つまずきの石バラムのような預言者、教師は必ず教会の中に起きてくる。

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NO.335 バラム

 

テキスト:”黙示録2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。”

 

本日は「バラム」と、いう題でメッセージしたいと思います。
未来の教会に対する警告を記した黙示録、7つの教会への書簡の中には、バラムに関連した
警告が記されています。上記テキストに書かれた通りです。

これを見ると、教会において起きて来る「バラムの教え」について聖書が預言、警告していることがわかります。「あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。」と聖書は語ります。ですから、この「バラムの教え」は必ず、教会の中に起きてくる、警戒せねばならない教えであることを知りましょう。
彼の問題は、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた」ことです。

イスラエルは神に愛された中央の民です。彼等をつまずかせるバラムのような預言者、教師は、必ず教会の中に起きてくるのです。

さて、同じバラムに関する他の箇所を見ていきましょう。

”2ペテロ2:14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。
15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオル(燃やす)の子バラム(民ではない)の道に従ったのです。
16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。
17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。”

順に見ます。

”14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。”

終末の日の大きな誘惑は、我々を襲うこの世の欲です。「目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知ら」ない人は裁きの危険があることを知って下さい。

この世や誘惑や罪に満ちており、私達の周りには、テレビ、映画、雑誌等多くの誘惑があることは誰でも知っていることです。ロト、ノアの時代も同じような時代だったことを知りましょう。
そして終末の日は、ノア、ロト日のようであり「罪に関しては飽くことを知ら」ない愚かな人は滅ぼされることを覚えましょう

「神は愛である」(だからもっと罪を犯せ?)かもしれませんが、もうすでに70週(70の7=7度を70倍)も過ぎ去ろうとしていることを覚えましょう。

”15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。”

民数記を見ると、バラムが心ひかれたのは、「銀や金の満ちたバラクの家」です。これは何を意味するのでしょう。家は教会であり、金銀はその家の宝、今で言えば、神の前で価値ある信仰(金銀)のある信者です。ですから、銀や金の満ちた家とは信者がたくさんいる繁盛した教会のたとえかもしれません。

預言者、すなわち今の牧師としての人情は、誰でも信者の多い教会で説教したいとは思うものですが、しかし、「正しい道を捨て」「不義の報酬を愛し」てまで人数を増やそうと思ってはいけないのです。
「艱難の前には挙げられるから大丈夫」と説教している間はにこにこして聞いている信者も「実は我々は艱難時代を通過します」などと聖書通りのことをいえば青くなってしまい、そんなことをいうメッセンジャーの評判も悪くなるかもしれません。

しかし御言とぶつかる教理を語ってまで、信者を増やすことがみ心とは思えません。逆にそのようにして、得られる良い評判こそ、「不義の報酬」ではないでしょうか。
また「正しい道を捨て」ていることではないでしょうか。バラムの教訓は単に昔話ではなく、
今の時代の「教師」にあてた教訓であることを知るべきです。バラムという名前は「民ではない」という意味のようですが、このような道を歩むとき、神の前に「民ではない」とみなされてしまいます。

”16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

このようにバラムにしても今の我々にしても自分では正しいと思っても結構間違えてしまうものです。
しかし、神様のすばらしいことは、そんな我々に間違えを気付かせて下さることです。

この時はろばが声を発し、この預言者の間違えをとがめました。
「ろばが間違えを教えてくれるのか。しかし、私は自動車には乗っているが、ろばには乗っていないし、
そもそも家にはろばを飼っていないので、間違いをただしてもらえないな」という人もいるかも知れません。

度々、今の神学でいわれる「そのまま文字通り読む」「霊的解釈をしない」ということなら、そう考えるしかないのですが、しかしこれはたとえだということを知りましょう。

私は「ろば」聖霊のたとえではないのかと思っています。
聖霊は今の時代のクリスチャンにとって、もっとも大切な存在なので、聖書にはそれこそ、
ありとあらゆる種類の聖霊に関するたとえがあります。

いわく、火、水、ぶどう酒等です。火は全焼の捧げものを焼き付くす火として表現されており、「クリスチャンの肉を焼き付くす方」としての聖霊のたとえと思われます。
また、聖霊は水にたとえられます。これは、主がペテロの足を洗う物語からも理解できるように、我らの罪を浄め洗う方としての聖霊のたとえです。我々は歩み、信仰の歩みにともない、どうしても足がけがれるものです。この世を歩けば必ず汚れがついてしまうものなのです。

「完全なきよめ」「第2の恵み」などという非聖書的な教えに騙されてはいけません。
もし、ペテロのように「私の足は洗わないで下さい」(私は全くきよめられています、完全なきよめをいただいています)というなら、主に「あなたと私とは何の関係もない」といわれてしまうのです。

サンダルで砂浜を歩けばどんなに気をつけても砂や泥が足につくものです。
泥や砂は望ましくはありませんが、しかし、どうしても汚れてしまうものを「私の足はもう2度と汚れない」などと強く心に念じてもきれいになるものではありません。神経衰弱になるのがおちです。
素直にその度その度、主の水(聖霊)により浄めていただくのが、しかるべきクリスチャン生活というものです。世迷いごとを述べた異端まがいの教理にだまされてはいけません。

また、聖霊は酒、ぶどう酒にたとえられます。お酒を飲むとほがらかになったり、歌が出て陽気になりますが、聖霊の「こころを強める」働きをこれは述べているのでしょうか。

さて、聖霊は、「ろば」等の乗り物にたとえられるのではとこれは私の個人的な意見ですが、
そのように思っています。聖霊は私達を「運ぶ」方です。
たとえば、私がヨーロッパへ行きたいと思ってもいくら何でも歩いてはいけません。
たとえ陸続きだとしても第一体力が持たないし、道だってわからないのです。ですから、私には私を運んでくれる飛行機なり船が必要です。これらの「乗り物」があって、始めて私は
それらの遠い地へ行くことができます。このようにこれらの乗り物は「私が行きたいけれど行けない場所」へ私達を運んでくれます。また、重い荷物も一緒に運んでくれます。
「ろば」もこれと同じ意味あいでの「乗り物」を意味するのではと私は思っています。
ろばが目的地まで、人を運ぶように、聖霊なる方も我々が名前だけは聞いているが、どのようにしてそこに辿り着けばよいのかかいもく見当がつかない「御国」へと我らを運んでくれます。
私達がこの聖霊なる方の声に聞き従うとき、そこまで、我々を連れていって下さるのです。
また、我々のこの世における重荷をもともに運んでくれます。「全て重荷を負って..私のもとへ来なさい」と書かれている通りです。

”ろばが、..、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

また、我々を運ぶ方である聖霊は、我々の「気違いざた」、大間違いをただし、教える方であることを知りましょう。
我々は誰も「自分は気違いざたを起こそう」と志してはいないのですが、しかし結果として、よく間違えたりとんでもないことをしでかしてしまうものなのです。
その時、父である方は、我々に叱責や、注意、訓戒を与えられます。
箴言に書かれているように、「訓戒を心によめる」は幸いです。

”ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

ここで、「ろば」はものをいうことがないと書かれています。
普通ろばは人間としゃべりません。オウム、九官鳥とはことばを交わせるかもしれませんが、
ろばとは我々は普通会話をしないのです。

おなじように我々を運ぶ方、聖霊は普通、我々とことばで会話をすることはしません。
電話をとったら、向こうで友だちや母親の声が聞こえるということはあっても、向こうから、聖霊の声が聞こえるということはあまりないのです。
しかし、このものをいわないろばは「人間の声でものを」言ったことが書かれています。
これはついでながらどういった意味なのでしょう。

私にはこうとれます。ものをいうことのない聖霊なる方が語る方法があり、
その一つは、「人間の声」を通すと言う方法である、そのことを言っているのではないかと思えます。

ですから、私達は人の声にはよく注意した方が良いのでしょう。思いもかけない人、方法を通して、実は「ものをいわない方」聖霊が語られていることがあり得るからです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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終末には「クリスチャンをだますための作り話」が考案される。

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No.334 うまく考えだしたつくり話 


”テキスト:2ペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
(KJV:うまく考え出した作り話に従ったりせず、キリストの栄光の証人となりなさい。
私達はあなた方に力と主の来臨を教えたからです。)”

 

本日は「うまく考え出した作り話」という題でメッセージしたいと思います。
終末には、「うまく考え出した作り話」が出現するということを見ていきたいと思うのです。

このテキストの箇所の訳は、新改訳とKJVで大分違います。
KJV訳には、「(終末の)うまく考え出した作り話に従うな」という警告が含まれており、これが本来の意味としてふさわしく思われるのですが、新改訳ではそのニュアンスがすっぽり抜け落ちています。
警告になっていないのです。これは、ゆゆしき問題であり、どっちが正しいのかはっきりして欲しいのですが、このような大事なことがら、聖書翻訳の違いに関しては残念ながら、キリスト教会では議論になりません。また、そのような事実があることさえ話題に上らず、気付かないようになっているようです。

このHPのメッセージ作成を奉仕させていただくことに関連していくつもの聖書箇所を調べて否応無しに気付くことは、日本語訳の聖書はだいぶ原典の聖書が語っていることと訳が違うらしいということです。
今までいくつも見てきたように結構多くの箇所が異なっているようです。

何でこうなってしまうのでしょう?いつだかクリスチャン新聞に日本語聖書(確か新改訳)に関する訴訟騒ぎの記事が掲載されていました。その記事によと日本の新改訳なりの聖書の著作権は、日本聖書協会なりにはなくて、外国の何とか言うカタカナ名の聞いたことのない財団が持っているとのことです。
私の記事の記憶が間違いでなければ、その財団は、「この訳を勝手に変えることはまかりならん」とのことで、訴訟騒ぎを起こしたと記憶しています。

この話が正しければ、日本のクリスチャンが読む聖書にもし間違いや誤訳があっても日本人の我々がそれを変更することはできない、それを読みつづけ、受け入れつづけなければならないという不思議な事態が続くことになります。

そのせいだか、「日本の我々で、納得のいく聖書翻訳をしよう」との運動が日本にあるとも聞きました。
日本の聖書には、あまりにも怪し気な翻訳が多いようですので、是非そんな働きがあるなら、
期待したいものです。

聖書翻訳に対する統制、コントロールということで思い出すのは、エホバの証人ものみの塔「新世界訳」です。この聖書はものみの塔では、すばらしい聖書、究極の聖書なんていっているようですが、それは自画自賛に過ぎず、事情を知っている人々は、この聖書こそ、ものみの塔「異端的な聖書解釈の中心、元凶」になっているとんでもない聖書だということで考えが一致しています。

この 新世界訳はこのようにして成立します。まず、原典である、ヘブル、ギリシャ語から、英語の聖書に翻訳されます。その英語の訳から、さらに日本、中国語、フランス語等各国のことばに翻訳されていくのです。
その際、最初に訳された英語の聖書の意味から、決して異なる訳にならないよう、細心の注意が払われるとのことです。

この聖書は特殊な聖書であり、普通に我々が読む聖書と訳が異なっています。
特にものみの塔の教理と密接に関係する箇所に関しては、「彼等にとって都合の良い訳」となっています。
たとえば、普通の聖書を読むなら、「キリストが神である」ことを裏ずける箇所はたくさんあるのですが、この新世界訳では、それらの箇所はことごとく、改ざん、変更されています。
またこの聖書本文の下にある注記、関連聖書箇所の記述もみな、彼等の「教理」を裏ずけるようになっています。

