153と666

 

よく666は獣の刻印ですが、そもそもクリスチャンでない人間はあまり関係ないです。ヨハネ福音書でも書かれているとおりキリストを神としない時点で罪だからです。

罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。(ヨハネ16-9)

 

153の数字意味合いは、結論から言うとクリスチャン(真の神の民)の1/3で、666の数字の意味は2/3のクリスチャン(堕落した民)です。

そして153は、復活したイエス様が網を降ろしてみなさいと言われた聖書箇所です。

エスが、「今、とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペテロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大き魚でいっぱいであった。(ヨハネ福音書21-10〜11)

153

それぞれの桁数を3乗しても必ず153になります。

1の3乗+5の3乗+3の3乗=1+125+27=153

3の倍数なら必ず153に帰結します。つまり153は1/3を表す数字です。そして、復活したイエス様によって取る事が出来た魚の数なので最終的な神の民です。

 

666

まず、ヨハネの黙示録の8章では、ありとあらゆる1/3が死に絶えてしまいます。木や船や海の被造物や太陽や月や星(クリスチャンや教会等の例え)が全て神の怒りによって、破壊され死に絶えます。

そして、2/3は、 2÷3=0.6666であり、666になりまた以下の聖書箇所でも同じ数字が出て来ます。

4人の天使は、人々のうちの1/3を殺す為に解き放された。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。その騎兵の軍勢の数は二億で私は彼らのその数を聞いた。ヨハネの黙示録9-15〜16)

200000000×1/3=66666666

 

ゼカリヤ書にこう書かれています。

この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分のニは死に絶え、三分の一が残る。(ゼカリヤ書13-8)

 

だから、基本的にヨハネの黙示録で書かれているのはクリスチャンの1/3しか結局残らない、2/3は神の御怒りを受けてしまうという事です。

教会、全てが天に挙げられると教えられているのなら、それは惑わしの教理です。

悔い改めて神に立ち返り聖霊様と共に歩みましょう。

 

 

聖書の信仰に余計なものはいらない

最近、ネットでボッチクリスチャンという人が多いと知りました。聖書やキリストに関するものを読み信じ信仰をもつ事の出来る時代になりそれはそれで素晴らしいと思います。

しかし、キリストの体である教会はなるべく繋がれる人で繋がって下さい。ボッチクリスチャンははっきり言って弱いしいろいろと間違えている可能性が大です。

また、ネットでやたら情報ばかり集めて頭の中をパンパンにするクリスチャンがいますがはっきり言ってダメです。サタンの方はずる賢いので、いろいろな方法で惑わします。陰謀論で聖書をちょっと、かじったかのようにまさにこれが666だとか、悪魔のハンドサインなどそういったサイトを見かけます。

あろう事か、創世記が神話とかいうクリスチャンもいるようです。

当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6-4〜5)

この聖書箇所を、ネフィリムが堕天使?のように取り扱われ、堕天使と人間のハイブリッドが産まれた?などとものすごい解釈をするのは無理があると思います。だから、創世記は神話?という牧師が出てきてしまうのもある意味で納得してしまいます‥(汗

いつの時代でも、神は理由があって災いを下します。先程の聖書箇所では、人の悪が増しとはっきり書いてあります。イエス様も終わりの世は、ノアの洪水の時のようだと言われました。つまり、人の悪が増しているのです。

多分、エノク書が原因だと思われます。聖書は聖霊様に聞きながら読みましょう。今は、よく分からないトマスの福音書などもありますが、読んで惑わされるくらいなら読まない方がいいと思います。そうやって、徐々に真理の道からずらされ自分も入れないばかりか、他人も天に入らせないようにしてしまいます。

また、シンプソンズのアニメがこう言ってるからこうだとか普通の人なら分かりますがクリスチャンがいつまでも言っていたら駄目です。クリスチャンなら啓示を求めて下さい。

どうか、わたしたちの主イエスキリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。(エフェソ1-17)

初めに書いた手紙に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や霊によって、キリストの聖なる使徒預言者達に啓示されました。(エフェソ)

パウロも言っているように、今の時代は神が聖霊様を通して夢やビジョンでお語りになって下さいます。終わりの世は邪悪で、本当に神の力も信じていないクリスチャンが多いと思います。必ず聖徒にはお語りになって下さいます。しかし、惑わしの霊も働いているので全ての夢やビジョンも吟味して下さい。

