霊の予表と思われる。「助けぬし」「もう一人の助け主」という表現を始め、多くの主イエスの生涯は聖霊なる方」の予表のように見える。

2 70週の預言は「油注がれた者」が断たれることに関する預言である。「油、油注ぎ」とは、「神の油」聖霊に関するたとえである。

70週、すなわち教会時代の始めから終わり迄、教会の真の王であった聖霊御自身に対する「王殺し」は、具体的には、黙11章の二人の「油注がれた」預言者(2つの教会)を殺すことにより行われます。
この時、多くの「油注がれた聖徒の殉教」が起きるでしょう。彼らの肉体が殺され、血が流されるのです。

これは、旧約の神の民を統治した神御自身への「王殺し」が肉体を持たれた「油注がれた方」主エイスの十字架の死によって実現したことと同じです。

どちらの時においても、彼らを殺す者達は、「自分達はただ、カルト、異端を処分しただけだ」と思うのですが、実際は彼らを殺すことはそのまま「王殺し」に通じることになるのです。
聖書の中には、この聖霊なる王への「王殺し」を暗示する箇所はいくつもあります。7つの教会の最後の教会、すなわち教会時代の最後を暗示するラオデキヤの教会には、家の外、すなわち教会の外へ追出されている聖霊なる主御自身の姿が描かれています。また、テサロニケの手紙には、反キリストをとどめる方、聖霊御自身が取り除かれる(追出される)ことについて書かれています。王はあるべきところから追出され、そして最後は「王殺し」に至るのでしょう。

繰り返すようですが、この「王殺し」の罪は決して、決して軽いものではなく、「この世でも、後の世でも赦されない」ものとなることを覚えて下さい。歴史がこの「王殺し」について語ります。

フランス革命で自らの王を殺したフランスの国民はその後、壊滅的な状態に陥ります。この革命の中で死刑、暴行、流血、テロが横行し、千、万という人々が殺されていきました。教会は閉鎖され、神父達は「信仰放棄」を宣言させられ、ノートルダム寺院では、主なるキリストの代わりに「売春婦」自由の女神として、礼拝されました。人々は、「理性の神、徳の神」と呼ぶ、ルシフアー礼拝をするようになりました。

20世紀の始めにロシア革命の中で自らの王である、ツアー(皇帝)一家を殺害したロシアも話は同じです。彼らは王を殺して何を得たでしょうか?平等な共産主義国家どころか、殺りくと暴力と圧制の「収容所群島ソ連を生み出したのです。この国はソルジェーニツインによれば、「国民の1/3を断頭台に送った」という恐るべき、牢獄国家です。彼等はかつての豊かなロシアを捨て、恐るべき、貧困と混乱の国を得たのです。これが彼らが率先して行った、「王殺し」の結果であり、報いです。

これらのことがらは悲惨ですが、しかし、それでも来るべき「真の王殺し」の型であることを知るべきです。本番はこれからなのです。

終末の王殺しは聖霊なる王を殺すことであり、そのための布石は着々とサタンにより打たれています。

かつての王殺し、主イエスの殺害のためにもサタンが用意周到に企みを企てたことを思い出さねばなりません。かつて彼はヘロデ王をたきつけ、ベツレヘムの2才以下の男の子の皆殺し」を実行させました。
しかし、それでも殺害できなかったので、今度はイエスの公生涯を妨害し、律法学者、パリサイ人にイエス殺害の思いを与えました。そして、最後には、彼らに先導された群集を通してこの「王殺し」を実現したのです。

彼は今、終末の王殺しの準備を進めています。着々と進めているのです。主によって目が開かれた人はそれを見るでしょう。今、世界を覆おうとしている「獣のリバイバルはその布石であり、この霊をその「右の手か額」に受けた人々は決して来るべき聖霊リバイバルを認めることができないでしょう。

また、曲がり切ってしまった「神学」は獣のリバイバルを掩護し、聖霊による油注がれた者達を非難するために用いられるでしょう。

時はおおいに熟しています。「まだまだ」と思っている人はこの時代を見分けられないのです。

さて、これらの理解に基づき、上記テキストを見ていきましょう。

”19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。”

ここで主の十字架には、「罪状書き」が書かれていました。この「罪状書き」は、このイエスの死の意味、理由を語ります。彼は何故殺されたのでしょうか。このは罪状書きには、ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」
と書いてありました。ですから、この主の死はダニエルがいう70週の間、神の民を統治した「王自身」を殺害したのだと聖書は語っていることがわかります。

”20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。”

おおぜいのユダヤ人、神の民はその理由を読み、知ります。終末の黙示録にも十字架につけられる主について書かれています。その十字架の理由もこの主イエスの死と同じ理由です。聖霊はこの「神の民」を70週、すなわち、教会時代の始めから終わりまで統治した唯一の方、王なる主イエスの霊であり、そしてそれゆえに彼は「かの都」すなわち、堕落した教会で十字架につけられるのです。また、この罪状書きは「ヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語」で書かれていました。これは何を意味するのでしょうか。
私の個人的な感想ではこれは、聖書に関することがらではないかと思われます。
聖書は御存じのように、旧約がヘブル語、新約がギリシャ語で書かれています。そして、またラテン語もまた聖書と関係の深いことばです。かなり長い間、私の記憶では、1000年もの間、聖書はラテン語に(のみ?)訳されており、どの国の人もラテン語が読めないと聖書が読めない、そんな時期が長く続きました。このことは結果として一般の人々から聖書を取り上げることになり、大きな損失を教会にもたらすのですが、しかし、良い悪いは別として、歴史的な事実であり、事実、聖書はラテン語と非常に関係が深いのです。