このように「人工的に改ざん、故意に変えられた訳」になっている聖書をもとにこのものみの塔の信者達は、「聖書には、キリストが神であるとは書いていない」という結論を持つようになるのです。
しかし実際は彼等は自分では聖書を読んでいると思っていても、「改ざん、意図的に意味を取り違えた聖書」を読んでいるのに過ぎないのです。ですから、聖書翻訳、特に意図的に聖書の意味あいを変える翻訳には、くれぐれも気をつけなければならないことがわかります。

聖書の翻訳とは、専門の語学の知識がなければ、難しいものだと思われますが、これらの改ざんの裏には、それらの聖書や語学の知識を自在にあやつり、それらしい嘘を教える人々の
存在があるといったら言い過ぎでしょうか。

よく事情を知ればそうでもありません。
ものみの塔、また、同じく怪し気な聖書、モルモン経を使用しているモルモン教にしてもその創始者はあの悪魔礼拝者、フリーメーソンと関係があることを研究者は述べます。ですから、
これらの聖書、教理の改ざんの裏には「意図的な力、組織」が存在するのです。

聖書を「それらしく翻訳してあるが、しかし、微妙に意味あいの異なる訳」に改変するには、なんと言っても、聖書の書かれた原語に詳しい人々でなければ、できないことであることを覚えて下さい。

さて、ものみの塔モルモン教等はいわゆるプロテスタントカトリック等の正統的といわれるキリスト教からは異端と呼ばれる宗派です。これらの教典が「意図的に改ざんされている」といっても「異端ならさもありなん」「しょうがないな」ということですが、しかし、我々にとっての問題は同じような手法が我々、プロテスタントなりが読む聖書翻訳にどうも使われているらしく、「最近の聖書の訳は怪しい」ということです。

キリスト教系のHPを見ると、そのように最近の翻訳に異をとなえる人々が欧米には結構いるようです。
第2次世界大戦後、特にその傾向、改ざんの傾向が強いとも聞いています。

さて、ちょっと話がそれたようですが、そろそろ今回のメッセージの主題に入りたいと思います。

”2ペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
(KJV:うまく考え出した作り話に従ったりせず、キリストの栄光の証人となりなさい。
私達はあなた方に力と主の来臨を教えたからです。)”

この箇所で、明らかにペテロは「うまく考え出した作り話に従」うことに関して、警告を与えています。
この聖書箇所の中に主の再臨が記述されているように、この「うまく考え出した作り話」は、終末の時に多く起こってくることが予想されます。

ですから、今がその終末の時代なら、この時代に生きる我々は、この聖書箇所が述べている
「うまく考え出した作り話」が必ず、教会内に起きてくること、場合によっては結構多くの人がそれに乗せられ、従って行ってしまうかもしれないことを肝に命じておかなければならないのです。

聖書のどのことばも無駄に書かれたものではなく、逆にどれもこれも成就していきます。
何故なら、世の本と異なり、聖書は過去も未来をも唯一御存じの方が書かれた書であり、終末に迎えるに必要な警告が全て書かれているからです。
この終末に起きてくる「うまく考え出した作り話」に関しても、変に自分に自信を持たず、真摯に警告を受け止める人々にみこころがあることを知りましょう。

さて、「うまく考え出した作り話」ということばを考えてみましょう。このことばがいうことは、「終末にクリスチャンをだますための作り話が考案される」「その話はあまりにもつじつまがあり、説得力があるので、だまされる可能性がある」ということを語っているように思えます。

すなわち、「一見、嘘のように思えず、真実に思える」「だからついみんなだまされる」そのようなニュアンスがあるように思えるのです。

私はいつだか、東京の郊外のある町を家内と2人で歩いていました。そこで、ある建物に入りました。そのかなり広い公共の建物の地下にしゃれたなロビーがありました。そこにいくつか素敵な観葉植物が置いてありました。名前はわからないのですが、2メートル程の程よい枝ぶりの木がきれいな鉢に植えて飾られていたのです。その場の雰囲気にピッタリマッチした涼し気な木でした。そこで、私と家内は少しの間、くつろいでいました。

しばらくして家内が「この木は偽物じゃないかしら」といいました。
「え?」そんなことは思いもしない、疑うことをしなかった私ですが、そういわれてよく見れば本物ではないような気もします。
よくよく葉を見ると、表は本物そっくりですが、裏はいかにも作り物でした。この木は「良くできた作りもの」だったわけです。

さて、こと程さように「よくできた偽物」は、うっかりした人をだましたり、本物と思わせることが可能です。というより、そんなふうに「偽物とはつゆも知らない」人の方が多いのかもしれないのです。

偽物の木にだまされてもあまり実害はありませんが、終末の教えをみごとにだまされるなら、
永遠の命が危ないことを覚えて下さい。悪魔は我々と遊びやゲームや冗談をしたくて、教会に「偽物」を持ち込んでいるわけではなく、彼はそうすることにより、もっとも大事なもの、我々の永遠の命を奪えることをよくよく知っているのです。

ですから、我々がこの「うまく考え出した作り話」を見分けることがいかに大事かが想像できます。

さて、このような観点、すなわち、「終末には、教会内に考え出した作り話が起きてくる」という観点から、今の教会に広がる教理、教えを見ると、いくつもそれらしい教えがあることがわかります。

度々書いているように「艱難前携挙説」すなわち、艱難の前に神の民は天に挙げられるという教えは、その際たるものかもしれません。

この教えは、聖書がくり返し、くり返し語る「終末のための備え」をつき崩す、悪魔の究極の作戦、強力兵器のようなものですが、しかし、またそれゆえ非常に「うまく考え出した作り話」でもあります。

聖書を普通に読むなら、この「艱難の前に挙げられる」という教理は出てきません。
それは、この教えが出現する19世紀に至るまで、教会の教理にこんな教えが決して出てこなかったことからもわかります。
「普通に聖書を読めば出てくる教理ではない」から、誰もそんなことを主張しなかったのです。

それで、この「異端的な教え」を広がらせるために、あらゆる偽りや、下工作、嘘が用意されたようです。この世の中でも架空の話、嘘話をたくらんで人から、金品を巻き上げようとする人々はいます。
彼等はありもしないもうけ話をそれらしく見せ掛けるために色々と工作をします。
たとえば、「偽の土地の権利証書を5億円で売り付ける」ために、色々工作します。わざわざ、その商談を一流ホテルでしたり、(一流ホテルの雰囲気で信用させる)、有名な政治家の名刺を使用したり、(他人の信用をもとに話に信憑性をもたせる)、偶然をよそおって銀行家や会社社長(どちらも仲間)を同席させ、偽ろうとするわけです。

これは偽の土地の権利証書であり、こんなものにお金を払っても実際には土地は手に入らないのですが、嘘であるために、またそれを本物らしく見せるために色々と工作するのです。
同じ意味あいで、この艱難前携挙のためにもあらゆる形の工作がなされたように思えます。

1. 幻が用いられる。
アメリカ宗教辞典によれば、この教えは、1830年頃から始まったものであり、その発端は、
マーガレットマグドナルドという女性霊媒の見た「幻」がもとになっているとのことです。
聖書と真っ向から対立するマリヤ崇拝も「マリヤの幻、奇跡」が大きな基礎になっているように、
この「キリストが2回にわたって来る」という非聖書的な教えも「幻」が基いになっている。

2. デイスペンセーション主義の嘘
この「2度にわたって再臨するキリスト」という聖書のみことばにない教理を応援するために、デイスペンセーション主義という教理が考えだされたようです。デイスペンセーションという聞きなれないことばには、神の摂理、分配」というような訳語があります。

いわんとしていることは、時代により、神の方法、摂理、強調点は違うということでしょうか。
この主義は、簡単にいえば、旧約の神のみこころの中心は、中東のイスラエル民族にあった。
しかし、時代が変わり、教会時代に入った時、神のみこころの中心は、教会に移った。
しかし、それが、最後ではなく、終わりの時代、終末の時代には、さらに神のみこころの中心は
イスラエル民族、ユダヤ人の時代に変わる。

だからこそ、終末の時代を描く黙示録には、旧約的な表現があり、裁き、また、イスラエル12部族が印をつけられること、また2人の預言者が登場したりするのだと主張します。
だから、その時、終末の時には、もう教会の時代は終わっているので、教会は、天に挙げられ、艱難時代が終わったら、降りてくるという「大嘘」の結論へ至るわけです。
そう言われると「大嘘」も何だか本当らしく聞こえてくるものです。

要するにこのデイスペンセーション主義とは、艱難前携挙説に合理性を与えるための長い、長い「前フリ」なのです。

3. イスラエルの建国に関する嘘
上記デイスペンセーション主義の主張、すなわち、「終末の時代には、もう教会は表舞台から、外れ、次の主役、イスラエル民族が主役となる時となる」との荒唐無稽、しかし、「よくできた作り話」を支持するのに、大いに用いられたことがらが、いわゆるイスラエル建国、「約束の国」に関する物語りです。

これこそ、神の約束の成就だということですが、しかし、この裏には以下のように、色々、怪しい、とても神の働きとは思えないことが多いことを知るべきです。

a)「砂漠にサフランの花が咲く」の嘘
この地は、我々が来るまでは、砂漠だった。そこを我々が開拓して「サフランの花が咲くところにしたのだ。これは聖書のことばの成就だ」とは、イスラエルを訪れる、日本人なりが、それこそ、100ぺんも聞かされる話です。しかし、それが、全くの嘘であり、この地はもともと、パレスチナ人が畑を持ち、耕した地だということは、研究者により、指摘されています。
キブツに理想を求めてこの地に移住した日本人青年が「この約束の地の真実」を知ったいきさつは、岩波新書パレスチナ広河隆一著に詳しいです。同じことは、集英社「赤い盾」広瀬隆著にも記されています。

日本のキリスト教書店、雑誌、新聞は、それこそカルト宗教のマインドコントロールまがいに
この手の話題に関しては、一方的な情報しか流しません。しかし、一歩、これらの「閉ざされた情報区域」を出て、この件に関するパレスチナ関連の書物を何冊か読めば、すぐ実体はわかるでしょう。

この嘘、「砂漠にサフランの花」が実は全くの嘘だということを知るとき、我々はそれを通していくつかのことがらがわかります。

キリスト教界の情報は非常に片寄ったものしかない、すなわち、情報がコントロールされている。
約束の民、神の民といわれる人々は、実は他人の土地を奪い、建物をこわし、そして今、頻繁にパレスチナ人の命を奪っても、良心に呵責を感じない、恐るべき民族であること。
*「キリストを信じたことになっている」がしかし、キリストということばも、クリスチャン
ということばも使いたくない、ユダヤの習慣にこだわる、メシヤニックジューとかいう不思議な人々の正体がわかる。彼等こそ、この「砂漠にサフランの花」の大嘘を我々クリスチャンに吹き込んだ人々ですが、彼等は嘘を平気でつく、キリスト教かく乱の目的で入り込んだ、偽クリスチャンと呼んだ方が正しいでしょう。

b)人の土地を奪い、家をこわし、命を奪う人々は神の民ではなく、悪魔の民イスラエルの建国時、彼らの所有していた土地もわずかであり、また人口も少なかったのです。しかし、この半世紀の間、彼等はろくな武器もない、子供の投石や、せいぜい銃くらいしかないパレスチナ人相手に、近代的な軍事力、飛行機、爆弾投下、戦車、ブルドーザー、高性能の銃等を武器に彼等を殺害し、土地を奪いつづけて来ました。国連がこれらの殺害に反対決議をしても獣の国、アメリカが拒否権を発動して、これらを無効にしてきました。また、彼等の息のかかった国際メデイア(ロイター、AP等の通信社、またアメリカABC, CNN等主要テレビ、新聞等は皆ユタヤ系)は、これらの殺りくに関して、イスラエルにとって都合の悪い記事は故意に流さないようにしています。