もう一度言いますが、陰謀論と聖書の信仰ははっきり言って全く関係ありません。神との真の交わりに余計なものは入れないで下さい。

 

 

 

 

 

千年王国のたとえについて

 

f:id:yuumamatan:20250920101328j:image

 

千年王国についていろいろ言われていると思いますが、創世記から黙示録まで神の霊感により書かれているので一貫しており辻褄が合わないという事はありません。

千年王国という記事はヨハネの黙示録にしか書かれていません。文字通り千年と捉えてしまうと神のご計画とはずれてしまいます。聖書の事は聖書で解決しましょう。

まずは、愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日千年のようで、千年一日ようです。(2ペテロの手紙3-8)とペテロの手紙に書いてあります。

ですから、今はまずイエス様が来られて2000年以上経過し3日目で、旧約から数えて7日目です。だから、今が安息日にあたります。安息日については、以前のブログにも書きましたが1番大事なのは主の安息に預かる事です。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはし ない』と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある箇所で七日目のことについて、神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この箇所でも改めて「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心を かたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように自分の業を終えて休んだからです。(ヘブル4-1〜10)

言葉に捕らわれてしまいがちですが、私達クリスチャンは聖霊様がおられるのに自分(肉的)で仕事をしています。せっかく、出エジプト(この世)脱出したけれど、バプテスマを受け聖霊様が注がれても、肉で仕上げてしまう人が多いのです。その為、ヘブル書にも書いてあるようにほとんどの人が安息に入れません。

安息に預かった人は分かると思いますが、ある日を今日と決め、神がその人に安息を与えます。人の子は安息の主であるからです。そして、それが1日(7日目🟰安息日)であり千年のたとえです。安息に預かり主がその人をそれぞれ天国の家に休ませて下さいます。

ダビデ詩篇で、主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせて下さる(詩篇23-2〜3)

と書いてあるとおりに、神が信仰を義として認めて聖別された人なら、天国の住まいで休ませて下さいます。死んでから天国に行くのではなく、イエス様の血を通して天国へもう行けるのです。多くの人は、安息日の事を曜日の事だと捉えていますが違います。聖霊様の霊を通して天国に行かせていただきそこで安息するのです。

 

そして、千年王国という記述は黙示録しかありません。

わたしはまた、1人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経た蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神のことばのために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活するにあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。この千年が終わるとサタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。(黙示録20-1〜8)

なぜ千年間があるのかというと、キリストと共に統治するからです。

 

また、聖別の時は今少しずつ行われています。

今が、第七日目であり、安息日であり、神の民が聖別される日なのです。これから大艱難時代を通して王また祭司が決定します。

天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2-1〜3)

 

また、祭司の聖別の規定は、レビ記8章にあります。

あなたたちは、七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない。任職式は七日を要するからである。今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主の御命令によるのである。あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい。わたしは、そのように命じられている。(レビ8-33〜35)

祭司となる者は、この7日間死ぬ事がないよう命じられています。おそらく7日間が大艱難時代の7年間に匹敵するので、最後まで信仰を保つ事が重要です。

 

また、千年という長い期間がある訳ではない事を違う御言葉から見ていきます。

「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。」(ダニエル2:44)

ダニエル書にもあるように、獣の国があるうちに一つの国🟰(御国)を起こされます。ここでも、地上において千年間あるという記述ではないことが分かります。

さらに、詳しく見ていきます。

なお見ていると、王座が据えられ「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白くその白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎その車輪は燃える火その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き巻き物が繰り広げられた。さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来てそのもとに進み権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。(ダニエル7-9〜14) 

とあるように、獣の国のある時に、王座が据えられ、殉教者は祭司となり御前に仕えキリストと共に統治します。そして、獣と偽預言者は火に投げ込まれます。そして、千年(安息日=7日目)が終わるまではもうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。と書かれているとおりです。サタンは統治の間だけ縛られます。しかし、他の獣はその後も定めの時まで生かされてます。そして全ての権威や勢力を滅ぼし、父から王国を受け統治は永遠に続きます。だから、獣の国と御国はどちらもあり同時進行です。そして、戦いの決着がついて新しいエルサレムがくるのです。

 

