終末の日にバビロン化した新約の民が、解放され、あるべき信仰の歩みに戻っていくことを見ていく。

f:id:yuumamatan:20240323154408j:image

 

No.209 70年の終わる頃

 

テキスト:”エレミヤ29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。
9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。♦︎主の御告げ。♦︎」
10 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。♦︎主の御告げ。♦︎それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
14 わたしはあなたがたに見つけられる。♦︎主の御告げ。♦︎わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。♦︎主の御告げ。♦︎わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
 

本日は「70年の終わる頃」としてエレミヤ書に書かれている「70年」に関する記述を見ていきましょう。

上記エレミヤ書のテキストには、バビロンへ捕囚となっていく民に関して、神が「70年の終わり頃、その捕囚から解放する」ことについて語っています。
これは、実は終末の日にバビロン化した新約の民がその捕囚から、解放され、約束の地、あるべき信仰の歩みに戻っていくことを述べた神の約束のことばでもあります。それを見ていきたいと思うのです。
順に見ていきます。

”8 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。
9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。♦︎主の御告げ。♦︎」”

この日、主は「神の民はバビロンへ捕らえ移されない」と語っている預言者達に関して、「彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。」
と語りました。このことに私達は目をとめなければなりません。
彼らは、民について良いこと、積極的なことを語り、民を励ましているようです。このことに何の問題があるでしょうか。問題は一つだけあります。そしてその一つがとても重大なのです。それは、これらの預言者を主が遣わしたのではない、逆に彼らは偽りを述べているのです。
これは、とても大きな問題です。

このことは、終末に臨もうとしている私達の世代にとっても大事なことです。多くの教師、働き人が立ちます。彼らは繁栄について、語ります。祝福について語ります。このことに何の問題があるでしょうか。
問題はあります。彼らは「バビロン捕囚」について決して語らないからです。
すでにこの国の教会はバビロン化されており、その聖書の教えが、バビロニアタるムードの影響を深く受け、変型していることについて誰も語りません。また、聖霊の働きは、バビロン起源のカバラ、魔術の影響を受け、偽りのリバイバルが横行していることについて語ろうとしないのです。

しかし、事実、このことは現に目の前で起きていることです。ですから、エレミヤの時代に、
「バビロンに捕囚されることはない、すみやかに戻ってくる」と語った預言者が偽り者だったように、今の時代にも、「教会のバビロン化」を認めようとしない、逆に教会には祝福が満ちており、問題はない、とする教師達は偽りものであることを知らなければなりません。

”10 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。”

ここで、主はバビロンへ捕囚されるユダの民について、「七十年の満ちるころ、..この所に帰らせる」と語りました。このことばは実はたとえの隠れた意味あいがあるようです。

このことばの意味を見てみましょう。
第一義的にこのことばの意味することは、神の民であるユダ、エルサレムの人々が70年の捕囚の後、このエルサレムの地へ戻ってくることをさします。しかし、それだけではありません。
何故なら、終末にも同じバビロン、淫婦バビロンがあらわれるからです。バビロンが終末の書である、黙示録に再び現れてくるということは、それはまた、この新約の神の民の70年に渡る捕囚が終末の日にも有り得ることを予表します。

そして、どうもこのことは聖書を読むと、たしかにそれとなく、暗示されているようです。
以下の記述を見て下さい。

”ダニエル9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。”

有名なダニエルの「70週の預言」が与えられたのは、ダニエル9章に記されているダニエルの祈りの中でのことです。そして、一つ、注目されるのは、このダニエルの祈りのきっかけには、エレミヤの例の七十年の預言があるのです。同じ9章にこう書かれています。

「私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」

ですから、どうもこの2つの70は関係があるようです。70週と記されていることばは正確には「70の7という意味です。」ですから、この2つのことば、70年ということばと70週ということばには、関係があることを聖書は暗示しているように思えます。

70週の最終的な成就は終末の日のことです。そして、その日、「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」と書いてあります。
ですから、この日、この新約の神の民も荒廃した地から回復した教会へと戻ってくることがわかります。
たしかに70週の預言は70年の預言と通じている、いいえ同じことを語っていることがわかるのです。その日、教会の神への「そむきはやめさせ」られます。そして、教会の罪は終わり、義に立ち返ります。
また、その咎は購われます。また、「永遠の義をもたら」され、永遠の命に至ります。