これらは神の約束の成就というより、「悪魔の殺りく」といった方が正しいのではないのでしょうか。---

以上のように、クリスチャンの終末の備えを崩すために悪魔は、「艱難前携挙説」という強力な手段を用意したように思えます。これは特別な教えのように思えます。

彼等はこの教えをクリスチャンの間に浸透させてしまえば、クリスチャンが実際に「終末の備え」をしなくなることを熟知しているので、この教えをそれらしくしたてるためにそれこそ、あらゆるてだてを用意しているのです。

来年試験があり、しかもそれが難しい試験なので、学校に入れるかどうか微妙だと聞けば誰でも学校に入りたい人は、試験のための用意を始めるものです。テレビや、マンガを見る時間を削ってでもそうするものです。
しかし、その時、こっそりと誰かが耳打ちして「あなただけは、試験を免除してやる、受けなくてよい」といわれたら、どうでしょう?すっかり、気が抜けて、安心しきって、しゃにむに勉強などする気がなくなるのが人情というものです。
しかし、この人は後で、後悔をするようになります。何故なら、あの時ささやかれたのは、
ただの嘘、ガセネタに過ぎず、用意をろくにしていない彼は試験を通過することはできなかったからです。

この話に関しては、だました人も悪いのですが、しかし、「試験がある」ことは、前もって明示されているのですから、
こんな嘘を真に受けた彼の自業自得ともいえます。

艱難の前に「聖書に明示されていないキリストの再臨があり、挙げられるから大丈夫」などと
聖書と矛盾したガセネタを真に受ける人は同じように後で後悔、取りかえしのつかない後悔をするようになることを知りましょう。

この2度に渡るキリストの再臨という「大嘘」を本物らしくみせかけるために、あらゆるしこみ、前ふり、工作、おぜんだてがされています。

デイスペンセーション主義と言うもっともらしい教えもその一つであり、
また、イスラエル建国は、いかにもタイミングよくなされ、これにより「異邦人の時」が終わり、イスラエルの時代に移ることを示す等の「できごと」も起きています。

これらのできごとはそれぞれ、マッチしていかにもこの「2回にわたるキリストの再臨」という話を本当らしく見せることに貢献しています。
しかし、失礼ながら、本当にうまい詐欺師は、場所やら、やらせの人物やらを配置して、いかにもそれらしい状況を設定することを覚えて下さい。

「偽の土地の権利証書」を売り付けるためなら、詐欺師は、やらせの人を配置したり、書類を本物らしく偽造することをいといません。
何億という金額を手にするためなら、彼等はその位の手間は惜しまないのです。

悪魔は、お金よりさらに大事なもの、永遠の命をクリスチャンから奪うために、てまひまを惜しまず、それらしい話を作り上げました。

しかし、これらは、「うまく考えだしたつくり話」に過ぎません。
惑わされる者はほろびを刈り取ることを知りましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。 

 

ー以上ー
 

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「黙示録のみからしか出てこない」解釈は要注意であり吟味が必要。

 

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NO.333 ダニエル書と黙示録

 

テキスト:”ペテロの手紙第二 1:19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。”

 

本日は、「ダニエル書と黙示録」という題でメッセージしたいと思います。
この2つの書は、終末に起きるできごとに関して、若干記述が異なるように見える ことを見ていきたいと思います。
もちろん、どちらも、同じ聖書の中の書なので、本当は矛盾があるはずはないのですが、
「そのように見える」ことも事実なのです。

本日はそのことを見ていきたいと思います。

まず私達が黙示録を解釈しようと志す時、その一番始めに気をつけなければならないことは、上記、「私的解釈」と訳されたことば、具体的には、「そのテキストのみから解釈しない」ことです。
これは大原則なのです。何故なら、聖書は、「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。」として、私的解釈(その箇所のみから解釈)しないことを強調しているからです。

それで、私達は、このことを知ります。すなわち、終末に起きるできごとを「解釈する時」
たとえば、黙示録の記述のみからは決して「結論」をだしてはいけないということです。
逆に他の箇所、たとえば、ダニエル書等からも「2重3重の確認」が必要だということなのです。

聖書はそのように私的解釈(そのテキストのみからの解釈)を厳に戒めているのですが、
現状はどうでしょうか。残念ながら、多くの解釈者が「私的解釈」に走っているように思えます。

たとえば、千年王国という考えは、黙示録のみにしか記述されていない、ダニエル書等には、全く記されていない、「要チェック」のことがらなのですが、それを忘れて、「当然千年王国はある」といった論調が多いのです。

それから、もう一つ記憶しておかなければならないことがらは、黙示録の巻き物、すなわち
啓示のことばは、「7つの封印」で閉じられているということです。
それに比べて、たとえば、ダニエルへ語られていることばも「封じておけ」というように
封印されているのですが、しかし、その場合、ダニエルに対して、「7つの封印で封じろ」とは語 られていないことを記憶すべきです。
何をいっているのでしょうか?要するに、「一つの封印」よりも「7つの封印」の方が開いたり、解いたり、解釈するのが難しいということを言っているのです。

神が7つの封印でこの書、黙示録が閉じられているという時、我々は真面目にその通りにこの書に関して受け取らなければなりません。
あたり前のことですが、一つの鍵で封じられているドアより、7つの鍵で封じられているドアの方が開くのが難しいのです。

空き巣に入ろうと思っても7つも鍵を使われていたのでは、侵入はなかなか難しいのです。

神がこの巻き物(預言のことば)が7つの封印で封じられているというなら、そのように我々はこの書に関して受け止めなければなりません。
簡単にいえば、この書は他の封印で封じられた書より7倍も難しいのです。

しかし、多くの人はそんなことを顧みないのか自分の力を過信しているのか、無謀にもこの書、黙示録のみから解釈し、そして討ち死にしていくように思えます。

さて、この書がこのように他の書よりも7倍も難しい、非常に難解な書だとして、その書のわなにかからず、正しく預言を解釈するにはどうすればよいのでしょうか?

私が思うには、賢い方法は、無理に難解な書のみから考えず、他の易しい道から、ゴールを目指すと言う方法です。私達は黙示録やダニエル書を読んで知的ゲームを楽しんだり、推理小説の推理を楽しんだり、はたまたSF空想科学をエンジョイしようと思っているわけではありません。
あくまで、終末がどのような時代になるのか、正しい知識を得たいと思って、それを願って、
この書を学んでいるのです。

一つの家があり、その家の玄関のドアに7つの鍵がかかっていたらどうすればいいのでしょう?
そのドアの7つの鍵を一つづつ、開いていく、苦労して開錠するという方法があります。
しかし、もっと簡単な方法があって、それは、一つしか鍵のかかっていない裏口の別のドアをねらうという方法です。

家の中にとりあえず入ることが目標なら、簡単な鍵をねらうのが一番です。あえて難しいことを最初にねらう必要はありません。
間違いもないし、時間も手間もかからないのです。

同じことが黙示録とダニエル書の比較に関してもいえます。とりあえず終末に起きるできごとの全体像をつかむことが目的なら、比較的とりかかりのつきやすい箇所、理解しやすい箇所、
誤解のなさそうな箇所から始めることがベストなのです。

何故なら、私達はここで「知的ゲーム」をしようとしているのではなく、真剣に終末の日の救いを求めているからです。

一つ理解しなければならないことは、終末の日に起きるできごとに関して黙示録もダニエル書もそして福音書の終末の記事も、皆同じことがらを記していると言うことです。
結論は同じ、答えは同じになるはずだということです。
聖書の著者はお一人、神のみであり、その方がそれぞれの書を書いている以上、同じ終末に関して、違うことが起きるはずはないのです。

そもそも同じ時期、同じ期間をこれらの異なる書が記している以上、基本的に同じことがらが起き、同じ順番で起きなければおかしいのです。これは大原則です。覚えておいて下さい。

この線、「終末には同じことがらが起きるはず」という原則に立つと、多くの人々がいう「黙示録の解釈、終末に起きることの順番」には、矛盾があることがわかります。何故なら、これらの黙示録の解釈者は、ダニエル書や福音書の終末の記事等の「平行記事」が決して記していないことがらが終末に起きると声高に主張しているからです。

すなわち、千年王国とか、ロシア(ゴグ?)のイスラエル国への攻撃、メギドにおける世界最終戦争(ハルマゲドン)等です。
この件に関しては別途見ます。

聖書は神が著者であると公言している唯一の書ですから、当然その中のそれぞれの書、黙示録、ダニエル書等の個々の書の間には矛盾はありません。もし、あるように見えるなら、実は解釈する方、読む方が正しく読んでいないのです。このことを知りましょう。

聖書の個々の書の間には、矛盾がありません。福音書は4つありますが、それぞれの記述には矛盾がないのです。マタイでは、イエスの父親の名前がヨセフであり、マルコでは、それがモーセだったりという矛盾はないのです。また、例えば、イスラエル、ユダの歴史を記した書として列王上下、歴代上下と全4巻ありますが、それぞれの記述には、矛盾はありません。
また、これらの記述は、歴史的なできごとと合致します。これらの調和、矛盾のなさは、他の種類の書と比べるなら、たとえば、仏教の各仏典の調和性と比べてみるなら驚くべきものであることがわかります。

さて、このように聖書の各書はそれぞれ矛盾のないものなのですから、終末の預言に関してもダニエル書、福音書の終末の記述、また黙示録と書名は異なっても実は同じことがら、項目、順番について記してあることを再度いいますが、覚えて下さい。

そしてもし、これらの間に矛盾があるように見えるなら、実は、読んだり、解釈する我々の方に誤りがあるのです。
これらの原則を視野に入れて上記テキストを見ていきましょう。

”19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。”

さらに確かな未来、終末を知る方法として、「預言のみことば」について語られています。
ですから、私達が「終末に関する預言のことば」から未来を知ると言うことはよいことです。
しかし、そのように大事な「預言」であるために、あらゆる種類のガセネタ、異端的解釈が
教会に注ぎ込まれていることをも知りましょう。

”夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。”

「暗いところ」にいる時、我々は先に何があるのか、何が待っているのかを知ることはできません。今は暗い時代であり、未来や終末に関して光が閉ざされている時代です。

”20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。”

ここに書かれていることは、預言解釈に関する最大注意事項、もっとも気をつけなければならないことです。それは何かと言えば、「私的解釈」、すなわち、そのテキストのみからの解釈です。要するに他の箇所を参照しつつ解釈せよということを言っているのです。このことに関して聖書は「預言解釈」と附随して特別に注意を促していることをとらえて下さい。