また、実際に地上において千年間あり、エデンの園のやり直しという方がおられますが、本当にそうでしょうか?栄光の体を持った人と持たない人が地上において千年の間、平和に暮らせるでしょうか?いくらサタンが縛られていても肉的なクリスチャンだった事があるので、ハッキリ言いますが無理だと思います。クリスチャンであっても肉においては益がないからです。肉においては、ガラテヤに書かれています。

姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。(ガラテヤ5-19〜20)

今の教会でも、牧師や信徒同士のトラブルがあるのに栄光の体を持った者と持たない者が仲良く暮らせるはずがありません。また、イエス様も世の終わりには地上において千年の王国があると言われたでしょうか?また、宣教するときに神の国が近づいたと言われなかったでしょうか?仮に地上に千年王国があったら別の王国になってしまいます。今もイエス様は父の右の座に座り王国を治められているのです。それなのに、千年間地上に王国があったり、天の王国もあったりでは辻褄があいません。まるで、艱難前携挙説のように2回再臨がある(私は艱難前携挙は信じてません)というように王国も二つの国に分かれているみたいですよね?イエス様は、以下のようにはっきり言われています。

わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦っただろう。しかし、わたしの国はこの世ものではありません。ヨハネ18-36)

 

だから、地上に神の王国が出来る事はありません。また、神の国は、以下の御言葉にも書いてあるとおり肉と血は受け継ぐ事はできないのです。 

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしは、あなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とはことなる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち一瞬のうちにです。

(1コリント15-50〜52) 

また、以下の御言葉にも書いてあるとおり、死が滅ぼされ、私たちは朽ちない体、永遠の体を与えられます。

ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人達、次いで、世の終わりが来ます。その時、キリストは全ての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストは全ての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。(1コリント15-25〜26)

再臨の時に、ご自分の敵と戦い、最後の敵である死が滅ぼされます。だから、御国は霊で入るのであって罪の体である肉体を持った人が千年王国(安息)に入る事は無理なのです。

 

あと、よく千年王国で言われる聖書箇所は以下の御言葉です。安息日(7日目)までに真のクリスチャンは聖霊様をとおしてによって御国に入れますが、今、安息に預かり御国に入れても、大艱難時代には死ぬ者がいるからです。最後まで忍耐をもって、耐え忍ぶ事が重要です。

わたしはエルサレムを喜びとしわたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響く事がない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ百歳に達しない者は呪われた者とされる。(イザヤ65-19〜20)

 

そして、7日目(安息日)の次は8日目です。8日は、イエス様が復活した日です。8日目に関しては、捧げ物の初執行がレビ記9章に書かれています。

八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、アロンに言った。(レビ記9-1〜2)

アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の捧げ物、焼き尽くす捧げ物、和解の捧げ物をささげおえて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出てきて民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。(レビ9-22〜23)

この八日目は、七日間(艱難時代)死なないように言われ、約束を守れた民はそのまま御国に入ります。そして、主の栄光が現れます。

 

また、割礼も八日目に行われました。

あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたち男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これがわたしとあなたたちの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者もみな生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(創世記17-10)

これは、型であり新約の時代では以下の御言葉が当てはまります。

あなた方はキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、(コロサイ2-11)

そして、本当の栄光の体となり御国に入ります。

 

ですから、神様のご計画なら七日間目と八日目は重要で、七日間の間、堅く信仰を守り続けた者が八日目の復活に預かる事が出来るのです。そして、八日目に全て神が望まれた民と御国が完成されるのです。だから、地上において千年間、王国があるわけではないという事がお分かりいただけたでしょうか?

 

長々とした文章を最後まで目を通して下さった方、感謝します。イエス様の御名によって感謝して祈ります。🙏

 

 

※私は弟子なので神父や牧師ではないので教えられません。聖霊様によって教えられた事を書き綴っているだけなのでご自分で吟味して下さい。

今、天上界で行われている事

#クリスチャン #エズラ記 #夢

 

f:id:yuumamatan:20250622150252p:image

 

エズラ記は宮が回復される事が書かれていますが、これは二重預言でまさに今回復されつつあります。

エズラ記3-1〜5)

