終末の日に主が私達の間に「預言者」を送られると言う事について。

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NO.212 預言者は語る


”テキスト:アモス3:1 イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。
2 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
3 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。
4 獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕えないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。
5 鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕えないのに、地からはね上がるだろうか。
6 町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。
7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
8 獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。”

本日は、預言者は語る」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日に主が私達の間に預言者を送られるということについて見ていきたいと思うのです。

終末の日に主が預言者を我々に与えられる、だからそろそろそんな人々が立つはずだなどというと、大体クリスチャンの反応は決まっています。「怪しいことをいうやつだ。」「警戒しないと」そんなところでしょうか。

確かに終末の日に怪しい人々が多いのは、事実ですが、大事なのは、神が聖書の中で、どう語られているかということです。私達はエバのように、「この実を食べると死ぬかもしれない」(神は死ぬとはっきりいわれた)と神のことばを差し引いてはいけないのですが、また、「触ってもいけない」などと付け加えてもいけないのです。

神は上記テキストで、「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と語られています。

神の裁き、大きな働きがある前に神は確かにその「そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示」すといわれるのです。

このことは、聖書を見る時、事実であることがわかります。

例えば、例の大きな洪水の前に神はその水による裁きについて義人ノアに前もって示しました。
それで、ノアは救われる人びとのために大きな箱舟を造りました。
これによって、何人かの人々は水による裁きから免れたのです。

また、ソドム、ゴモラの裁きの時、神はアブラハムにそのことを前もって、示しました。
それで、彼は人々のためにとりなしをし、「10人の義人がいれば町を裁かない」ことを神に約束してもらったのです。

さて、ノア、ロトの時は、終末の時代の型です。本番は終末の時なのです。
この終末の日に、神は同じようにそのことを「ご自分のしもべ、預言者たちに示さない」でしょうか。

いいえ、きっと示すでしょう。ですから、もし、預言者がまだ、私達のまわりにまだ、遣わされていないなら、それは、「まだその時ではない」からなのでしょう。しかし、もし、私達が、その預言者の声を耳にし始めたのなら、それは、聖書が前々から、繰り返し繰り返し、語っていた「その日」に我々は近ずいていることを示すのです。

アモスのことばを見ていきたいと思います。

”1イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。
2 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。”

神が特別に愛したのは、イスラエルの部族です。しかし、彼らが神の声に聞き従わず、偶像を拝した時、神の怒りが彼らに下りました。終末の日にも、神が特別に愛した「新約の神の民」の不従順に関して、裁きの日が来ることを知らなければなりません。

”4 獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕えないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。”

獅子は、終末の日に、獣として、裁きのために用いられます。「引きずる為に獣を送る」
聖書に記されていますが、確かに神の民を正しい道から引きずり降ろすために、獣は用いられています。
例えば、カソリックの多くの高僧は、獣の団体、ふりーめーそんの人々で占められており、プロテスタントの有名なメッセンジャーにもその手の人が多くなってきました。
黙示録には、獣化された2つの神の民、カソリックプロテスタントが、小羊のような二本の角を持つ獣として描かれています。「若い獅子は、何も捕えないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。」と記されていますが、確かに神の民は、獣に捕らえられるのです。

”5 鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕えないのに、地からはね上がるだろうか。”

前の節には、終末の日に「神の民」が獣がえじきになり捕らえられることについて書かれていますが、ここでは、彼らが「わなにかけられる」ことについて書かれています。終末の日が、偽善的な神の民に「わなのように」臨むことは、聖書に繰り返し記されていることです。例えば以下の記述です。

”1テサ5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。”

「それをのがれることは決してできません。」とはっきり記されていることに目をとめて下さい。
もう、その日になってからでは遅く、のがれることは決してできないのです。ですから、今、私達は、方向を転換し、目を開いてもらわなければなりません。

「わな」について書かれています。現在神の民の間で、広く信じられている「艱難前携挙説」等の「終末に関する教理」はその日、「わな」として用いられるでしょう。はっきりいいますが、それらは「盲人」が書いたもの、あるいは、「だます意図を持った人々」が書いたものです。