ですから、一般原則として、「黙示録のみからしか出てこない解釈、結論」には気をつけなければならないのです。他の終末に関する箇所、たとえば、ダニエル書、福音書の終末の記事には全く出てこないことがら、またはそれらと矛盾する「黙示録の解釈」は注意が必要、要チェック、吟味が必要なのです。

”21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。”

ここには、「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではな」いことが書かれています。
ですから、黙示録を書いた著者もダニエル書を書いた著者もいるが、しかし真の著者は実はただひとり、神御自身なのです。だからこそ、ここに聖霊に動かされた人たち」というように複数形が使われているのです。
聖書には、66巻の書があり、多くの人間の著者がいますが、真の著者は神お一人なので、それぞれの書には整合性があるのです。

その整合性と合致しない教え、すなわち千年王国の教理」、「新天新地の教理」等、黙示録のみからしか出てこない終末の教理は要チェック、警戒が必要なのです。
私は教理のことをいっています。「千年の間、キリストとともに王となる」との記述が確かに
黙示録にあるのは、確かですが、それをもとに「文字とおり1000年の王国がある」と主張することを千年王国の教理」と呼びます。

多くの終末に関するおかしな教理は黙示録を、いや黙示録のみを根拠に起こされます。
聖書が厳に戒めている私的解釈をしているのです。これらの教理はいかに教会内で広く受け入れられていようといまいと再度吟味、再確認をされるべきです。

また黙示録のみを根拠にまことしやかに教えられる「終末に起きるできごと」の表を盲信してはいけないと思われます。すなわち、まず7つの封印の期間があり、7つのラッパの時があり、それから、7つの杯の時、その後、ハルマゲドン、千年王国、新天新地があってというようなよく「まことしやか」に教えられる例の表のことをいっているのです。

何故なら、ダニエル書にしてもまた福音書にしても黙示録以外の終末について語られている書物からは、そんなタイムテーブルは決して作り得ないからです。この表は黙示録のみを根拠にしている、すなわち、私的解釈の結果、出てきたものなのです。
ダニエル書また、福音書の終末に関する記述は非常にシンプル、そして分かりやすいものです。

いわく、
1. 終末に獣の国が起きてくること。

2.獣の国の支配の下で、主につく聖徒の迫害がある。

3.しかし最後に主の直接介入があり、この獣の国は滅ぼされる。

4.キリストの国が建てられ、主につく人はそこに入る。その国は永遠に続く。

------

これだけです。もし、我々が黙示録を読んで上記の結論、他の書と同じような「終末に関する順番」を読み取ることができたら、我々は正解を見い出した可能性が高いです。しかし、全然違う結論に導かれたのなら、実は「迷路に入ってしまった」「ひっかけ問題にだまされた」可能性が強いのです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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終末には、獣の国の迫害の後、一気に我々クリスチャンの最終ゴールがある。

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No.332 この王達の時代に(2)


テキスト:”ダニエル2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。”


 本日は「この王達の時代に(2)」としてメッセージします。
終末、またその後に続く、キリストの王国に関して、聖書は、「この王達の時代に」、すなわち、終末の獣の国(アメリカ)が存在する間にうち建てられることに関して、明確に語っていることを更にみていきたいと思います。

現在、教会で広がっている「終末論」には一つの特徴があり、
それは、「黙示録の解釈」に根ざしているということです。

「黙示録を解釈すること」はもちろん、悪いことではないのですが、問題は、その解釈がかなり「聖書の他の箇所」がいっていること、たとえばダニエル書のいっている終末論とはずれており、結果として、かなり聖書本来の主張している「終末論」と異なったものとなってしまったということが問題なのです。

その例はいくつもいくつもありますが、その中で代表的なことがらは、「キリストの王国」が来る時期に関してのものです。
ダニエル書は明らかに「この王達の時代に」すなわち、たとえば今のアメリカが聖書の語る「獣の国なら」その時代に「キリストの永遠の王国」(永遠の国なので、千年王国=有限の王国ではない)が建てられることについて語っています。

このダニエル書の語る「キリストの永遠の国」について見ていきましょう。

最初にテキストを見ます。ここでは、「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。」と書かれています。ですから、聖書によれば、この王達、すなわち、獣の国が大活躍している、その時代に「キリストの永遠の国」が打ち立てられることについて語っているのです。

もしこの王達が、アメリカ及びそれに追随するヨーロッパの国々だとするなら、このアメリカと同じ時代を生きている私達は、何とこのキリストの永遠の国を見るようになるということを言っているのです。

一つ知らなければならないことは、このこと、「この王たちの時代に」「キリストの永遠の国」が建てられるというダニエル書の主張は、我々がよく聞く黙示録解釈の中でいわれる「終末に起きるできごとの順番」とかなり違うということです。

多くの黙示録の解説書によれば、終末の時代から、最終ゴールである「キリストの永遠の国」が到来するまで、千年王国があったり、ゴグマゴグの乱があったり、7つの封印、7つの鉢、7つのラッパの時があったり、えらい長い年月がかかるように思えます。
とても「この王達の時代に」、すなわち、獣の国アメリカをはじめとする国々が存在する時代には最終ゴールまで行き着きそうに見えません。

そして、これら2つの書、ダニエル書、及び黙示録のさし示す「終末の時代」は、あたかもそれぞれ、違うもののようにさえ見えます。
もしそうなら、どちらが正しいのでしょう?あるいは、これら2つには矛盾がないのでしょうか?
そのことを考えてみたいと思うのです。

本日はとりあえず、ダニエル書の語る終末のできごとの順番、すなわち終末に「キリストの永遠の国」が到来することに関してダニエル書の各箇所が語る事柄を見ていきたいと思うのです。

1)”ダニエル2:34 あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。”

まず始めに、このダニエル2章の「金の像」に関する記事をみます。

”34 あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。”

人手によらず切り出される一つの石はイエスキリストでしょうか。「像の鉄と粘土の足」は、獣の国とそれの手足のように動くヨーロッパの10の国々でしょうか。これらの国々は、この石により、「打ち砕」かれます。ですから、これらの国々、ヨーロッパ、アメリカ等は、この石、キリストに出会うのです。そして打ち砕かれるのです。

”35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。”

「石は大きな山となって全土に満ちました。」と書かれています。これが上記テキストに出てくるキリストの永遠の国の別表現なのでしょう。

ですから、この2章には「この王達の時代にキリストの永遠の国が建てあげられる」ということを語っていることがわかります。

2)”4:32 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」”

次にダニエル4章を見ます。この章における「終末のできごとの順番」を見たいとおもうのです。
この箇所は、バビロン王ネブカデネザルが見た「7つの時」を過ごすという夢に関する章です。
彼に対して、「7つの時」を過ごした後、「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる」と語られています。
この7つの時、最初の国、バビロンの王が「獣のようになり」過ごした7つの時とは実は、預言であり、黙示録の7つの頭の獣の時に相当するのかもしれません。

もしそうなら、この箇所も獣の時の後に、「いと高き方=キリストが人間の国を支配すること」、すなわち「この王達の時代にキリストの永遠の国が建てあげられる」ことについて語っていることがわかります。この章の結論、順番も同じなのです。

3)”7:7 その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
8 私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。
9 私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
10 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
11 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
12 残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

24 十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。
25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。
26 しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。
27 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』”

今度は7章を見ます。ここの順番はどうなのでしょう。この箇所は7章の4つの獣の国に関する預言です。ここを順に見ます。

”7 その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
8 私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。”

第4の獣の国は、現在の世界唯一の超大国アメリカであり、この国は、「それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。」ことが書かれています。この国は、終末の日に悪魔の意志を行うために起きてきたような国であり、この国を通して、滅ぼされたり、爆撃されたり、破壊される国々がおきます。いやもう起きています。

”これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。”

この10の角は、2章では、10本の足指と描写されています。人はその指を用いて細かい作業をします。また人はその手の指を用いて針仕事や、絵や文字を書くことをなしとげます。指にはそのような用途があります。これは、足指に関しても同じです。同じ意味あいで、10本の指、ヨーロッパの10の国々は、この獣の国の意志を細々と行い、その道具となっています。たとえば、先の湾岸戦争や、ユーゴ爆撃、またアフガン爆撃においてもこれらの国々はこの獣の国の狂気をとめるどころか、むしろ、率先して派兵、作戦を遂行しています。確かに彼等は獣の指のような人々です。

”8 私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。”

10本の角、すなわち、ヨーロッパの間から出てくる、すなわち、母体をヨーロッパに置きながら、そこから、出てくる、すなわちヨーロッパ以外に居を構える国について書かれています。
「一本の小さな角」とは他の箇所では、「一本の強い角」(70人訳)と書かれています。恐らく、こちらが正しい訳ではないでしょうか。この強い角こそ、現在の超大国アメリカです。

”9 私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
10 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。”

さて、ここで突然のように、「年を経た方」についての記述が出てきます。挿入されます。
なぜ、ここで突然、「衣が雪のように白」い方、「頭の毛は混じりけのない羊」のような方、すなわち裁きの神の記述が挿入されるのでしょう。
私が思うにその理由は、この獣の国、アメリカの時代にこの方による裁きが行われるからです。
この獣の国の惑わしに入る人々は、裁きに入ります。それゆえ、「さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた」と書かれているのでしょう。

もう一つ、この箇所に関連して注目すべきことがあります。それは、以下の裁く方の記述は、下記、黙示録20章の「裁きの座」の箇所とそっくりだということです。

”黙示録20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。”

このダニエル書の記述を見る限り、この裁きの座の場面は、獣の国の時代に起きるように見えます。
しかし、黙示録に関して我々がよく聞く解説は、「裁きの御座」の場面は、千年王国やら、
ゴグの乱やらのずっとずっと後ということです。ここにもダニエル、黙示録2つの書の終末の記事解釈相互に矛盾があるようです。
どちらかが正しいのですが、我々はどちらの解釈が正しいのか知らなければなりません。

さて、次を見ます。

”11 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
12 残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。”

さて、上記「御座の場面」の挿入にひき続き、聖書は、また獣の国に関する記述に戻っています。
この「挿入」という何気ない展開の中で神が語ろうとしていることを我らは悟るべきと思われます。
この挿入は何を意味するのでしょう。それは、恐らく、「この獣の国の時代」すなわち、「この王達の時代」に確かに裁きが行われることを我らが理解するために与えられたように思えるのです。

例をいいます。
私達が書くたとえば、小説などにも「挿入」という手法がよく用いられます。
じりじりとしびれを切らしている厳流島の小次郎の場面の描写がしばらく続き、突然そこに向かって小舟をこがせながら、その上で船の「かい」を削る武蔵の描写が挿入される。そして、また場面は厳流島に戻る。こんなパターンはテレビや小説でおなじみです。そして通常、もとの場面も挿入される場面もどちらも、「同じ時」に属しています。どちらも並行的なのです。
同じことは、この獣の国と御座の場面にもいえます。これらは無関係な時に属しているのではなく、同じ時、もしくは隣接した時に属しているのです。

話は変わりますが、「その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれる」とはどういう意味なのでしょう。この獣は国、具体的には恐らくアメリカをさします。
ですから、これは、獣の国、アメリカに対する裁きに関する描写と思われます。