第七の月になってイスラエルの人々は、自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まってひとりの人のようになった。祭司たち、すなわちヨツァダクの子イエシュアとその兄弟たちは、シェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちと共に立ち上がり、イスラエルの神の祭壇を築き、神の人モーセの律法に書き記されているとおり、焼き尽くす捧げ物をその上にささげようとした。彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築き、その上に焼き尽くす捧げ物、朝と夕の焼き尽くす捧げ物を主に捧げた。書き記しされているとおり仮庵祭を行い、定めに従って日ごとに決められた数を守って日ごとの焼き尽くす捧げ物を捧げた。

イスラエル(神の民)は続々とそれぞれの決められた場所に帰ってきています。ここでのイスラエルとは、イスラエル🇮🇱国家とか、メシアニックジューの事ではないですからね。神の御心の民の事です。霊により天の住まいに行くのです。だから、神の霊を受けているから1人の人のようになれるのです。

そして、律法を昔のように守ります。今の教会はいろいろなものが混じってしまい人間的な教えが入り込んでいますが神の礼拝を正しく霊によって行います。

 

エズラ記3-8〜13)
エルサレムの神殿に帰った翌年の第二の月にシェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは彼らの他の兄弟たち、祭司とレビ人、および捕らわれの地からエルサレムに帰って来たすべての人とともに仕事に取りかかり、20歳以上のレビ人を主の神殿の工事の指揮に当たらせた。イエシュアもその子らの兄弟たち、カドミエルとその子ら、ホダウヤの子らと一緒になって、神殿の工事に携わる者を指揮することとなった。ヘナダドの子ら、およびその子らと兄弟たち、レビ人も同様であった。建築作業に取りかかった者たちが神殿の基礎を据えると、祭服を身につけ、ラッパをもった祭司と、シンバルを持ったアサフの子らであるレビ人が立って、イスラエルの王ダビデの定めに従って主を賛美した。彼らも「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。主の神殿の基礎が据えられたので、民め皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。昔の神殿を見たことのある多くの年をとった祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。

主に、工事にあたるのはレビ人(弟子)になります。そして、ダビデの定めに従って賛美します。

天国の昔の義人達は、昔の神殿を見ていたからそれがまた建てられるのを見て泣き、新約の私達は昔の神殿は見た事はありませんが基礎が建てられるのを見て喜び叫びます。共に泣き共に喜ぶのです。

今、まさに神の霊により正しい礼拝と祭りが行われています。

1人でも多くの人が、エルサレム(神の御心の中心)に集まってきますように祈ります🙏

安息日の本当の意味合い

f:id:yuumamatan:20250530053059j:image

 

安息日について、いろいろと話が出ますが基本的に礼拝はいつやらなければいけないという決まりはないです。

家族全員クリスチャンなら毎日礼拝していいですし、教会ならみんなが集まりやすい日曜日とかでもいいと思います。伝統や人の教えでなく聖書から学びましょう。

安息日についての記述は以下のとおりです。

第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2-2〜3)

まず、たとえを理解しなければなりません。ペテロが言う通り、のもとでは、1日は千年のようであり、千年は1日のようです。(2ペテロの手紙3-8)

この事を理解すると、第七の日はアブラハムから始まり、旧約の神の民は約4000年、イエス様が来られて今は、2025年なので2000年以上たっているので3日目となり、あわせて7日目にあたります。今がちょうど七日目の安息日にあたります。

また、安息の本当の意味合いは理解するのに時間がかかるので最後に書きます。

 

そして、出エジプトし、モーセにまず十戒を伝えられました。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト20-8〜11)

仕事をしてはならないと書いてあるので、仕事をその日は休まなければいけないと思いがちですが、イエス様はなんとおっしゃっていたでしょうか?

ところが会堂長は、イエス安息日に病人を癒やされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(ルカ13-14〜16)

エス様は普通に仕事してます。そして、文字通りの意味で解釈していた会堂長に偽善者と言っています。つまり、仕事というのは文字通りの仕事ではないのです。

 

ヘブル人の手紙に以下のように書かれています。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある箇所で七日目のことについて、神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この箇所でも改めて「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように自分の業を終えて休んだからです。(ヘブル4-1〜10)

言葉に捕らわれてしまいがちですが、私達クリスチャンは聖霊様がおられるのに自分(肉的)で仕事をしています。そうでなく、聖霊様によって働いてもらい肉的に歩んではいけないよという事です。そして、いつの時代にも神様は良い働きをなされてます。