ですから、終末の日にそれこそ、「盲人を手引きする盲人」「二人ながら、穴に落ち込む」と書かれていることは、成就するでしょう。

”6 町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。”

しかし、それでも終末の日に預言者は遣わされ、角笛は、民の間で鳴らされるでしょう。
その角笛の音をきいても全ての人がさとるかどうかは、別として、主が見張り人に角笛を渡すので、その笛は鳴り渡るのです。
その角笛は、災いの到来を告げます。これは、いわば戦争中の空襲を知らせるサイレンのようなものです。戦争中、 日本を爆撃する飛行機が襲来した時、「防空警報発令」ということで、サイレンが鳴り響いたものです。この音を聞いて、誰も彼も皆、防空壕なりに逃げ込むわけです。「そんなサイレンなど気にしない」などとおっとりかまえていると、飛行機に打ち殺されるかもしれません。

同じように、終末の日に角笛を渡された人々はそれを吹き鳴らすでしょうが、それをどう受け取るかはそれぞれの、責任です。「悪霊のリバイバルがきている」と角笛を鳴らしても、みなが、本気にするわけではありません。もちろん、まちがって角笛を吹き鳴らすなら、吹く者の責任になるでしょう。しかし、もし、それが万一主から来た警告なら、その血は角笛を吹き鳴らす者の上では無く、聞いても備えようとしない者の上に帰します。

そのような災いが何故終末の日に神の民を襲うのだろう、と我々は疑問を持つかもしれません。しかし、聖書は、「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。」と述べています。
終末の日に麦と毒麦との区別があること、「この民にみ怒りが下る」ことは、以前から聖書に記されていることです。そして、この災いは神から来たものなのです。

”7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。”

神は何かをなされる前には、そのしもべ、預言者に示します。
例えば、最近では、チェルノブイリ原発事故や阪神大震災の前に、それを示されていた「神のしもべ」がいたということを人づてに聞いています。
ですから、神は前もって「そのしもべ、預言者に示す」のです。どんな風にということは、夢とか、または預言のことばが来るとか、色々あるでしょう。また、誰にということも、一人に特定されることではないのでしょう。しかし、神がみことばで、「ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」という以上、これはとにかくその通りになるのです。すなわち、大きなできごとの前に神はそのしもべ、預言者に語るのです。

さて、これらは、型のようなできごとです。もちろん、どれも悲惨な事故、大きな事故であり、軽々しくはいえないのですが、しかし、聖書は、終末の裁きの日の大きな災害について特別に語っています。このことは、大きなことがら、または最大の大きなことがらです。

このことについて預言者は送られないのでしょうか?もちろん、送られるのです。
ノアの時、ロトの時に御自分の預言者に語られた主は、そのいわば本番である終末の裁きの前に、やはりそのしもべ、預言者に語るのです。

そして、預言者はそのことばを「理解する」のです。たとえ彼が鈍い耳をもっていたとしても、主が耳を開かれるなら、それを理解するのです。

”8 獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。”

語られた預言者は、奮然とそのことばを民に語るようになるでしょう。何故なら、そもそも預言者とは、そのようなつとめの人々だからです。また、そもそも語る覚悟がないなら、預言者として選ばれないでしょう。ですから、鳴かないカナリヤはあっても語らない預言者はありえないのです。

預言者が語った結果はどうなるのか。聖書の例を見ると、あまり良い結果ばかりではありません。
エリヤは怒ったイゼベルに命をつけねらわれてしまうし、ミカヤは偽預言者に顔をひっぱたかれてしまいます。エレミヤも井戸(水はない)に投げ込まれたりしています。あまりろくな目には合わないようです。結果として、殉教もあり得るでしょう。

しかし、神である主が語られたのなら、「だれが預言しないでいら」れるでしょうか。

繰り返しますが、今の時が本当に終末の時代であり、裁きが近いなら、神はそのしもべ、預言者に語られるはずです。そして、その人々が預言者ならば、彼は、または彼らは必ず語り始めるはずなのです。

その声を聞いた時、私達が正しく対応できるように、今、祈り始めなければならないのではないでしょうか。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー


 
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