この獣の国、他の国を「ならず者国家」などと勝手に名ずけ、爆弾を雨あられと降らす国の横暴はさらに続くでしょうが、しかし、それは永遠に続くわけではなく、この国が、「火」により、裁かれる日が来るのでしょう。この国を滅ぼす「火」とは、普通に類推すれば、爆弾、特に原爆の火だろうということが類推されます。

この日、この国とこの国を操る獣の論理に追従し、他国への殺りく、攻撃を「是」として、賛同していた愚かなこの国のクリスチャン、大衆に「裁きの火」が下るようになるでしょう。
その日、世界の人々は、この世に確かに「裁きの主」がおられることを知るでしょう。
このことは、聖書の中で明確に預言されています。この件は別途他の機会に見ます。

”残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた”

この獣の国、アメリカと他の獣(10の角のことか?)との運命は異なります。
悪魔の意志を行うアメリカは裁きの中で最初に滅ぼされるのです。恐らく、黙示録バビロンの裁きは、この国に関する預言をも含んだ2重の預言と思われます。

しかし、それ以外の獣の国に関しては、そのような突発的な裁きではなく、定められた時まで、命が保たれるということなのでしょう。

”13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。”

この人の子のような方は、再臨するキリストです。ですから、再臨はこの時にあるのです。艱難時代、獣の国のさばきとは再臨と隣接した時代に起きます。

”24 十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。”

この箇所から、我々は再度、終末に起きるできごとの順番を見ることができます。その順番とは、第一番目に獣の国とその手足として働く10の国の出現です。私の理解ではこれらの国はもう出現しています。

”25 彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。”

2番目はこの獣の国主導による「いと高き方の聖徒たち」への迫害です。いわゆる艱難時代が来ます。大艱難時代は、3年半続きます。

”26 しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。”

3番目にこの獣の国に対するさばきが行われます。

”27 国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』”

4番目にキリストの永遠の国が来ます。そしてこれが最後であり、これ以上はありません。「御国は永遠の国」というように永遠に続くのでこれで終わりなのです。永遠の国に終わりやら、続きがあったら、そもそも「永遠の国」ではなくなってしまいます。だから、千年王国だの黙示録の解説書に出てくるもろもろのできごとは出てきません。

多くの黙示録について語る人々は、この書、黙示録のみから色々、珍説を考え出してペテロの手紙で厳しく戒められている「私的解釈」(その箇所のみから解釈する)に陥り、他の書、たとえば、このダニエル書の視点からの解釈や、吟味をしません。そのために、トンデモない地の果てまで至る妄想を広げ、わけのわからない、たわごと、珍説を繰り広げています。

以上のように聖書、ダニエル書の語る終末のできごとの順番は非常に明白であり、誤解の余地がありません。私達はこの視点に沿って逆に黙示録の記述を再検討しなければならないと思われます。

このダニエル7章の結論も「この王達の時代にキリストの永遠の国が建てあげられる」というものです。すなわち、今がこの王達の時代なら、この時代に聖書のいう最終ゴール迄行ってしまうのでのです。聖書の預言している時代は結末を迎えてしまうのです。そうです、もし獣の国が、アメリカなら、この時代に最後迄来てしまうのです。

次の箇所、8章を見ます。

4)”8:23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。
24 彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
25 彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。
26 先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」
27 私、ダニエルは、幾日かの間、病気になったままでいた。その後、起きて王の事務をとった。しかし、私はこの幻のことで、驚きすくんでいた。それを悟れなかったのである。”

この章の記述も前記7章の記述と同じように終末に起きることがらの順番は、非常にシンプル、明解、単純なものであり、他のダニエル書の箇所と全く矛盾せず、わかりやすいものとなっています。

この8章でいわれていることの順番は以下のとおり。
1. 終末に獣の国が起きてくること。
(23 彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。)
2.獣の国の支配の下で、主につく聖徒の迫害がある。
(有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。)
3.しかし最後に主の直接介入があり、この獣の国は滅ぼされる。
(しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。)

この順番は、他のダニエル書の箇所に記されている順番と全く適合しており、矛盾はありません。

次を見ます。

5)”12:1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

この箇所でも「獣の国の台頭」とそのため起きてくる聖徒の迫害とが記されています。
そしてその後、「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさま」し、「ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」入ることが記されています。
この箇所は、黙示録の以下の箇所と同じ事柄をさすと思われます。

”黙示録20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。”

くり返していいますが、この箇所に至る「終末に起きるできごと」に関してダニエル書と黙示録の記述では、明らかに違いがあるように見えます。

ダニエル書の各章では、終末の聖徒の迫害、獣の国へのさばきの後、すぐ「御座の裁き」へ進むように見えます。この間には、何も特筆すべきできごとはないかのように見えます。
しかし、黙示録を見た限り、ここには相違があります。黙示録の記述を見ると黙示録の記述の最後頃、黙示録20章の「御座の裁き」に至るまで多くのできごとがあるように「見え」ます。
いわく、7つの封印、7つの鉢、千年王国、その後のゴグの乱、世界最終戦争ハルマゲドンの戦い等です。そのように「見える」のです。

この2つの書の矛盾に関しては次回考えましょう。
しかし、今はとりあえずこのダニエル書が一貫として語っていることをとらえておきましょう。
ダニエル書は明らかに、「終末に起きるできごと」の順番に関して、獣の国の迫害の後、一気に我々クリスチャンの最終ゴールである、キリストの永遠の国に達することを述べています。

いきなり最終ゴール、「すごろく」でいうと、 いきなり「上がり」へ行くので、これ以上先のことは書かれていないのです。また、終末の迫害の後、一気に御座の裁きに入ることが書かれています。
この書の各章の記述を比較をした限りにおいては、各章、相互には、この事実、順番には矛盾がありません。今回とりあえず、このことをとらえましょう。
 

終末における主のみ心を行いましょう。
 
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キリストの再臨のある「王達の時代」とはいつの時代なのか。

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NO.331この王達の時代に


”テキスト:ダニエル2:40 第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
41 あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
42 その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
43 鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。
45 あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」”

本日は、「この王達の時代に」という題でメッセージをします。
終末のある「王達の時代に」この世界にキリストの再臨があり、天の神は、「永遠に立ち続け」る国を建てあげることを聖書は語っています。その「王達の時代」とはいつの時代なのでしょう?それを見ていきたいと思います。テキストに沿って見ていきます。

”40 第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。”

「第四の国は鉄のように強い国です」と書かれているように、強い国です。この国は、ダニエル7章では、「強い角」(70人訳による)と表現されています。

ですから、要するに「軍事大国」のことをいうのです。今がその時だとするなら、現在の世界のスーパーパワーといえば、それはただ一つの国、日本に「不必要な」原爆を2発も落とし、今だに悔い改めようともしない、例の国しかありません。

「鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。」

この国を語る時、聖書は、「全てのものを打ち砕く鉄」「強い角」と表現していることを
忘れてはいけません。決して「自由の国」とか、「民主主義の国」とはいわず、獣、「鉄」「強い角」というように破壊について述べているのです。また、「すべてのものを打ち砕いて粉々にする」とも述べています。

だから、この国主導による「多くの国に対する徹底的な破壊」が始まるのです。
このことは、以下のように、すでに開始されています。

1.湾岸戦争におけるイラクに対するアメリカを先頭とする「多国籍軍」の徹底的な爆撃、破壊。

2.ユーゴに対するアメリカを始めとする多国籍軍による徹底的な爆弾攻撃。

3.(2002年7月)アメリカによるアフガンへの徹底的な爆弾攻撃。アメリカ主導で多くの国が参加した。

聖書が語るようにまた、この国の象徴である、反キリスト革命、フランス革命の象徴、自由の女神が示すようにこの国が建てられた本当の目的は、「反キリストの思い」を実現することであり、また、世界の国々の破壊です。

今までで彼等の永年にわたる下工作は終了し、これからは世界に対して破壊、容赦ない破壊を続けていくようになるのでしょう。用意とは?

すなわち、

東西冷戦、共産主義の脅威の旗印のもとにアメリカが核武装することを認めさせる。
しかし、実際は、ジョンコールマン、「300人委員会」kkベストセラーズによれば、ソ連共産主義とは、ニューヨークの金融家(すなわちゆたや人)により財政支援されてなりたっていたものなのです。そもそも共産主義は、ユタヤ人の発明だし、また、ロシア革命政府とは、90%ゆたや人からなるものです。東西冷戦、共産主義の脅威とは、実は「獣の国が誰はばからず核武装し、十分に軍事力をつける」ために用意された茶番、つくりものだったのかもしれません。

かつて、ケネデイ大統領の頃は、アメリカのすぐ隣のキューバが共産化し、「脅威!」ということで、大変な騒ぎでした。
しかし、今はもうキューバアメリカの属国のようなものなのか、アメリカ国内に収容しては
(嘘がばれて?)都合の悪い、(犯人だと汚名を着せた)アルカイーダの人々を拘束するのに、キューバが使われたりしています。

それ以外の国に関しては「核拡散防止条約」等を推進して、核爆弾を作らせないようにする。
他国の軍事に関しては、戦争、核武装は惡だとの世論を国中に起こし、軍隊を弱体化させる。
たとえば、日本でも彼等が扇動する「左派系の人々」を通して、軍事力を持つのは罪、核爆弾を持つのは罪であるとの意識の刷り込みが行われている。

”その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。”

先の国々とは、このダニエル2章に記されている第一、二、三の国の事でしょう。
これらは他の箇所とあわせると、それぞれ、バビロン、メデイアペルシャギリシャの国のことであることがわかります。

このこと、第4の国(アメリカ)による、第一、二、三の国への攻撃は、既にに行われてています。

過去10年程におきたアメリカ、獣の国主導の戦争はこれらの「第一、二、三の国」に対するものです。

湾岸戦争イラク、すなわち、かつてのバビロン、第一の国への攻撃です。
ユーゴ空爆:このギリシャバルカン半島への攻撃は、すなわち、かつてのギリシャ帝国発祥の地への攻撃、第三の国への攻撃です。
アフガン空爆:この国はかつてのメデイア、ペルシャ、すなわち第二の国に属します。
この国をアメリカはもう長い間、「徹底的な空爆」を行っているのです。

これらのことからもこの第4の国がどの国なのかはもう明白ではないでしょうか。

”41 あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。”

「足と足の指」

ここでこの終末の獣の国に関して、「足と足の指」と書かれています。
足と足の指はそれぞれ別のものです。ですから、この獣の国には、足に相当する統括する国、支配的な国、及び、足の指に相当する従属的な10国、それこそ、指のように、指示されたように動く国々があることがわかるのです。
これは、今でいえば、世界唯一の軍事大国アメリカ及び、その指示に従うヨーロッパを中心とする国々のように見えるのですがどうでしょう。

”42 その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
43 鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。”

この国は一部が強く、一部が弱いということです。

”44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。”

「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされ」るとのことです。「その国は永遠に滅ぼされることがな」いとのことです。この一つの国とは何の国のことでしょう?
永遠に滅ぼされることがないというなら、この国こそ、実は聖書がくり返し語っている神の国」のことではないでしょうか?そしてもしこの国がここで、書かれているように「永遠に立ち続け」るのなら、これより先の国、この後に建てられる国などないことを我々は知るのです。これが最後の国なのです。