「幻と預言とを確証し」の確証とは、英語でseal up(封印する)との意味です。
ですから、この70週の間は、終末に関する聖書の「幻と預言」は封印されるのです。
ですから、その時、70週の終わりに至る迄は誰も封印の内側を見ることはできないのです。
70週の終わり、終末に至って始めて、封印が開け、これらの聖書の幻と預言の真にいわんとすることを見ることができるのです。

ですから、封印が開けた後の解釈は当然、今迄の終末に関する解釈とは異なります。
したがって、例えば黙示録に関して、100年も200年も前の古い、伝統的な、封印が開かれる前の解釈を持ち出して、「これが正統的な解釈だ」「この解釈に合わない人は異端だ」などというべきではないのです。はっきりいいますが、そんなわけのわからないことをいう人は、もう一度帰って、「啓示」とは何を意味するのか、「封印」とは、何を意味するのか、よく学んでくるべきでしょう。

また、「至聖所に油」が塗られます。いわゆる終末の油注ぎがあるのです。

70という数字にはいくつかの隠れた意味あいがあります。その一つの意味は、これが聖書的には、一人の王の年代をさすということです。以下のように書かれています。

”イザヤ23:15:その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。”

我々にとって、「一人の王」とは、他ならぬ教会を治める唯一のお方、キリストの治世をさします。
そして、この70年の終わり、教会時代、キリストの治世の終わり、すなわち、終末に回復があるというのです。

この70週、70年の終わり頃の教会の回復の一つのわかりやすい型がイエスキリストによる、神の家の回復です。

上記ダニエル9章によれば、油注がれた者なるキリストが絶たれたのは、69週(62週)の後であり、これは、まさに70週(70年)の終わり頃のできごとなのです。

この時、確かに上記ダニエル9:24のことばは成就しました。すなわち、多くの民の「そむきはやめさせ」られ、「罪を終わらせ」られ、キリストの十字架により、「咎を贖」われ、多くの人は永遠の命を受け、「永遠の義をもたら」されたのです。「幻と預言と」は、確証(封印)されていたのですが、たとえをとき明かす方により、みことばは開かれました。また、ペンテコステの油そそぎにより、「至聖所に油」は注がれたのです。

さて、テキストの次を見ます。

”11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。♦︎主の御告げ。♦︎それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”

終末の日に主は我々に良い計画を立てています。
みことばを曲げず、忠実な人々はそれにあずかります。

”12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。”

教会時代の終わり、70年の終わりに主は「わたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」と言われます。「いまさらなにを。そんなことはわかっている」という人もいるかもしれません。しかし、神がわざわざそういうことには意味があります。それは、今の時代、いえ今の時代こそ、神を真に呼び求め、真に祈る人が少ない時代だからです。

”13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。”

神はさらに「心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」といわれます。
今は、確かにたてまえはともかく、実際は、神を見い出し、知る人の少ない時代です。かつて私達の信仰の先祖達が見た神による不思議なわざは我々の前から消え失せています。(獣の金歯現象等は別)

”14 わたしはあなたがたに見つけられる。♦︎主の御告げ。♦︎わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。♦︎主の御告げ。♦︎わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」”

「捕らわれ人」とは、罪の奴隷になっていた人々がその日、解放されるということでしょう。また、「追い散らした先のすべての国々」とは、バビロン、アッシリアに代表される捕囚された国々のことです。今の教会もバビロン捕囚され、多くの偽りが教会に入り込んでいますが、それから、立ち戻る人々が終末の日にあらわれます。
「捕らわれ人を帰らせる」とは、福音書でいう「天地の四方から選びの民を集める」ということです。
「わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」と書かれています。
人々が引かれて行き、捕らわれていくのはその不信と罪のためですが、しかし、その日主は人々を立ち返らせます。

旧約のエレミヤの時代に70年の捕囚から立ち返った人々は、その先祖達の地に帰り、祝福の地を再び受け継ぐようになりました。同じように終末の日に、かつてのペンテコステの日の完全な教会に立ち返る選ばれた人々がいるのです。

 

終末における主の御心を行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240323154346j:image