No.195 いなごとバプテスマのヨハネ
テキスト:マタイ3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」”
本日は「いなごとバプテスマのヨハネ」という題でメッセージします。いなごについてバプテスマのヨハネとの関連を見ていきたいと思うのです。
今迄何度かにわたって見てきたように、いなごは、終末の日に神の民を襲う、災いに用いられます。
彼らは「麦とぶどう酒」すなわち、みことばと聖霊の働きに害を加えます。
終末の日、滅ぼす民「いなご」を通して、新約のクリスチャンが害を受けることがわかります。
さて、このいなごに関して聖書は興味深いことを述べています。すなわち、
マタイ3:4 「このヨハネは、..その食べ物はいなごと野蜜であった」と書いてあるのです。
ヨエル書、黙示録を見る限り、終末の日に「神の民」をかく乱させ、自由自在に誤りの教理に導き、向かうところ敵なしという感じのこの「いなご」の民ですが、しかし、ここに彼らの天敵があらわれるようです。
何故なら、ヨハネはいなごを「食べる」からです。猛毒を持つ蛇にも天敵マングースがあらわれるように、このいなごの民を恐れもせず、何と彼らを「食らう」人々が終末に現れることを聖書は語っているのです。このことは痛快であり、主の真実をあらわすものです。
話が前後しますが、バプテスマのヨハネは、「来るべきエリヤ」であり、マラキ書に以下のように終末の日にあらわれることを預言されている人々の型です。
”マラキ書 4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。”
さて、このことを念頭にテキストを順に見ていきます。
”1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。”
バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で教えを述べます。荒野とは何を表すものでしょうか。荒野の意味することは、「都ではないところ」との意味があるのではないかと思われます。主も「都の外で苦しみ」を受けられました。
都は教会を表しますが、主は原則として、自分の民には受け入れられなかったのです。そして、都の外で十字架にかかりました。
ヨハネも都の外である荒野で教えを宣べました。彼は、教会の正統派には受け入れられない終末の油注がれた人々の型です。
”2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」”
悔い改めるとのことばの意味は方向を転換することだということです。彼は神の民に対して、
「方向を転換する」よう警告しました。
彼が異邦人や未開人のところへ行って「悔い改める」よう語ったのではないことに留意して下さい。彼は、聖書を持ち、律法学者を持ち、会堂を持っている神の民に警告を与え、「その道を進むなら、裁かれるから、方向を転換しろ」と語ったのです。同じように、終末の日に神の民なるクリスチャンに向かって、「その道を進むなら、裁かれるから、方向を転換するように」語る油注がれた人々が出てくるでしょう。私達がへりくだってこれらの人々に正しく聞き、道を正しく方向転換できるかどうかは、終末の私達の運命を決めます。
3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
主の道をまっすぐにせよとは、この道が曲がっていることを暗示します。確かに今の時代の道は曲がっています。
しかし、このことがいつまでも続くわけではありません。終末の時代に「回復」が始まるのです。
”4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。”
このヨハネの食べ物は「いなごと野密」でした。
ですから、このヨハネーこれは主がもっとも愛した弟子の名前でもありますーこそが終末の日に「いなご」で象徴される「敵」の働きを倒す弟子の型なのです。野密は何をさすのでしょう。
”詩篇 119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
エゼキエル書 3:3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。”
上記の箇所を参照する時、どうもみことばと関係があるようにも見えます。
ですから、この「密を食べる」ヨハネは神のみことばをよくよく食べる、よく読む弟子の型なのでしょう。
そうです、終末の私達の戦いは「神のみことば」に関するものなのですから、聖書を読まなければ、それも徹底して読まなければ、とても弟子としての働きには入れないことを知るべきです。
”5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。”
このヨハネを通して多くの人々が水のバプテスマを受けました。水のバプテスマは明らかに命の水なる、聖霊のバプテスマの型です。ですから、終末の日に人々はバプテスマのヨハネに象徴される働き人達を通して聖霊のバプテスマを受けるでしょう。彼らはリバイバリストです。
”7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。”
パリサイ人やサドカイ人は今の誰に相当するのでしょうか。彼らは民を教える立場にいました。
ですから、現在の民を、信者を教える立場の牧師、教師に相当するのかもしれません。
そして、ヨハネは彼らをまむしのすえと呼びました。ですから、今の時代の多くの牧師達もまむしのすえといわれる可能性があります。まむしは神のみことばを曲げ、エバを惑わした蛇に通じます。主があんなにもはっきりと述べた「たとえ」を求めることを「霊的解釈はいけない」などと、わけのわからないことばで禁じ、「語句通りの解釈」などと、聖書にないことをすすめる牧師、教師はまさにまむしのすえではないでしょうか。彼らが「たとえ」に関するみことばをきれいさっぱり捨て去ったために、今や終末のみことばは彼らの前にわなとなり、落とし穴となっています。
”8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。”
私達が聖霊にふさわしい実を結ぶかどうかは終末の裁きの前における一つのかぎとなります。
”9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。”
アブラハムの子孫であるという事実だけでは、終わりの時代に自分を救えるとは限らないとヨハネはいっています。その「実」が大事なのです。ですから、霊的なイスラエル、アブラハムの子孫である、我々クリスチャンもクリスチャンという名前だけで、終末の日に救われると思うなら間違いだということがわかります。「行いに応じて主は報われる」のです。
”10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。”
私達はぶどうの木でありオリーブの木です。そして、我々が良い実を結ばないなら、火、すなわち悪霊のリバイバルに巻き込まれていきます。
”11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。”
ヨハネの水のバプテスマは聖霊と火とのバプテスマの型です。
”12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」”
麦も殻もクリスチャンをさします。似ていますがしかし、その結末は天地程も異なります。麦は「麦の種」から成長します。ですから、麦ということばは、クリスチャンの「みことばを食べて成長する」という面をさすたとえです。しかし、同じ「麦の種」から成長しながら、一方は「倉に入れられる麦」となり、もう一方は、「火で焼かれる殻」になります。同じように、同じ聖書のことばを受け、読みながら、そのことばを行ない、実を結ぶ人々と、みことばを行わず、曲がったことを語り、かえってさばかれてしまう人とがいるのです。「殻を消えない火で焼き尽く」すと書いてあります。ここでも、火、すなわち(悪)霊によるさばきについて書かれていることがわかります。
終末における主のみこころを行っていきましょう。
ー以上ー