そしてこの国、聖書が語っている我々がめあてとする「永遠の国」「この王たちの時代に」立つと聖書が明白に語っていることをとらえて下さい。

私は何をいっているのでしょう?
私はこういいたいのです。
もし、ここでいう第4の国、獣の国が、アメリカ及びそれに追随するヨーロッパを中心とする国々であるというなら、「この王たちの時代に」我々は今いるということです。
そして、聖書が「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされ」るというなら、今の時代の我々はこの「一つの国」「永遠の国」「天の神により建てられる国」という国が実現するのを何と見るかもしれないということをいいたいのです。

かつて幕末すなわち江戸時代の終わりに生きていた人々は皆、新しい政府、明治政府が建てられるのを見、またその時代を経験しました。同じ意味あいで、もし聖書のいうことが正しいなら、(もちろん聖書のいうことはいつも正しいのですが)、そして今私達が獣の国をまのあたりに見ているなら、(アメリカはダニエル7、8章のいう獣のあらゆる性質を満たしているのですが)私達は、そのすぐ後に建てられるこの永遠の国を見るようになるということを言っているのです。勿論神がその人にそのことを許されればですが。

もし幕末に生きている人々がほんの少し未来のことを見る事ができたのなら、もう侍やちょんまげに象徴される古い政治体制や社会に
いつまでもしがみついているのは、無意味だということを知るでしょう。

徳川将軍様は天下に並びのないものであり、日本国全ての武士、百姓、町人が300年もの長い間、恐れ入ったものですが、ほんの少し、先のことを知る目があるのなら、その人は、いずれ、時代は変わり、将軍は江戸城を明け渡し、新しい支配者、明治天皇の時代に移っていくことを知るようになるでしょう。もう、この時代に生きている人々が古い時代の習慣、ちょんまげやら、刀を差すことなどに固執していることはあまり意味がないのです。何故なら時代が変わるからです。

同じ意味あいで今、終末の人々が知らなければならないことがあります。
それは、いずれこの時代が変わるということです。今、すさまじい勢いで、社会は終末へと、獣の支配へと突き進んでいくようですが、いずれ時代は変わるのだと言うことを我々は知らなければならないのです。

「この王たちの時代」、すなわちアメリカの支配が続く時代に、「天の神」「一つの国を起こされ」「その国は永遠に滅ぼされることがな」いというなら、今の我々はその国をめあてに備えるべきなのではないのでしょうか?そうです、何はともあれ、これから建てられようとする国に目を移すべきなのです。

今、このアメリカが聖書のいう獣の国なら、我々はもうここでいう新たに起きる「永遠に続く国」のすぐ隣りに来ているのです。幕末の人々は自分ではそれと知らず、今までの日本人が決して経験しなかった時代、鎖国の解かれた文明開花の時代、明治時代のすぐ隣に実は生きていたように、
終末の我々はこの「永遠の国」のすぐ隣の時代に生きているのかもしれないのです。
そうです、まさに聖書は「この王たちの時代に」という表現でこのことを語っているのです。

ですから、逆に我我が終末に関して如何に多くのガセネタ、偽りにだまされてきたかをも知らなければなりません。ガセネタ?そうです。これらのダニエル書のことばが正しいのなら、
我々の間に広く広まっているあの教え、千年王国、すなわち、神の新天新地が始まる前に「千年の王国」があるなどという間延びした教えは全く間違った教えであるということを知らなければなりません。

ダニエル書は明らかに「終末の最後の世代」からすぐ、「永遠の国」へ移ることについて述べており、この見地から、我々の終末論を再度見直すべきなのです。
わけのわからない盲人の書いたたわごとの黙示録解説や終末論を見直すべきなのです。

”45 あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」”

この人手によらない「一つの石」とはキリストのことであり、ここには、キリストの王国について書いてあるのです。そして、くり返すようですが、このキリストの王国は「この王達の時代に」打ち立てられます。決して遠い先のことではないのです。

この石は、「鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕」きます。何故これらの国は打ち砕かれるのでしょう?それは、これらの国が、この石、キリストにつく人々を打ち砕いてきたからです。
その日、獣の国は打ち砕かれ、反キリストの支配は崩されます。

その日、この石、岩なるキリストに堅くつく人々に祝福があることを知りましょう。

かつての明治維新、新しい政府樹立の時には、維新の功労者、また天皇の軍隊に加わった人々には、名誉と昇進が与えられました。逆にこの政府樹立に反対した人々は命を失い、恥を受けました。
その日、この古い徳川幕府、多くのキリシタンの命を奪った政府は倒れ、これに従う人々は恥を受けました。

同じように、その日、この方にあくまで立ち続けた人々にこそ、恵みと誉れがあることを知りましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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中東の「ユダヤ人」が偽ユダヤ人なら本物はどこにいるのか。

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No. 330 失われた12部族


 テキスト:”ロマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。”

 

「本当の」ユダヤ人はどこに? もし中東にいる白いユダヤ人」が聖書のいう、偽ユダヤ人であるなら、それでは、本当のユダヤ人」はどこにいるのでしょうか?
本日はそれを考えてみたいと思います。
 

1.終末の日のイスラエル民族の回復は聖書に預言されている
聖書は明らかに終末の日のイスラエル民族の回復を述べています。
以下のパウロのことばの通りです。

”ロマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。”

そのようなわけで、終末の日にイスラエル民族が神に立ち返ることをいう人々は、正しくみことばを理解したものであり、終末の日にイスラエル民族が神に立ち返らないと主張する人々は、不信仰な、またあまり聖書を知らない人々ということになります。

また、以下の黙示録の箇所は、その「預言されていたイスラエルの回復の成就の日」をさすように思えます。

”黙示7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
6 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
7 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
8 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。”

聖書の中で、イスラエルの民族の回復」は明らかに預言されており、聖書を信じるなら、それは確かに起きると思った方が正しいと思えます。

教会の一部には、文字どおりのイスラエル民族が回復するとは限らないという意見もあるようですが、しかし、上記黙示録7章には、「ユダ、ルベン、ガド、..」というように、具体的な旧約のイスラエル12部族の名前が記されています。これは、たとえととるより、文字どおりの12部族ととるより解釈のしようがない箇所と思われます。

2. 2種類の14万4千人
実は黙示録には、もう一箇所14万4千人について書かれている箇所があります。
以下の箇所です。

”黙示録14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。”

この箇所は、上記黙示録7章の14万4千人の箇所と異なり、イスラエルの12部族のことは書かれておらず、逆に小羊の名というように新約的な特徴にあふれています。多くの黙示録研究者は、この2つの箇所の14万4千人は異なる集まりをさしているととり、片方を(黙7章)を旧約、イスラエル部族と関係する人々、他方(14章)を新約の聖徒であると解釈します。

さて、そのように解釈するとますます、終末には、イスラエル民族の回復」が起きて来るはずだということがわかります。

もしも、中東や、アメリカ、ニューヨークにいるあの白いユダヤ人が本物でないとしたら、(その証拠はたくさんあるのですが)、それでは、一体どこに本物のユダヤ人はいるのでしょうか?

3. 「失われた10部族」
そのことを考える前に、「失われた10部族」説ということを考えてみましょう。
旧約のイスラエル民族が北のイスラエル王国(10部族)と、南のユダ王国(2部族)とに分かれていたことは、聖書に明確に記されている事です。そして、その北イスラエルの10部族は、アッシリアに捕囚となり、以前から、住んでいたイスラエルの地から、移されてしまいました。
その後、彼ら10部族は、歴史から、消えてしまいました。この失われた10部族に関して、色々な研究がありますが、多くの日本の牧師、研究者は、彼らが中国、韓国、そして、日本にまで至ったのではないかと述べます。
それらの説はそれなりに説得力のあるものであり、確かに聖書に記されている
イスラエルの風習と日本の古来の習慣、言語等は、よくにているところがあります。

たとえば:
みこし=契約の箱
神社=旧約の幕屋

のように似ている風習が多いのです。
また、暦も似ています。
欧米では、新年にはそれ程、特別な休みがあるようではないようですが、
日本など、お正月というとそれこそ、大きな節目となります。
しかし、聖書出エジプト記を読むと、「これを正月とせよ」ということで、正月に特別な意味をもたせています。また、正月の前の晩、ということは、大晦日にあたるのですが、その日の夜、イスラエルは代々寝ずの番をする」との
記述があります。日本でも大晦日は子供も遅くまで起きていますが、不思議と一致します。
また、聖書に記されている正月の7日間、「種入れぬパンをたべる」という記述は、日本の正月の期間に餅を食べる習慣と明確に対応します。

また、日本語の中に多くのヘブル語が入っていることを研究者達は述べます。
また、日本語のひらがな、かたかなは、古いヘブル語の筆記体と似ているとある研究者は述べます。その対照表を見たことがありますが、確かに似ているとうなずけるものがあります。

他の欧米や、アフリカの国々に、日本のように、正月の七日間、餅(種入れぬパン)を食べる習慣があるとは聴いたことがありません。それで、この聖書的な習慣が日本にはあること一つをとっても、日本の国は、欧米や、アフリカの国々に比べて、「失われたイスラエルの部族」の子孫が残っている「可能性」が高いといえると思います。もちろん、誰も断言はできないのですが、可能性について語ることはできると思うのです。

4. 黙示録7章は、「日の出る方角」におけるイスラエル民族の回復を語る聖書に戻りますが、上記黙示録7章には、「日の出るほう」イスラエルの12部族に聖霊の印が与えられることが書かれています。以下の通りです。

”黙示録7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。”

「日の出るほう」とは何をさすのでしょう?普通に考えれば、地上の場所や、方角をさすと思います。
聖書は、イスラエルエルサレムを地の中心とみなしますから、そこから日の出る方角とは、アジア地方をさすでしょう。そのなかでも特に昔から「日出る国」と称し、また太陽を国旗とする日本は、この表現にまさしく該当する国と思えます。
逆に日が没する国、西のイギリス、ヨーロッパ等はこれに該当しないでしょう。

ここには、「日の出るほうから上る御使い」が、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者」に印を押す事が書かれています。これは具体的には何をさすのでしょう?
これこそ、日の出るほう、すなわち、アジアから始まる世界的な規模のリバイバル、終末の大収穫に通じる、聖霊の大傾注をあらわすのではないでしょうか。
そして、その聖霊の働きの中で、かつてアッシリアから、東の地に迄至った、イスラエルの部族の子孫が、神の印を受ける、そのことをさしているのではないでしょうか。

そう考えると多くのことがらのつじつまがあってくるようです。

5. 聖書は「ユダ族=ユダヤ人」も東の地で終末に回復されることを述べる。

 さて、私は「失われた12部族」について考えてみたいと思っているのです。

上記黙示録7章のイスラエルの部族が聖霊の印を受ける」記述の中で一つ注目すべき箇所があります。
それは、聖書は、イスラエルの失われた10部族」が東の地で聖霊の印を受けるといっているのではなく、そうではなく、イスラエルの失われた12部族」が東の地で聖霊の印を受けるといっていることです。10部族ではなく、12部族が聖霊の印を受ける事について語っているのです。そして、その中には、北イスラエルの10部族だけでなく、南のユダ王朝に属する「ユダ部族」も入っているのです。