今のクリスチャンは、せっかく聖霊様が注がれても肉で仕上げてしまう人が多いです。ヘブル書にも書いてあるようにほとんどの人が安息に入れません。なぜなら、聞いた福音が信仰に結びつかないからです。義人達と同じ聖書的な信仰になるはずです。

だから、必ず信仰のステップがあります。神も豚に真珠はやらないからです。

悔い改めてバプテスマを受け聖霊が送られます。そして、豊かな実をならせます。そうやって、信仰の試練を乗り越えて神に義と認められた人は、主の安息に預かる事が出来ます。

 

信仰の先祖達も以下のように言っています。ダビデも、

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。(詩篇23-1〜3)

また、イエス様も以下のように言ってます。

疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるだろう。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11-28〜30)

 

そして、主の安息に入る為にはフィラデルフィアの教会のように、神の子供、また兄弟姉妹となる人にしか門は開かれていないのです。

フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、誰も閉じることなく、閉じるとだれも開けることがない。その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいていた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしのことばを守り、わたしの名を知らないと言わなかった。(ヨハネの黙示録3-7〜8)

そして、イエス様も

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。(マタイ7-13〜14)

本当に門は狭く、そこに到達している人が少ないように思えます。弟子として歩むしか方法はなく、御言葉通り父の御心を行っていく者しか通れません。神父や牧師が死んでから天国にいくと教えているなら間違いです。神の御心を行い試練を乗り越えて、神が安息を与えるとした者は、もう天国のそれぞれが決められた場所で安息にあずかる事が出来るからです。

そして、その場所は神がそれぞれの人に指定した所に家をもう用意しているのです。

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。わたしの父の家には住む所がある。もしなければ、あなたがたの為に場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの為に場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネ14-1〜3)

あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、貴方の神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。申命記26章1〜2)

それは長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民のなかから連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。(エゼキエル38章)

 

だから、霊によって天国の自分の住まいに行き、休息するのです。サマリヤの女にイエス様も言いました。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。(ヨハネ福音書4-23〜24)

もちろん、地上においての礼拝も神は嬉しいのですが、何の為に聖霊を送ったのか?霊により礼拝させる為です。何故なら、神は霊だからです。霊による交わりを求められています。

また、パウロも言っています。

それで、兄弟たち、わたしたちは、エスの血によって聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。(ヘブル10-19)

ですから、イエスの血を通して狭い門をくぐり抜け、天国で安息します。だから、もう完全に霊によって自由なんです。

わしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。(1コリント13-9〜10)

天において、神と直接顔を合わせお話をするから異言と預言が廃れるのです。パウロの手紙をよく曲解する人がいますが、その人は真理に至らなかった人です。

信仰とは望んだ事柄保証し、まだ見ぬ事実を確信する事です。(ヘブル書11-1)

私達は、この世の寄留者です。国籍は天国にあります。まだ完全に完成してないけれど、これに望みをかけています。これが信仰の定義です。

だから、まず天的なクリスチャンとしてなれるように祈り求めましょう。そして、弟子として主の鍛錬を受け神の子として相応しい者とされますように。

 

そして、安息の重要な意味はご自分の選びの民(イスラエル国ではない)を全て選び終えた事です。だから、全てのものを創造し終え、神が休まれたというこの日(7日目)を祝福し、聖別せよと書いてあるのです。

第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2-2〜3)

12弟子のように、イエスと共に信仰の試練や苦難をとおり従っていけば「今日」という日を神がその人に決め、安息を与えます。人の子は安息日の主であるからです。

また、彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2-27)

しかし、今、安息に入っとしても束の間です。艱難時代に入ったら炉の火のような試練により試され残りの者しか残りません。

そして、神に時間の規制はないと思いますので、もうすでに神の刻印が押されていて選びの民(イスラエル国でない)は完了していると思います。(ヨハネの黙示録7章と14章)ヘブル語でいうと未完了形。あとは、終わりの世のしるしが全て完了し本当にこの世が終わります。 

しかし、神は忠実で真実な方であるので、この方につき従い御国に入れるよう努めましょう。もう神の国はすぐそこまで来ているのですから。

 

※私は弟子なので神父や牧師ではないので教えられません。聖霊様によって教えられた事を書き綴っているだけなのでご自分で吟味して下さい。

十分の一献金(霊的な意味)について

f:id:yuumamatan:20250320192642j:image

 

クリスチャンになったら、教会に行き必ず十分の一献金をしなければならないと思っている方がいらっしゃると思います。

私もそう思っていました。

しかし、何故十分の一なのか?