ですから、この3つの言語で「ことばなる方」主イエスの十字架の罪状書きが書かれていたということは、もしかするとこんなことをこの事実は語っているのかもしれません。すなわち、彼らは「神のことば」そのものを殺したのだということを聖書は語っているのかも知れません。

"21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」"

ここで問題になっていることがらは、ユダヤ人は彼らの王を殺したのか否かということです。
当然ながら、ユダヤ人の祭司長たちは「自分達が王を殺した」という主張に同意せず、この罪状書きを書き改めるよう要求しています。しかし、結果はどうなったでしょうか。この罪状書きの訂正は行われず、このナザレのイエスの頭上には、ユダヤ人の王」との罪状書きがその死に至るまで、かかっていたのです。そうです、その通りです。彼らがこの国を70週の間、統治したその王そのものを殺したのだということは今、人の前に神の前に明らかに書きしるされたのです。

私達は、終末に起きようとする「王殺し」に決して加担することがないように、むしろ今の時代の主のみこころを行なえるように祈りましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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キリストを王として迎えず退けて裁かれる終末の民

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No.238 王殺し


テキスト:”ヨハネの黙示録 11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

 

本日は、「王殺し」という題でメッセージします。終末の神の民は、教会の王である「キリスト」を王として迎えない、その為に裁かれるということを見ていきたいと思います。

さて、テキストの黙示録の箇所では、「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」で、私達の主が十字架につけられることが書かれています。
ここでは、「十字架につけられた」と過去形で記されています。これは適切な訳ではありません。
何故なら、この時制は、ギリシャ語のアオリストといい、過去、現在、未来に訳すことのできる特殊な時制だということだからです。
ですから、このことばは、「十字架につけられる」という様に未来形で訳すことが可能なのです。
というより、黙示録の記事はどれもこれも未来に関する預言の記事ばかりなのですから、未来形で訳す方が妥当なのです。

ですから、ここでは、終末の教会ーそれは別名ソドムやエジプトと呼ばれるものですがーにおいて、
聖霊として来られた主は、「十字架」につけられるのです。それをこの黙示録の箇所は語っているのです。

さて、この「十字架につける」という表現で聖書は我々に何を語っているのでしょうか。
それを理解するためには、主イエスが十字架につけられた福音書の記事が我々の助けになります。
 

”マタイ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(遣わす)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。”

この主イエスが十字架につけられる箇所を読む時、非常に特徴的なことは、彼らが実は、「自分達の王」を十字架につけたのだということを聖書は強調しているということです。以下のように、そのことに関する節が多く記されています。

「総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。」

「29 そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

非常に残念なことは、彼らは、彼らの国の王として来られた方をそれと知らずに十字架につけてしまったのです。そして、それこそが、彼らエルサレムの住民が、この殺害の40年後に滅ぼされる理由なのです。エルサレムは紀元70年にローマ軍に包囲され、十字架は林立し、住民は滅ぼされたのです。

そして、このことは終末の時代の型です。終末の時代にこのことがらは、もっと大規模な形で
成就します。終末の日、聖霊としてこられた主を王として、受け入れることを拒み、十字架につけた神の民は、裁きに入っていくのです。

上記マタイ27章を順に見ていきたいと思います。

”11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。”

ユダヤ人の王」ということを考えてみましょう。ユダはその当時において、唯一神の民の住む地とされていた国です。(この時は北イスラエルは補囚とされ、存在しない)
「あなたはこの国の王なのか」というビラトの質問に対して、はっきりと明確に主は「そのとおりです。」と答えました。

ですから、この時、神を知っている、聖書を知っている、律法を守っていると自負していた民は何と、自分の手で、「待望していたメシヤ、王」を十字架につけるという大失敗をしてしまったのです。
これは、大変などんでん返し、逆転、大失敗、大損失だといわざるをえません。

今私達がかつての彼らの失敗を笑うのは簡単ですが、しかし、終末の日にこれと同じようなことが起きないとは限らない、笑ってはいられないのだということを知らなければなりません。

”12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。”

さてこの国の真の王であるイエスは、「祭司長、長老たち」から訴えられました。

このことは非常に皮肉です。本来なら、聖書を知っているはず、わかっているはず、だから、最初に「王である方」を認めるべき彼らが、率先して間違え、誤解し、あまつさえ王の命を奪ってしまったのです。このことは終末の日に全く同じように繰り返されます。本来、神を知り、王である聖霊として来られた方」を知っているはずの牧師、教師達が率先して、間違える時がきます。いいえ、もうすでに来ています。偽りの教え段階携挙説に加担し、恥じようともしない教師達は、まさにこの方を十字架につけるべく画策しているのです。

これらの祭司長、長老たちの訴えに対して、「ことばなる方」エスは一言も答えられませんでした。しかし、これらの「祭司長、長老たち」はそれから40年後のエルサレムの崩壊の時、ともに滅ぼされてしまったのです。同じように今の時代も教会における、あらゆる偽りの教えに関して、聖霊御自身も何も答えず、弁解もしないかのように見えます。しかし、それをもって図にのっている人びとには、いずれ必ず裁きの時が来ることを知るべきです。