繰り返しますが、聖書は、「ユダ部族」も終末の日に「日の上る方」すなわち、アジアの地において、聖霊の印を受けて回復することを述べているのです。

いわずもがなですが、聖書でいうユダヤ人」とは、南のユダ国に属する人々のことをさすのです。

さて、このように聖書が「終末の日の東の地におけるユダ族の回復」を述べているとすると、
ここで当然のように附随する質問が出て来ます。それは、「それでは今、このユダ国の人々はどこにいるのか?」という質問です。

その答えは北イスラエルの人々のことを考えれば解ります。
イスラエル、失われた10部族が遠い東のアジアの国々、中国、韓国等にまで、長い旅路の果てに辿り着きそこにすみついていたとします。そして、その地において、終末の日に その子孫である国民が聖霊の印を受けるとします。また、そのことを黙示録7章が語っているとします。

もしそれが本当なら、同じように終末の日に黙示録7章で、聖霊の印を受ける「ユダ部族」に関しても同じことがいえるのではないでしょうか?すなわち、ユダ族も、本当の、真のユダ族も実は現在、東アジア の国に住んでいるのです。もちろん、その国の国民は自分達がユダ族の子孫だなどと、思ってもいないのですが、しかし、実際はその子孫である。ユダ族は実は現在、東アジアの地に移り住んでいる、 だからこそ、彼らは終末の日に「日の上る方」聖霊の印を受け、聖霊の大傾注を受ける、そう考えた方が論理的ではないでしょうか。

ですから、上記黙示録7章のイスラエルの12部族が日の上る方で聖霊の印を受ける」との記述は、すなわち、イスラエルの子孫の12部族全てが東の地にいるということをあらわすと思われるのです。そのように考える事がもっとも論理的だと思われるのですが、どうでしょう。

6. ダビデ王朝の血筋を受け継ぐ民族こそユダ族、真のユダヤ民族
 さて、もし、日が上る方、すなわちアジアの国々にこの「ユダ国」につらなる人々がいるとして、もしそうなら、どの国がそれに近いのでしょうか。

私も専門家ではないので、あまり断定的なことをいえないのですが、
一つ考えるべきことがあります。それは、ユダ国の一つの特徴は、この国に、「ダビデ王朝」があったということです。そして、ダビデ王朝の一つの大きな特徴は、「ダビデの血筋が続いている」ということです。すなわち、「王の子が王となる」という原則で、血筋が一貫して継続して途切れず続いているのです。
聖書の歴代、列王記を詳しく見ると、北イスラエル国と異なり、ユダ王朝の血筋は決して途切れず、継続していることがわかります。 ダビデの血は一貫して王族の中を流れているのです。
このように書かれています。

2歴23:3”こうして、全集団が神の宮で王と契約を結んだ。そのとき、彼はこう言った。「ご覧のとおり、主がダビデの子孫について約束されたように、王の子が王となるのです。”

さらに聖書の中で神は、後々までダビデの王族が絶える、断絶することがないことをも約束しています。

”2歴7:8わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない。』と言って契約を結んだとおり、あなたの王座を確立しよう。”

もちろんこのことは、新約的にはキリストにおいて、実現するのですが、しかし、今我々は肉にある、イスラエルアブラハムの血筋に連なる、ユダ族の王族について語っています。
神は、「イスラエルを支配する者」、すなわちユダ族の王族の血筋がたえる事がないことを
約束しているように思えるのです。

さて、アジアの国々、たとえば、中国や韓国の王の歴史を見ると、このような血筋の継続ということはありません。ある王族が立って何代か継続したとしても、その後全く別の血筋の王朝にとって変わられてしまうのです。これは、中国や韓国に限らず、王族の血筋とは、イギリス、フランス等どこでも、そんなものなのです。

しかし、たった一つ例外的な国があります。それはどこか?
勿論、万世一系の系統を誇る日本の天皇家です。世界でただ一つ、日本の王族にのみ聖書、ユダ王朝の特徴である、「血筋の継続」があるのです。日本の王族(皇族)の血は、日本の歴史始まって以来、綿々として、同じ血筋が流れています。このことは、日本にいると、当たり前のように思ってしまうのですが、世界的には大変例外的なことです。そして、日本の皇室とイスラエルの伝統や、風習との近似は多くの研究者が指摘することです。

客観的に見て、日本の皇族は、ユダ、ダビデ王朝と関係している可能性が高く見えるのですが、
このことは偶然でしょうか?

とてもそうは思えないのです。

7. 白人である中東イスラエルユダヤ人”黄色人種である日本人とは決して同族ではない。
 もしかすると日本を含むアジアの国々には、この失われたイスラエルの部族の子孫が確かにいるのかもしれません。
しかし、もしそうだと仮定するなら、人種的にはっきりいえることがあります。
それは、もし、我々アジアの国々の中にイスラエルの部族の血が流れており、我々がその子孫だと仮定するなら、あの中東のイスラエルの地に住む、ユダヤ人は人種的に我々の同族ではありえないということです。

人種差別をしているのではなく、生物学的な分類の話をしているのです。
たとえば、日本人と韓国人、これは、人類学的に似た種族です。
日本人の間に韓国の人が歩いていても、特に何もいわなければ、そうとは、気付かず、日本人と区別できないことがあります。それは、この2つの国民が生物学的に似た肌の色、髪の色、目の色をしていて、あまり明確に区分できないからです。中国や、モンゴルの人も日本人と似ています。
大相撲のモンゴル出身の朝青竜などを見ると、あまりちがいがないように見えます。

それに反して、ユダヤ人は日本人や、韓国、中国人とは生物学的に全然異なる人々です。
論より証拠、たとえば、典型的なユダヤ人である、キッシンジャーアインシュタイン、アンネフランク等を日本人の間に置いて、誰もが日本人だと思うかと言うと誰も思わないでしょう。
彼らは別人種です。逆に彼らがアメリカ人、イギリス人、ドイツ人のように白人系の人々の間に立っていたら、あまり違和感がなさそうです。何故なら、彼らは白人系の人種だからです。

彼らは我々アジアの黄色人種とは、髪の色も皮膚の色も目の色も異なる白人種なのです。
ユダヤ人は他人種との婚姻を重ねたから、白人的になったなどとの説明は、ただの詭弁でしょう。

彼らが絶対偽ユダヤ人で、我々アジアにいる人々がイスラエルの血を受け継いでいると強弁するわけではありませんが、一つはっきりいえることがあります。

それは、彼ら、中東に住む白いユダヤ人が本当のユダヤ人なら、我々アジアの国の人々は、
決してイスラエルの子孫ではありえないということです。生物学的なことをいっています。
また、逆にアジアの国々に本当にイスラエルの子孫が存在しているなら、彼ら中東に住む白いユダヤ人は決して本物のユダヤ人ではないということです。この2つは生物学的に相入れません。

日本人とたとえば、韓国人がかたやユダ部族の子孫、かたやレビ部族の子孫ということはあり得るでしょう。イスラエルのユダ族や、レビ族はそれぞれ同じ祖先を持っているから、当然生物学的にお互い、にているでしょうし、実際、日本人と韓国人も身体的特徴はよく似ているからです。

しかし、日本人と韓国人とならいえるこのような共通性は、決してあの中東の白いユダヤ人との間にはありません。肌の色といい、髪の色といい、全く異なるので、同じ先祖を持つとは、とてもとても、色盲や、盲人にでもならない限りとてもいえないからです。

8. 残留孤児判別も身体的特徴が似ていることが大きなポイント
それで、繰り返しますが、彼らが、本当のユダヤ人と仮定するなら、我々日本人がイスラエル
の血を引いているということは生物学的にとてもいえません。
日本でよく中国の残留孤児のことが話題になります。戦争で中国へ子供を置いたまま日本へ
引き上げてしまった日本人の両親や兄弟のもとへ残留孤児が自分のみもとを確認に訪れるのです。終戦後何十年もたっているので、お互い、記憶はうろ憶えなのですが、しかし、顔や身体的特徴が他の兄弟と似ている事が決め手となって、「たしかに和男だ」というように、身元が判明したりします。

さて、「失われたイスラエルの部族」を探すことも残留孤児を探す手順と似た面があるかもしれません。

しかし、この点で不思議なことが一つあります。
それは、「この人がお前の兄さんです。」と紹介された人物が残留孤児だった弟と、
肌の色も髪の色も目の色も全然異なる事なのです。弟が嘘をついているのか、それとも兄と称する人物が...。

聖書は終末の日の東におけるイスラエル12部族のリバイバルを語り、また、日本等の風俗、習慣にも確かにイスラエル12部族のかおりがぷんぷんするのです。東にイスラエル部族の子孫がいると語る事は、聖書的にも状況証拠的にも十分妥当性がありそうなのですが、しかし、問題があります。
それは、日本を始めとする東アジアの人々と今、ユダヤ人と称する人々とは、全く生物学的に異なる人々なのです。それで、どちらかが正しければ、どちらかが間違っていることがわかるのです。

真相はどうなのでしょう?
我々はどちらかの結論を強制しているのではありません。しかし、このことは是非、自分で
考え、各々結論を出すべきことがらだと思っているのです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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フィラデルフィア教会こそ終末の日に真理に立ち返る預言された復活の教会。

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 NO.329 終末の2つの教会(3)


テキスト:黙示3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』”

かつて主が、「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来」るといわれた時、明らかに、今迄と異なる神の民の区分について語られたのではないでしょうか。
この山とは、サマリヤの山であり、今で言うカトリック教会に相当します。
また、エルサレムとは、今のプロテスタントの教会に相当します。
この当時の人々にとって、全ての神の民は、北イスラエルの國、及びユダ国のどちらかに分けられる、それ以外の分類はありえないし、考えることもできなかったのです。

ヨハネ4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」

しかし、主はわざわざ「わたしの言うことを信じなさい。」とまでことばを付け加えて、
新しい神の民の区分、真の礼拝者とそうでないものとの区分について語ったのです。
この区分、「真の礼拝者」かどうか、その区分こそ、神が来にかけ大事にしていたポイントであることば察せられるのです。

ですから、全ての神の民は知らなければなりません。
主は私達がカソリックの教えに忠実な者であるかどうか」には、あまり関心をもっておられず(何故なら、この教会の中には、法皇、マリヤ崇拝をはじめ、あらゆる誤りが満ちているからです)、ただ、その人が「霊とまこと」、すなわち、聖霊による礼拝をしているか、そして、偽りの教理に従わず、まこと、すなわち聖書の真理に従った歩みをしているかに多大な関心をもっておられることを。
また、福音派聖霊派、長老派その他のプロテスタントのどこに属しているのかということでなく、その人が「霊とまこと」による礼拝をしているかどうかに関心をもっておられることを知るべきなのです。

また、明らかに神はこの2種類の教会のどこに属しているかということで、神の民の線引きをしようとされていることを知りましょう。
かつての旧約の日において、自分は北イスラエルまたはユダの国のどちらに属しているかを知らない人はいませんでした。全ての民はどちらかに分類され、自分がどちらに属しているかを知らない人など誰もいなかったのです。また、今日、自分がカソリックプロテスタントどちらに属しているかを知らない神の民はありません。全てのクリスチャンは、「私はカソリックです」というように、自分がどちらに属しているのかを知っています。
これは、自分でもまた他人にもわかる明白な区分なのです。

同じ意味あいで、主のいわれた「真の礼拝者」かどうかという区分も人の前にどうかはともかく、神の前には非常に明白なものであることを知りましょう。
全ての神の民はどちらかに分類されるのです。

さて、黙示録の中に7つの教会が記されていることは、誰でも知っていることです。
そして、この7つの教会の中で、終末まで残る教会は、後半の4つの教会、すなわちテアテラ、サルデス、フイラデルフイア、ラオデキヤの4つの教会であろうと研究者は述べています。
その理由は、この4つの教会には、「わたしは、すぐに来る。」というような再臨に関することばが記されているからです。前の3つの教会にはありません。

ですから、再臨を前にした終末の今の時代には、この4つの教会が存在しているはずなのです。これらの4つの教会は平行して存在します。
さて、これらの理解に基づき、終末の2つの教会、フイラデルフイア、ラオデキヤについて見ていきましょう。順に見ます。

”7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。”

さて、終末に対照的な2つの教会があることを述べましたが、その一つは、フイラデルフイア、兄弟愛の教会です。この教会の名前は何を意味しているのでしょうか?