献金の意味は?

という議論があまりなされてない気がします。

何故十分の一なのか?

献金の意味は?

エス様は何とおっしゃっていたか?

 

まず、どのように信仰の先祖は捧げていたか以下のように書かれています。

(創世記14-19〜20)

彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

信仰の先祖のアブラハムがまず捧げています。

そして、

(創世記28-20〜22)

ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせて下さり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。

ヤコブも捧げています。

信仰の先祖は全ての物を主に捧げている事が分かります。

 

その後、出エジプトした民はモーセによって連れ出され十戒を授けられます。日ごとの捧げ物でまた以下のように十分の一がでてきます

出エジプト29-38〜40)

祭壇に捧げるべき物は次のとおりである。毎日絶やす事なく一歳の牡羊二匹を朝に一匹夕暮れに他の一匹を捧げる。そして、朝ささげる牡羊には四分の一ヒンのオリーブを砕いて取った油を混ぜた十分の一エファの小麦粉と、四分の一ヒンのぶどう酒のささげものを加える。

ここでは小麦を十分の一捧げてます。

そして、申命記レビ記において規定が書かれてます。

申命記14-22)

あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。

レビ記27-30〜32)

土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるものなので主に属す。もし十分の一の一部を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。牛や羊の群れの十分の一についつては、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。

牛や羊など、また穀物などの収穫物を毎年捧げなければならない事が決まっています。

面白いのは牛や羊の群れの牧者の杖の下をくぐる十頭目は聖なるもので主に属するとなっています。

 

では、何故十分の一か?

出エジプト記16-15〜17)

イスラエルの人々はそれを見て、これは一体なんだろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい』」

イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。

ここだけを読んでも分からないと思いますので、以下の御言葉も読みます。

出エジプト記16-35〜36)

イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで40年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。一オメルは十分の一エファである。

ここに十分の一が書かれています。一オメルは十分の一です。つまり、自分の天幕にいる家族(教会)で一人一オメルずつ集める事が十分の一献金のもとになったようです。だから、これ自体はお金ではない事が分かります。旧約の民は天からのマナを食べました。しかし、新約の私達にとっては聖餐式のパンになります。

 

ヨハネ6-48〜51)

わたしは命のパンである。あなた達の先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べるものは死なない。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。

パウロも以下の御言葉で語っています。

(第二コリント8-14〜15)

すなわち、その人たちの余剰分が、あなた方が不足分を補うものとなり、そうして均等になるためなのです。ちょうど、このように書いてあるとおりです。『多量に集めた者も有り余ることがなく、またわずかな量しか集めなかった者も欠乏することがなかった。

つまり、 キリストにあってその人の満ちたもの(御言葉の理解や霊的な賜物)が、誰かが窮乏したときに分け与える事になりこうして等しくなり、これで満ち足りるのです。

ですから、今の時代なら神に捧げた奉仕者聖霊様の満たしにより、礼拝メッセージや奉仕などの恵の業を行います。そして、霊的に貧しい者に分け与えるとみんな平等になると書かれてます。

 

 

そして、以下のマラキ書の箇所もよく取り上げられますが、毎年十分の一納めなければなりません。

(マラキ3-8〜10)

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、呪いをもって呪われる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いてあふるる恵をあなたがたに注ぐか否かをみなさいと、万軍の主は言われる。

しかし、まずたとえの意味をまず理解しなければなりません。 神は霊なので霊的な解釈が重要です。イエス様も以下のように言われました。

(マルコ4-13)

また彼らに言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。

家畜の牛や羊や魚や麦は、クリスチャンのたとえです。また、麦はパンの材料になるのでパン種が入ってないパン、つまり、御言葉のメッセージになるのでしょう。そして、オリーブ油は10人の花嫁の話ででてくるように聖霊様のたとえで、水も信じる人は生ける水が腹の奥底から出ると言われたので聖霊様のたとえです。

なのでここの聖書箇所も、先程のたとえの解釈がなければ物質的な家畜や穀物を捧げなければならないと考えてしまいます。しかし、今の時代の私達は家畜などは捧げません。ですから、ここの聖書箇所はまず、たとえが使われていることを理解しなければいけないと思います。