”15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(遣わす)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」”

彼らは自分達の王である方を十字架につけ、そのかわりに「暴動と人殺しのかど」で牢に入れられていた男を自由にしたのです。これは非常に象徴的なできごとです。何故なら、終末の日にも神の子達は、自分達の王である聖霊を十字架につけ、その代わりにあろうことか、「人殺し」サタンを解放するようになるからです。

このバラバは囚人でした。彼は捕えられていたのです。同じように教会時代の間、このサタンの働きには、制限が加えられていたのです。そして、だからこそ、我々クリスチャンは、どうにか間違えずにやってきたのです。しかし、終末の時代の恐ろしいことは、このサタンをとどめていた方、その方が教会から追出され、そのため、彼、反キリスト、サタンが自由に教会を荒し回るようになることです。このことに関して以下のように書かれています。

”テサロニケ人への手紙第二 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。”

バラバ、すなわち「父の子」という名前も象徴的です。聖書でいう父とは、「父なる神」という意味あいもありますが、もう一人の父「あなたがたの父は悪魔です」と主がいわれた「悪魔なる父」をさすこともあります。人殺しバラバは、どう見ても「父なる神」というより「悪魔なる父」の子の型でしょう。ですから、終末の日に、人びとは、聖霊を十字架につけ、その代わりにサタン、反キリストの霊を解き放つのです。

彼は人殺しのかどで牢に入れられていたました。一方、サタンは「始めから人殺し」です。そういう意味でもバラバは終末の日に解き放される反キリストをあらわすかのように見えます。

”27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。”

さて、ここでイエスの着物に関する記述があります。その人の着物はその人が行くところ、どこでも行動を共にします。そういう意味で、着物は「イエスにつく人びと」をあらわすように見えます。この着物に関して、マルコ15:24にこう記されています。

”マルコの福音書 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。”

くじはエステルの時、ハマンがモルデカイにつくユタヤ人を殺害する日を定めた時に使われました。
ですから、殉教、迫害と関係がありそうです。

エスの着物が脱がされたように、主につく人びとは主イエスからからひき離され、「あいつらは異端だ、キリストの教えとは関係ない」と全世界、全教会に向かって宣言されるのでしょう。逆に「緋色の上着で象徴される人々こそが「真のクリスチャン、正しい、正統的なクリスチャン」であるといわれる時が来ます。この「緋色の上着とは以下の人々を表すのではないでしょうか。

ヨハネの黙示録 17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。”

この女はバビロンなる教会であり、彼女は、「神をけがす名で満ちて」います。
そして、終末の日に、「この教会こそ、イエスキリストの真理を保つ正統な教会である」と世界に向かって宣言されるのでしょう。しかし、このようなことがらは、冒涜であると聖書は語ります。

蛇足ながら、現在、ある教会のお坊さんたちが緋色の上着を来ていることに注目しましょう。
また、この教会の長である「ローマ法皇の数字は数秘学上、666であるとのことです。666とは、反キリストの数であり、まさに、そのものずばりではないでしょうか。

”29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」”

右手に持たせた「葦」に関しては、こう書かれています。

イザヤ書 36:6 おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。”

葦は杖としては役立たないということをこの箇所は語っています。杖とは人の歩みを助ける者、今でいう教師をさします。ですから、ここで「葦」を持たせた彼らはイエスについて、「お前は我々の教師としては、役に立たない」と冒涜しているのです。

そしてこれは、終末の神の民に関する預言であり、「地上の誰をも教師と呼んではいけない、あなた方の教師はキリスト一人である」と語られた主を冒涜する神の民の予表です。彼らは「創世記は神話だ」「進化論は正しい(創世記の記録はおとぎ話)」だと冒涜的なことを語る教師達を尊重し「真の教師」を捨て去っています。人間の知恵に満ちた解釈書を優先して、真の教師を軽んじています。また、真の教師に聞き従おうと語る人々を迫害しています。
彼らこそ、主イエスを十字架につけ、その手に葦を持たせた人々の子孫なのです。

ですから、今の時代、人の声に聞き従い、聖霊の声を退けることにはみこころがありません。

”そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」”

彼らはこの時、王として来られたイエスをあぜけったのですが、同じように、終末の日にも聖霊があざけられる日がきます。このあざけるとは、具体的には、どのようになるのでしょう。
恐らく、真に聖霊を受けた人々が、「悪霊つき、異端」と多くの「神の民」であるクリスチャンからあざけられるのでしょう。

かつて、真に神からの霊をその肉体に受けた方、主イエスはあざけられ、排斥されました。
同じように終末の日にも真に神の霊を受けた人々は排斥され、あざけられるのではと思われるのです。

「そんなばかなことが起きるものか」と思うかもしれませんが、あり得るべきでないことが
起きる、それが、「彼らの罪が満ちる時」終末なのです。

すでに多くの神の子は、「ことばは神である」といわれた方を冒涜し、そのことばに公然と
あざけりのことばを投げ付けています。主イエスの復活を「それは作り話だ」「民衆の願望がこのような復活物語を創造したのだ」などと恐れげもなく、言い放つ某教会の人々は、神のことばを冒涜し、「ことば」なる方を嘘つきだと決めつけているのです。
彼らはすでに命のパン、「神のことば」にこのようにありとあらゆる冒涜を繰り返しているのです。
もう一つの象徴、「ぶとう酒」であらわされる聖霊に対して、冒涜をしないはずはありません。