兄弟間相互の愛などという、親睦会みたいな意味ではなく、我々にとって唯一の兄弟、キリストへの愛を全うした教会、そんな意味あいがあるのではないかと思っています。「我らもその兄弟のために命を捨つべきなり」と聖書は、我々の唯一の兄弟、キリストのために命を捨てることを語っていいますが、それを実践している、すなわち、殉教の匂いのする教会がフイラデルフイアなのです。
兄弟の立場に立つとか、中間階級を排除するとか、共産主義みたいなことば言っている教会をさすとは、私は思っていません。

「聖なる方、真実な方」

この教会に対して、キリストが聖なる方であり、真実な方であることが語られています。
何故か?それは、この教会こそ、聖なる教会、この世の汚れ、あらゆる偽りから抜け出た存在だからです。神のみこころはこの教会にこそあります。また、この教会こそ、真実、真理に基づいた教会です。
これは、例のサマリヤの女に主の語られたことば、「霊とまこと(真実)による礼拝」とのことばと一致します。この教会においてこそ、「霊とまこと(真実)による礼拝」が復活するのです。

ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。”

かぎに関する意味あいは、主が律法学者に語られた「知識のかぎを持ち去り、入らせようとしない」とのことばから理解できます。閉じられた知識や啓示と関連しているのです。ですから、この教会においてこそ、正しい聖書の知識、啓示が回復します。

ダビデのかぎ」とはどんな意味あいなのでしょう?ダビデは受膏者として有名です。
ですから、油、聖霊により知識、啓示を開くというニュンアスをさすのかもしれません。

”8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。”

「わたしは、あなたの行ないを知っている。」「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とのことばは明らかに「行い」に関することばです。
そして、主はこの教会の行いをほめています。
真の礼拝者達の教会、フイラデルフイアにおいては、「みことばを行う」ことが復活することを知るべきです。

また、この教会においては、「わたしのことばを守り」とのことばのように、「神のみことばを守る」ことが起こされます。
今は、クリスチャンが色々理屈をつけてみことばを守らない時代ですが、しかし、この教会において、「ことばを守る」ことが復活します。

”9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。”

さて、この教会においてこそ、ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」達との戦いがあります。
7つの教会の中で、もっともすばらしい主のみこころに沿っていると多くの研究者が口をそろえていう、フイラデルフイア、スミルナこの2つの教会においてのみ、ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」に関する記述があることは暗示的です。

何故でしょう?その理由はこの2つの教会としか、彼等ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」接触、妨害をもたないからではありません。そうではなく、どの教会も彼等の偽りの教え、
霊に影響され、妨害されるのですが、しかし、「対抗する」ことができないからでしょう。

たとえば、テアテラには、彼等、ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」がしかけた多くの偽りの教えがあります。進化論は科学的だの、マリヤに祈りましょうとか、地獄はないとかの教えがあるのですが、悲しいことには、彼等テアテラの人々は、彼等ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」の敵ではありません。
一方的にやられて、相手にはならないのです。

同じことは、サルデス、すなわちプロテスタントの教会にもいえるかもしれません。彼等のうちには、獣のリバイバルの霊、また空想話である、2段階携挙説等、あらゆるユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」達のしかけた偽りの教え、怪しい霊があるのですが、彼等はそれに気付きません。かえって、自分達こそ、命にあふれていると誤解しています。

しかし、聖書は彼等を「生きているとされているが、実は死んでいる」と明言しています。
彼等はキリスト教会に入り込んだ蛇のような偽教師、ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」
甘言にだまされ、堕落させられた者であり、真実の命からは遠く離れた者達です。
彼等も、キャサリンクールマン、ベニーヒン、ビリーグラハム、ビルブライト等のユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」を盲信、盲従する者であっても、彼等の偽りをあばくことのできる目は持っていません。要するに彼等の敵ではないのです。

テアテラもサルデスも基本的には、彼等の偽りを見抜くことのできない盲目の教会なのです。
その点で、フイラデルフイアとは異なるのです。

「見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」とのことばは、この終末の時代において、重要な、非常に重要なことがらであることを知るべきです。
何故なら、教会の歴史とは、「悪魔礼拝者に愚ろうされ、侵入され続けた歴史」だからです。
悪魔礼拝者の巧妙な偽りのため、教会の中には、あらゆる種類の誤った教え、神からのものではない霊に満ちるようになってしまいました。クリスマスは、異教的な起原を持ち、イースターも異教的な偶像、アシュタロテに起原があると研究者は述べます。このような異教の教えが教会内に堂々と持ち込まれるようになったのです。
これらのことが許されたその理由は、この教会の不信にあります。

「彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ」とは、要するに、悪魔礼拝者達の働き、試み、偽りが、このフイラデルフイア教会において、壊滅させられ、暴露され、また、倒されてしまうのでしょう。
永年の間、偽りにだまされていた教会はその日、これらの偽りをもちこむ人々に勝利することができるようになります。

この日は、また蛇と女の戦いの最終決着がつく日でもあります。
蛇は、知恵をもって女、教会を惑わす悪魔であり、また具体的には、黙示録7つの教会で語られているユタヤ人だと嘘をついている「悪魔」礼拝者達のことです。
エバが蛇の知恵に対抗することができず、偽りにうまうまとだまされ、命の木から引き離され、永遠の命を失ったように、教会と蛇、すなわち悪魔礼拝者達との戦いの緒戦は、残念ながら、蛇の勝ちでした。蛇は勝利し、女はだまされ、エデンの園から追い出され、命の木、すなわち永遠の命の木から引き離されるようになったのです。
しかし、神はこの女のすえ、すなわち子孫に対して、「蛇の頭を砕く」、すなわち悪魔の働きに壊滅的な敗北を与えると預言されたのです。

このことは、イエスの時代、主イエスを通して、成就しました。そしてこのことは、終末の日、黙示録12章の勝利者を通して最終的に成就します。

このフイラデルフイアの兄弟達の勝利の別の表現は、下記黙示録12章における兄弟の勝利です。

”黙示12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。”

この日、蛇の働き、彼等悪魔礼拝者が持ち込んだ偽りは、真の教会から一掃されてしまうのです。

ですから、もし私達が、日本の教会において、この「教会に入り込んだ悪魔礼拝者達の偽り、働き、惑わし」を告発、反対する人々を見ることができるなら、かねてから預言されていたあの働き、「フイラデルフイアの働き」がもう既に始まりつつあるのだということを知らねばなりません。

フイラデルフイアの勝利は、「ユタヤ人だと自称する悪魔礼拝者に対する勝利」と密接に関連しているよに見えます。そして確かにこれらは関係しているのです。
彼等に勝つ者はフイラデルフイアでいう勝利者であり、彼等にだまされる人々、もしくはいまだにだまされていることすら気付かない人々は、勝利者では決してありません。

ですから、この終末の時代に彼等をみぬくことのできない人々は、神の前の勝利とは何の関係もなく、ただただ、「彼等にだまされ、偽られたゴミのような教理や悪霊のリバイバルを後生大事に抱える愚か者、敗北者」に過ぎないのです。

この蛇、黙示録で預言された「ユタヤ人だと嘘をついている悪魔礼拝者」達との戦いは、もうとっくの昔に始まっており、欧米においても「目の開かれた人々」「命を惜しまない勇士」は戦いに加わってきています。

さて、フイラデルフイアの教会は、このような教会、悪魔礼拝者が持ち込んだあらゆる教理、偽りに勝利する教会です、それゆえ、この教会が起きる時には、あらゆる教理、教え、霊の見直しが起きることを心得て下さい。

この日は神の前には輝かしい回復の日です。しかし、盲人達の目には、「異端がばっこする日」と見えるでしょう。しかし、この日見ることのできる目を持つ人は幸いです。「あなた方の目は見るゆえ、耳は聞くゆえに幸いだ」ということばはこの日成就するでしょう。

”10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”

ここには、この教会、フイラデルフイア教会が、終末の試練の中で守られることが書かれています。
終末には4つの教会が存在し、そのうち、3つの教会は、終末の試練の日をたえられるかどうか、はなはだ怪しいことがわかります。

しかし、このフイラデルフイア教会は異なります。ですから主は終末の日に、この教会すなわち真の礼拝者を守られることを知りましょう。

”11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。”

ここでは、主はこのフイラデルフイアの教会に関して、「すぐに来る」との励ましのことばを
与えています。そして、既に持っている「冠」を奪われないこと、しっかりと持っていることを語っています。何故か?
それは、この教会が艱難を通り、そして、その中で、冠を取られてしまう可能性があるからです。
この教会が艱難を通らない、愚かな盲人がいうように、キリストの再臨が(聖書には書いていないが)二度もあって、艱難の前に既に挙げられ、主のそばにいるのなら、どうしてこのようなことばを書く必要があるのでしょうか?

夜道を一人で帰って来る娘には、「すぐ迎えにいくから」「気をつけてね」というものです。
しかし、そんなことばを家でくつろいでテレビを見ている娘にはいわないものです。
毋「すぐ迎えにいくから」
家にいる娘「えっ?何のこと。あたしここにいるよ」
毋「気をつけてね」
家にいる娘「えっ?何ていったの。この番組面白いね、ははは。」

こんな風に全くまともな会話にはなりません。
同じ意味あいでこれらのフイラデルフイアの教会への主のことばは、「艱難を通る教会への励まし」と見て始めて理解できることばであることを知りましょう。

「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」とのことばは、要は現状維持しろ、現在到達しているところから、ずらされるなとのことばです。
この教会こそ、神のみこころの教会、あるべき所にいる教会であることがわかります。

ですから、この教会こそ、聖書の中で度々預言されている回復の教会、復活の教会なのです。
この教会こそ、エズラ、ネヘミヤで預言されている回復された宮、都であり、黙示録で新エルサレムとして語られている教会なのです。そして、それは、別の面からいえば、かつて主が預言した「霊とまことによる」礼拝者の教会なのです。

”12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。”

この教会の上に「わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名」を書きしるすと書かれています。ですから、黙示録に記されている主の花嫁であるみこころの聖徒、新エルサレムの実体は別名、フイラデルフイアであることがわかります。そしてそれはまた別名、「霊とまこと」すなわち、終末の日に真理に立ち返る教会のことです。
真理に立ち返ると言う以上、現在教会にまんえんしているあらゆる偽りの教義、2段階携挙説を始めとする偽りから自由になった教会であることがわかります。

そしてこの教会こそ、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」との
かつて語られた主のことばを成就する教会なのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 
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