まず、自分 (牛や羊)を捧げて、失っていた (魂)を倉に納め、そして聖霊を受けたなら実をならせ(御霊の実)十分の一を私の倉に収めなさい。そしたら、聖霊の大雨を降らせようという解釈です。 

だから、ここの聖書箇所をとってあなたの収入の十分の一を教会に収めなさいという神父や牧師は論点がずれていると思います。また、例えば霊的な家族で二人の子育てをしているシングルマザーがいたとします。必死に働いて子供を育てているのに、十分の一献金しないと呪われるという神父や牧師がいたら、その考えは全く神の御心からずれてしまっています。

そして、天国訪問した事がある人は分かると思いますが、地上においても畑があるように天国にも畑があります。 神は、悔い改めた者に聖霊を送られます。そして、聖霊による御霊の実がなるのを楽しみに待っておられ、その御霊の実で作った霊的な料理があるのです。だから、神からしたら、聖霊を送ったのにもかかわらず御霊の実がならないのは、はっきり言ってあり得ない、盗んでいるのと同じだと言われているのです。地上においても美味しくない酸っぱいぶどうの実はどうでしょうか?もちろん吐き出してしまいます。ましてや、実のならないぶどうの木はどうでしょうか?切り倒されてしまいます。

ヨハネ15-1〜2)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

だから、10分の一は必ず捧げなければいけないのが見えてくると思います。

 

エス様は何と言われてたか?

(マタイ23-23)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は捧げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の捧げ物もないがしろにしてはいけないが。

エス様が来られた時は、偽善者達によって神の義も、慈悲も、誠実さもありませんでした。まず神の御言葉に預かる者であればこれは最低限しなければなりません。そして、尚且つ、十分の一も納めなさいという事です。

(マタイ5-18〜20)

はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければあなたがたは決して天の国に入ることができない。

律法や神の義、それは新約の私達は心に書かれているので聖霊様に聞き従えばいいのです。

(ルカ20-22〜25)

ところで、私達が皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっていることでしょうか。イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、誰の肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです。」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

ローマ皇帝ものは皇帝に、つまりローマ皇帝とはこの世という事でしょうか?この世のものはこの世に。しかし、神のものは神に返しなさいと言われました。聖霊様が送られたら必ず豊かな実をならせる事が重要です。

ですから、 十分の一捧げなければいけません。捧げ物には霊的な意味があります。まず自分を神に捧げ、神の霊を預かったものは御霊の実を必ずならせそれを倉に納めなければいけません。そうやって主に栄光を帰すのです。その事を神は望んでいます。  

 

しかし、献金自体は否定してません。貧しい人に施しをするのは神の御心でしょうし、今の時代は特に毎日3食食べるのも大変なご家庭もあるかと思います。初代教会も迫害が激しく、会堂から追い出され住む所もなくなってしまった信者も多かったと思います。そして、初代教会は持ち物を共有していました。

 

また、イエス様も弟子達を町や村に送り出す時に、

(マタイ9-7〜10)

行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も履き物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べるものを受けるのは当然である。

このように、奉仕する者はその家に寝泊まりしたり出された食事を食べていたからです。働く者が支援を受けるのは当然であると書かれています。

 

しかし、歴史がローマ、カトリックからなっているので多額のお金で教会堂が出来てしまいました。それは、神が言われた事でしょうか?羊達が集まる場所があるのはいい事です。しかし、福音を宣べ伝えなさいと言われたらそこから出て行きます。教会で愛の交わりがあってもいいですが、月に何回か外に出て伝道するべきです。日曜日に集まり話を聞いて終わりだと、はっきり言って霊的に死んでいくでしょう。

また、全ての事は聖霊様によって献金額もそうだし、集まった献金をどのように使用するか決める事が大事です。人間においては、何も益がなく欲によって動いてしまうからです。

 

まず、神は霊なので聖霊様に頼って読んで下さい。 旧約においては型が多く、今の私達は聖霊様によっていろいろな事を教えられます。

献金の意味はまた後日書きたいと思います。

 

※私は弟子なので神父や牧師ではないので教えられません。聖霊様によって教えられた事を書き綴っているだけなのでご自分で吟味して下さい。

バプテスマ(洗礼)

肉における出産(霊的出産)

 