悪霊である「マリヤをかたる霊」や、獣の霊トロントブレッシング」の霊を受け入れ、「これこそ、聖霊だ」などと冒涜的なことをいっている人々は、後の日にこの「ことがら」に加担するようになるでしょう。このことがらとは、終末の日に真に神の霊、聖霊を受けている人々が、「悪霊つき」「異端だ」と排斥されることをさしているのです。

”30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。”

彼等は葦でイエスをたたきました。「葦」は杖、教師のたとえとして用いられています。ですから、教師として来られた方を
見分けることができず、口々に「あれは悪霊だ」と非難し、ばかにするときが来るのでしょう。

”31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。”

主が十字架につけられる時には、「緋色」の着物、バビロン化した人々ではなく、もとの着物、すなわち、主につく人々とともに十字架につけられたことがわかります。

ですから、真に主につく人々は終末の日に主のため、聖霊としてこられた方のために、苦難をうけることがわかります。

しかし、その苦難は、聖書によれば、「今の時の軽い苦難」であり、これは後の日に我々に「重い栄光」をもたらすことを知らなければなりません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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終末の悪霊解放と聖霊の追い出しについて。

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No.237 バラバ


テキスト:マタイ27:”15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。
17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(遣わす)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」”

 

本日は「バラバ」という題でメッセージしたいと思います。
私達の主が当時の「神の民」の間で十字架につけられた時、彼らは預言的な行動をしました。
それは、自分達の王を十字架につけるとともに「バラバ」という名前の囚人を釈放するよう、求めたのです。

これは非常に意味のある「預言的な行動」のように思えます。何故なら、黙示録によれば、終末の日にも聖霊として来られる主は、「ソドム、エジプト」と呼ばれる教会で再び十字架につけられるからです。
この時、恐らく、かつての「バラバの釈放」が再度行われることと思います。その意味あいを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。

”5 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。”

この囚人に関してルカ伝ではこう書いています。

”ルカ23:19バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。”

彼らは自分達の王である方を十字架につけ、そのかわりに「暴動と人殺しのかど」で牢に入れられていた男を自由にしたのです。これは非常に象徴的なできごとです。何故なら、終末の日にも神の子達は、自分達の王である聖霊を十字架につけ、その代わりにあろうことか、「人殺し」サタンを解放するようになるからです。悪魔は人殺しであることを聖書は以下のように語っています。

ヨハネ福音書 8:44 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。

このバラバは囚人でした。彼は捕えられていたのです。同じように教会時代の間、このサタンの働きには、制限が加えられていたのです。そして、だからこそ、我々クリスチャンは、この時代をどうにか間違えずにやってきたのです。しかし、終末の時代の恐ろしいことは、このサタンをとどめていた方が教会から追出され、そのため、彼、反キリスト、サタンが自由に教会を荒し回るようになることです。
以下のように書かれています。

”テサロニケ人への手紙第二 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。”

この「不法の人」は、引き止める者、聖霊が取り除かれ(追出され)たゆえに、出現が許されることがわかります。

バラバは人殺しのかどで牢に入れられていたのですが、サタンは「始めから人殺し」であり、そういう意味でも彼は終末の日に解き放される反キリストをあらわすかのように見えます。

ですから、終末の日、彼らは命の君を拒み、人殺し、悪魔を解放する道を選ぶようになるのです。
このことに関して、使徒行伝には、以下のように書かれています。

使徒の働き 3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、”

ここでは、正しい方、主を殺すことと、人殺しを解放することとが1セットで語られていることがわかります。そうです。この2つは1セットであり、一つの物事の表と裏のように関係があるのです。

終末の時代に「人殺し」悪魔が解き放たれたということは、単に目新しい聖書解釈とか、突飛な考えというのではなく、我々が真剣に考えるべき事柄であると、私は思います。

例えば、私達は動物園に行くと猛獣ライオンをみじかに見ることができます。ライオンは猛獣であり、危険な動物ですが、しかし、動物園で見る限りは安全です。何故なら、そこには檻があって、ライオンはそこから、自由に出ることはできないからです。

しかし、このライオンが檻から出て、しかも腹をすかしていれば、話は全然かわります。
我々など、いっぺんで餌食になってしまうでしょう。

ですから、終末の時代とは今迄の教会時代の常識が全く通用しない全然別の時代だということを知るべきです。何故なら、暴動、人殺しの専門家、悪魔が解放され、自由に我々を襲う時代になったからです。

"16 そのころ、バラバ(父の子)という名の知れた囚人が捕えられていた。"

バラバ、「父の子」という名前も象徴的です。聖書でいう父とは、「父なる神」という意味あいもありますが、もう一人の父「あなたがたの父は悪魔です」と主がいわれた父をさすこともあります。人殺しバラバは、どう見ても「父なる神の子」というより「悪魔の子」の型でしょう。ですから、終末の日に、人びとは、聖霊を十字架につけ、その代わりにサタン、反キリストの霊を解き放つのです。

"17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」"

キリストとは「油塗られた」という意味であり、これは、聖霊を予表したことばです。
ですから、ここでの「キリストと呼ばれているイエスか」というピラトの質問には、「あなたがたは、サタンの霊を解き放って欲しいのか、それとも聖霊をか」という予言的な意味あいがあるのです。

”18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。”

この時、聖霊を受けたイエスはいやし、悪霊からの解放など、あらゆるすばらしい神のわざをあらわしました。これは、人々の賞賛を呼び起こしましたが、一方「他の神の子」たちからのねたみをひき起こすことになるのです。終末の日に、聖霊の油注ぎを受けた人々も同じようにすばらしい神のわざを拝するでしょう。一方、「他の神の子たち」からのねたみを買うことにもなるでしょう。

”19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」”

しかし、終末の日に「あの正しい人々にかかわり合う」ことにはみこころがありません。

”20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。”

この時、「祭司長、長老たち」すなわち、今でいう教会の長となる人々は、この「バラバを解放」するよう、説きつけました。同じように終末の「悪霊のリバイバルに関して、「これこそ、神からのリバイバルだ。この霊をもっと解放し、受け入れよう」などという教師、牧師が多数あらわれるのでしょう。しかし、彼らは聖霊と悪霊の区別すらつかない盲人です。そして彼らはこれから起きる「神からの真のリバイバルを悪霊だと決めつけ、迫害するように神の民に語り、説教するようになるのでしょう。「イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた」と書かれている通りです。

”21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」”

この時、2人のうちどちらかが釈放されるべきでした。二人同時の解放はありえず、どちらか一人だったのです。そして群集はバラバ、人殺しを選んだのです。同じことが終末の日に起きるでしょう。いわゆるクリスチャンの多くが盲人になり、あろうことか、人殺し、サタンを選び、その霊を自ら、受けるようになる日が来るのです。いいえ、例の獣のトロント、ペンサコーラリバイバルでは、このことがすでに神の民の間で、実現しています。

”22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」”

ここで聖書は非常に単純な事実を語っています。すなわち、「バラバの解放を選んだ」群集はまた、「キリストといわれる方」を十字架につけることを選ぶという事実です。この2つも合わせて1セットであり、これらは一つの組み合わせなのです。

このことは確かに確かに終末の日に実現するでしょう。今、起きている獣のリバイバルに狂奔し、自ら、その霊を「右手か額に」按手されている人々は、後の日に必ず、聖霊を十字架につけるようになる」のでしょう。

このことは具体的にどのように起るのでしょうか。
主イエスの時には、彼らは聖霊をその肉体に宿した方」エスベルゼブルと呼び、最後にはその肉体を十字架につけて殺しました。同じように終末の日に下る聖霊により「油注がれた人々」も悪霊つきと呼ばれ、そしてその肉体が殉教するのでしょう。

繰り返しますが、今、獣のリバイバルにより「印」を受けている人々はこのことにきっと加担するようになると思われるのです。

ですから、今、正しく主に聞き、これらの霊を見分けることを求めることは何と大切なことでしょう。
このことは永遠に至る区分を我々にもたらします。そして、主にきく人々はこの霊を見分け、「悟り」ます。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー


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70週の終わりに殺される王とは。そして殺す者とは。

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No.236 「70週の終わりの王殺し」


テキスト:”ダニエル9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

 

本日は「 70週の終わりの王殺し」という題でメッセージします。神の統治の末の時代に不法に陥る「神の民」「王殺し」を行うということを見ていきたいと思います。

テキストはダニエル9章です。順に見ていきます。

”9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。”

ここで聖書は、「あなたの民とあなたの聖なる都」、今でいえば、新約の神の民、クリスチャンに関して「七十週が定められている」と語りました。

実際の年月を考えるなら、このエルサレムを再建せよ」との命令が出た時から、終末と思われる現在の時まで、2千数百年、経っています。この数字は、決して、70週でもまた、70 x 7=490年でもありません。しかし、聖書はそのように書き、「終末のその時までは、70週」なのだと強弁します。これを見ると、この「70週」ということばに何か隠された意味あいがありそうです。どうしても「70週」でなければならない理由が何かありそうなのです。

それを考え、70週の意味あいを見てみましょう。
70週の意味あいの一つは、「兄弟の罪を許す」期間であるということです。以下の通りです。

”マタイの福音書 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

「七度を七十倍(70の7)」までは神は忍耐されるのです。しかし、決して「無限に罪をゆるし、忍耐する」のではなく、この70週が過ぎれば「裁きの時代」にはいるのです。
70週の最後の半周(3年半)はよくいわれる大艱難時代です。この時、「真に主につく人々」への迫害が起きます。しかし、主が忍耐し、罪を赦すのは、「七度を七十倍するまで(70の7=70週)」迄であって、この三年半の「聖徒達への艱難の時代」が終了し次第、すぐに「裁きの時代」に入ります。
その時は、黙示録に記されている、「淫婦への裁き」の時なのです。

さて、70週(70の7)という数字を考えてみましょう。
聖書は「知恵ある方」が著者であるといわれている唯一の本なのですから、この書のあらゆることがらに神の知恵が満ちています。数字においてもしかりです。

聖霊にあって、これを見ていく人々はこれを悟ります。

70週(70の7)とは明らかに2つの数字からできている数字です。
すなわち70及び7です。まず始めに7という数字をみましょう。7とは黙示録に「7つの教会」と書かれているように教会と関係がある数です。

さて、70に関してみていきます。これに関して以下のような箇所があります。

イザヤ書 23:15 その日になると、ツロは
、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。”

70年は「ひとりの王の年代」なのです。

ですから、この2つの数字、70と7がかけあわされた数字である70週(70の7)とは、「一人の王が教会(旧約においては神の会衆)を治める統治の期間」であることがわかります。