①出産が近づくと頭を下に向け始める。(悔い改めて180度方向を変える)

f:id:yuumamatan:20250114081928j:image

②羊水の中にいる。(水のバプテスマ

f:id:yuumamatan:20250114082118j:image

③産まれたら産声をあげる。(異言を言う)

 

 

霊的な出産と肉における出産は似ています。

 

 

今の時代は、カトリックから成り立ってしまっているので、水のバステスマも教会により様々になってしまってます。

 

 

罪の古い自分に死んで、埋蔵され、復活する。

①悔い改め( 死)

1コリント15-4、ローマ6-4〜6

罪の告白をする。

f:id:yuumamatan:20250126144539p:image

f:id:yuumamatan:20250126145307j:image

 

 

②水のバプテスマ(埋葬)

1コリント15-4、ローマ6-4

 

古い自分の死体を埋葬する。

死体を埋葬するので潅水礼(かんすいれい)、滴礼(てきれい)ではない。

基本は全身を水の中に浸す方法です。洗礼(バプテスマ)の語源はギリシア語の「浸す」からきています。

水のある場所なら、自宅のお風呂や海や川でも大丈夫です。

 

f:id:yuumamatan:20250126144720j:image

 

f:id:yuumamatan:20250119160858j:image

 

 

聖霊バプテスマ (復活)

1コリント15-4、ローマ6-4

 

f:id:yuumamatan:20250119160909p:image

 

 

 

この事を十分理解し、自分自身の信仰によりバプテスマを受けます。(教会に属する為に受けるのではない)

彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何が妨げがあるでしょうか。」フィリポが「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官はイエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。使徒8章36〜37)

 

①罪の告白をする。(父との和解)

人々がヨハネのもとに来て、罪を告白しヨルダン川で彼からバステスマを受けた。

(マタイ3章5〜6節)

また、何から解放されたいか?アルコールやタバコなどやめられないものがあるなら、それも告白し解放されるよう祈る。

 

②イエスキリストの名前によりバステスマを授ける。権威のある名前により授ける。(キリストと共に十字架につけられる)

父と子と聖霊の御名のバステスマは、旧約の型であり、和解先の神を表している。バステスマは、三位一体の神の働きによるものを悟らせる為。

新約成就後は、救い主はイエスキリストである。

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくためにエスキリストの名によってバステスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒2章38)

 

聖霊が与えられるよう手を置いて祈る。(聖霊と共に復活)

聖霊が与えられたら異言(産声)をあげます。

その前に悪霊が出てきたら、イエスの御名によって追い出す。追い出したら、解放され自由を得ます。

主に感謝します。

 

今の世的な教会では、異言を否定する人がいますが、肉的な出産においても産声をあげて無事に産まれたか確認するように、異言が出れば聖霊を与えられたしるしです。

すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。(使徒2-4)

異邦人が異言を話し、また神を讃美しているのを聞いたからである。(使徒10-46)

 

 

①と②と③が揃っていないと聖霊が与えられません。

 

弟子は、その人がどの段階か判断し足りない所を補う。

聖霊が与えられてないなら福音を理解してもらい、聖霊が与えられるよう手を置いて祈る。

 

悔い改めはきちんとする事。罪のリストに時間をかけて悔い改める。メタノイヤ(ギリシャ語)は、人生における考え方の根本を180度変え、福音に込められた神の意思を受け入れ、キリストを自分の全生活の主として受け入れるという根本な切り替えをする事の意味。

また、神様が喜ばれない物が家にあるなら処分出来るものは処分した方がいいでしょう。しかし、自分のではない家族の物は勝手に処分しないで下さい。後で揉める原因になります(汗

また、木の偶像などは信者2、3人で手を置いて「イエスの御名によってただの木になれ!」と言い処分した方がいいと思います。魔術や呪術が物にあるとよくないので念の為。

 

幼児洗礼は自分自身の信仰で受けてないので、もう一度やった方がいいです。

 

洗礼を授けるのは、弟子として新生した人なら大丈夫です。

証人は、2~3人またはそれ以上で。

 

 

バステスマを受けるまでの流れを図にすると以下のようになる。つまり物理的に行動すると霊的な作用が働く。

人と神の働き



間違ったバステスマを受けるのではなく、確実に理解し受けましょう。そうする事により、何年も聖霊様を受けるのを待つ必要はありません。

 

多くの人が、バステスマを受け救われますように🙏