この一人の王とは誰のことでしょうか。こんなに長い間、民を納める王とは誰のことでしょうか。
その一人の王についてサムエル書はこう記します。

”サムエル8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。”

この「一人の王」とは神御自身であり、教会時代においては聖霊なる方のことなのです。
そして、70週の終わりに神の民に裁きが下るとは、彼らがこの王なる方に人々が不従順であったことを暗示します。

このダニエル書の箇所では、69週の後に、すなわち70週の終わり頃、すなわち、神の民を治める方、主なる神の治世の終わりに「油塗られた方」が絶たれる、すなわち殺される事が記されています。
これは具体的には主イエスの十字架のことです。そしてこの主の十字架の死はこの70週の預言と密接に関連していることをこの箇所は述べます。ですから、いわんとしていることはこういう事です。
主イエスの十字架の死のもう一つの隠された面があるということをこの箇所は言っているのです。

この死は単にナザレの人が33年の人生を終えたということだけではないのです。そうではなく、70週に渡るこの神の国、すなわちこの地上において、唯一神が支配されるイスラエルの国の最後の最後になって、「神の民」はそのそむきのきわみに達して、あろうことか、その「王」を殺す、十字架につける、そのことをいっているのです。主イエスの死は、一面では人間としてナザレ人と呼ばれた人の死ですが、もう一面は70週(70 x 7=490年)にわたって、この国を統治してこられた方、神御自身を殺すことをさすのです。

主イエスが十字架につけられる前にポンテオピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか」との問いに「その通りだ」と答えたことを思い出して下さい。彼らはこの「王」を殺したのであり、神の国を統治したまさにその王なる方を殺したのです。これを「そむきのきわみ」といわないで何というべきなのでしょう。

上記ダニエル書の「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ」という言葉も実は、「王殺し」を暗示することばです。

旧約聖書をよく読む人は「油そそがれた」とはある特定の人々と結びついた表現であることを知っているはずです。
たとえば、秋葉原といえば、暗黙の了解として「電気街」という連想があります。また、霞ヶ関と聞けば、「役人の街」というような連想があります。

同じように「油塗られた者」とはある特定の人々と関係しています。そもそも「油注ぎ」は旧約において、「王」が建てられた時に行う儀式なのです。サウル、ダビデ、ソロモン等、歴代の王は「油注ぎ」を受けて王としてその任につくのです。

ですから、「油注がれた者は断たれ」という時、実は「王殺し」を暗示した表現なのです。
そして、もう一つ暗示していることがあれば、それは神の油、聖霊に関することがらだということです。

さて、この70週の預言はこの主イエスの時だけに成就するのでなく、終末の時代にもっと本格的に成就することは多くの人が知っていることです。
そして、この時、この「70週の終わりの王殺し」ということがらはもっと明確に成就します。

それを成就することばとして、黙示録には「ソドム、エジプトと呼ばれる都で十字架につけられる主」について書かれています。この主とは聖霊としてこの教会という神の国(王国)」を70週にわたって、統治した方のことです。新約の神の民もその70週の終わり、治世の終わり、そむきの罪のきわまった時、その象徴的なことがらとして、「王殺し」に加担します。

この時の王は聖霊として70週にわたる「教会時代」を治めた方をさします。
聖霊は霊なので、霊を殺すとか、十字架につけるとかはおかしな表現と思う人もいるかもしれません。
しかし、具体的にはこのことは、「油注がれた者」達の殉教という形で起こるでしょう。
以下の黙示録11章の預言者で象徴される終末の神の民のことをさします。

”黙11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

これは単に二人の個人をさすのではなく、二つの燭台と書かれているように終末の2つの教会をさすのです。彼らの死、死体に関して同じ章にこう書かれています。

”黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

何故、彼らの死について書かれている箇所に「彼らの主もその都で十字架につけられた」ことが書かれているのでしょうか。聖書は神の知恵によって書かれているので、ほんのささいなことがらにも神の隠れた知恵が隠れています。それは、彼らを殺すことが実は、具体的には聖霊なる方、王なる方」を殺すことになるからです。

これはあたかも2000年前、肉体をもたれた方、イエスを殺すことがそのまま70週にわたりこの国を統治した王なる神を殺すことに通じたことと同じです。
主イエス「油注がれた方」であり、「王」に相当します。そして、この黙示録の2人の預言者もゼカリヤ書によれば、「油注がれた者」なのです。

ここには、「王殺し」という隠された意味あいが語られているのです。もちろん彼らは神でも、聖霊御自身でもないのですが、しかし、聖書はこの「油注がれた者たち」を殺すことがそのまま、教会を統治した聖霊なる方を殺すことに通じると語っているのです。主がそう語られるなら、我々はそう読むべきなのです。

ですから、この70週の預言には明らかに「神の民による王殺し」という隠された意味あいがあります。それを理解する時、この預言の語ろうとしていることがらが見えてきます。

次を見ます。

”25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。”

「引き揚げてエルサレムを再建せよ」とは、バビロンに捕囚された民に対して語られた命令です。
ですから、エルサレムの再建」、教会の回復とは、70週の始め、それこそ教会時代の始めから、神が命令され、計画されていることなのです。今私達はこのことに関わろうとしています。神の大きな計画にあずかろうとしていることを知るべきです。

「苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」と書かれています。広場は「人が集まる場所」としての教会のたとえでしょうか。ほりには、水があふれます。聖霊の働きが純粋なものへ、悪霊の働きの混ざったものから回復されることが伺われます。

”26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。”

油注がれた者は「断たれ」とは、以下の「断ち切られる」と訳されたことばと同じです。

出エジプト記 31:14この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」

要するに「油注がれた者」「神の民」の間から、排斥されるということです。
このことは、主イエスの時、起こり、「油注がれた者」主イエスは民の間から、排除され、殺されました。同じことが終末にも起こり、終末の日に聖霊を受けた人々が、神の民の間から、排斥され、また殺される日が来るでしょう。

その結果、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」ようになります。
この「来たるべき君主」とは、キリストすなわち聖霊「油注がれた者」とは反対の者であり、悪霊の油注ぎを受けています。悪霊自身のことをいっているのかもしれないし、それを受けている人々のことかもしれませんが、何しろ、この霊は「町と聖所」すなわち、教会とその礼拝場所を破壊します。

「その終わりには洪水が起こり」ということですが、これはいわゆる水、H2Oによる洪水ではありません。何故なら、神は明白に、水による洪水を二度と起こさないことをノアに誓われたからです。
かえって、これはたとえであり、「水」により象徴される「霊」の洪水と思った方が正しいでしょう。
終末には、「霊の洪水」が起きます。「とりこにされるべき人々」はこれを「来るべきリバイバルが来た」と誤って呼ぶでしょうが、実際はこれは、「悪霊の洪水」です。

また「その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」ということです。
ですから、教会の荒廃は定められているのです。

その理由は何故でしょう。何故、70週の終わりに教会は荒廃するようになっているのでしょう。
それは、この神の国(領土)」である教会を70週に渡って治められた方をその治世の終わりに殺すからです。かつてイギリスのピューリタン革命の時、イギリスの王が首を切られて殺されました。
その後、この「王殺し」に加担し、署名した多くの人々は死刑になりました。王を殺して、無事に済むと思ってはいけないのです。

”27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

彼、反キリストは1週の間、すなわち7年の間、多くのクリスチャンと堅い契約を結びます。
この「契約」ということばは以下で使用されていることばと同じです。

出エジプト記 34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは<契約>を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。

出エジプト記 34:12 あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と<契約>を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。

出エジプト記 34:15 あなたはその地の住民と<契約>を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。

出エジプト記 34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと<契約>を結んだのである。」

出エジプト記 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に<契約>のことば、十のことばを書きしるした。”

これらのどれもこれも「神と人との契約」をさすことがわかります。聖書は、人と神との間の信仰、契約について書かれた本であり、政治に関する本ではありません。

だから、「7年の中東和平が来る」とか、「中東のイスラエルが周りの国々と7年の間、和平の契約を結ぶ」などという人々は、新聞の読み過ぎであり、「聖書の原則、基本的考え」に基づいてもう一度聖書を読みなおすべきです。

彼らは神の知恵により頼むよりも、むしろ人の知恵に満ちた解釈書を頼りにする愚か者であり、それゆえに、こんな「ガセネタ」をまんまとつかまされているのです。

ですから、聖霊を追出した神の民」聖霊ならぬ悪霊を受け入れ、信じ、頼り、祈り「契約する」7年間があるのです。そして、その中でますますこの「(悪霊の)リバイバルのうねり」は高くなり、その後半の三年半は「異端者」を排撃するようになるでしょう。

”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる”

聖霊に聞き従うことを禁止する三年半があります。

この三年半の「教会」の状態は、イエスの時代について語る以下のことばが説明していると思われます。

ヨハネ福音書 12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。”

三年半のイエスの公生涯の中で、「油注がれた者」キリストへの信仰、告白は神の民の権力者、パリサイ人たちによって「禁止」されていたのです。また、彼らはイエスを信じる者を会堂から追放しました。
これは驚くべきことです。神の長年の約束とおり、また神の民の祈りに答え、福音を携えてついに天から下った神の子を信じると、するとその人は何と神の民の会堂から追放されるというのです!

これは驚くべきことですが、同じようなことが終末にも起きるでしょう。終末の日、聖書の約束通り、後の雨は下り、約束の聖霊は下りますが、悲しいかな、その時、多くの神の民は聖霊ならぬ」霊を受けており、その悪霊の惑わしにより、この「方」を受け入れることを公に禁止し、それでもなお、この方(聖霊)を受け入れる人々を「教会から追放」するようになるのでしょう。これが、”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる”と書かれたことの意味です。

そのような半週、3年半が70週の最後の最後にあるのです。

”荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。”

この部分は、KJV訳ではこうなっています。

「荒らす者があふれるために、彼はそれを完全に荒廃させる。定められたものが荒廃したものの上に注がれる。」

「あふれる荒らす者」とは洪水のような悪霊の注ぎかけであり、背信の教会は、このリバイバルの中で滅んでいくことがわかります。

ですから、「70週の預言」とは、神の国である「教会」を統治した王、聖霊の殺害を預言したものであることを知るべきです。

しかし、このような時代であっても私達はこの「王」なる方に忠誠を尽くしていきたいと思います。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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主イエスの生涯は、後の日の聖霊の働きの「型」

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No.235: 聖霊の型としてのイエス


テキスト:”マタイ12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。”

 

聖書を通して主イエスの生涯を見る時、はっきりと教えられることは、主イエスの肉体をもった生涯は、後の日の聖霊の働きの「型」だということです。

このように考えることが今の神学にかなったことなのかどうかは知りません。しかし、聖霊の型としての主イエスの生涯」は、確かに聖書が繰り返して語っているように思えます。それでそのことを今日は見ていきたいと思うのです。

エスはこういう方だとか、聖霊はこうだとかの類いの話をすることは、今のキリスト教会ではなかなか難しいことのようです。何をいっているかというと、これらの話題に関して少しでも今までの神学と異なることをいうと「三位一体の教理と外れている」「異端だ」などといいだすヒステリックな人々が多いからです。しかし、そうではあっても、私達がこの時代に主のしもべとして立つなら聖書が明確に語っていることをないがしろにはできないのです。

主イエスの名前、イエスキリストという名前からして、聖霊を暗示する名前です。
キリストとはよく知られているように「油塗られた」という意味あいがあり、油とは、霊、聖霊のたとえだからです。ですから、この方の生涯を見ていく時、聖霊とはどのようなお方なのかということを理解することができるのです。

主はかつて自分と聖霊との関係に関して「助けぬし」「もう一人の助けぬし」と表現されました。
以下の通りです。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。”

ですから、主イエスの生涯と聖霊との間には、特別な関係があるのです。
聖書は、モーセ聖霊の関係に関して、「助けぬし」「もう一人の助けぬし」とは書かず、またアブラハム聖霊との関係に関しても「助けぬし」「もう一人の助けぬし」とは書かなかったのです。
それで、我々はこの目に見えない聖霊という方を理解するのに、目に見えた方、主イエスの生涯に注目すればよいことが理解できるのです。

また、聖書は、この聖霊が実は主イエス御自身の霊であることをも語っています。以下の通りです。

ヨハネ16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。”

ここで主が「わたしはもう一度あなたがたに会います。」といわれているのは、実は聖霊として来られる主イエスについて語っているのです。だからこそ、主は「世の終わりまであなたがたとともにいる」といわれたのです。

さて、以上のことを念頭に置き、上記テキストを見ていきましょう。

”マタイ12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし”

ここで主はいやしのわざをしました。

”16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。”

そして、その後、不思議なことをされました。人々に自分のことを「知らせないようにと、彼らを戒められた」というのです。

このことは不思議です。主イエスは無名の人になりたかったのでしょうか?誰にも知られたくなかったのでしょうか。しかし、それにしては、ナザレから出て、エルサレムをめざし、そして、多くの群集に歓迎されたエルサレム入場」を果たしています。これらの事実は矛盾しています。いったい、主は人々に知られたいのか、それとも知られたくないのか、どうしたいのかよくわからないのです。

しかし、このことは視点を変えて、聖霊の型」としての主の生涯を考えるなら、理解できます。
何故なら聖霊の一つの特徴は、「そのわざが人々に認められない、知られない」ということにあるからです。
聖霊はかつても今も多くのわざをなしています。しかし、この方はへり下った方であり、そのわざを主張しません。それで、多くの人はこの方に気付かないのです。

たとえば、このようなことがあります。
ある兄弟が職場でリストラされそうになります。それでその人は主に祈ります。「何とか、私の雇用を守って下さい。」それで、聖霊なる方は働かれ、その兄弟の雇用は守られます。
しかし、この時、確かに聖霊が働かれたのですが、こんな考えが心に入ってきて、この兄弟は気付きません。「自分の能力が優れていたから、会社が認めてくれたんだ」
このようにこの方の働きは人の目にとまらないのです。

”17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。”

私の霊とは、聖霊であり、ここには聖霊の性質について書かれているのです。

”19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。”

「争うこともなく」すなわち、聖霊は、自己主張して、争うことをされない方です。
「叫ぶこともせず」、彼は自分のわざを吹聴しません。
「大路でその声を聞く者もない。」彼は、自分のことを声をあらげてアピールする方ではないのです。

”20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。”

私達がいたんだ葦のような者であり、傷ついていても彼はそれを折らず、癒してくれる方です。
また、「くすぶる燈心」すなわち、その心に聖霊の火が消えかかっているような者であっても、それを怒ってすぐ消そうとする方ではないのです。むしろ忍耐をもって再び燃えるように計らってくれる方です。
私達のうちに「公義を勝利に導く」ようとりはからって下さる方なのです。

”22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。”

ここで主の前につれられて来た「目も見えず、口もきけない人」がいやされ、「おしはものを言い、目も見えるようになった」ことが記されています。これは、勿論主イエスという個人がすばらしい方だということを示すのですが、それにとどまらず、聖霊なる方はどのような方かを示す箇所でもあるのです。
ですから、私達が「霊の目」が見えず、悪霊と聖霊の区別のつかない、聖書もどう読めばよいのか、わからない盲人であっても、聖霊なる方を求め、願うなら、その目が開かれることがわかります。
また、「おし」すなわち、神のことばの一言さえ、人前では言えないものであっても、それも聖霊にあって、いやされ、強められていくことがわかります。

2000年前、三年半の間、イスラエルの人々を助けられた「人として来られた」主イエスはすばらしい「助け主」ではありますが、年代的にも地理的にも我々とは遠い存在です。しかし、この方は「もう一人の助け主」「聖霊なる方」の型であり、その生涯は聖霊の働きを我々に理解させるためのものであることを知るなら、私達の目は開けるでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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