干からびた骨なる教会に聖霊の息、リバイバルが与えられ、教会が蘇る。

f:id:yuumamatan:20240322075949j:image

 

NO.208 蘇る骨

 

テキスト:”エゼキエル37:1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。♦︎主の御告げ。♦︎」
15 次のような主のことばが私にあった。
16 「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。
17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
18 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか。』と言うとき、
19 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。
20 あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、
21 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
23 彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。
25 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
27 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
28 わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」”

 

本日は「蘇る骨」として、エゼキエル37章の記述を見ていきたいと思います。

テキストを順に見ていきたいと思います。

”1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。”

まず始めにこれらの記述が語っている対象が何かを見ていかなければなりません。
基本的にはこれらの記述は、イスラエルの全家」のことです。後の節にそのように記されているからです。しかし、それだけでなく、もう一つの「たとえ」の意味あいがあります。それは、ロマ書でパウロがいっているように、真のイスラエル、教会に関する預言の意味あいです。
この章で語られている「骨や肉」に関しては、創世記の中で以下のように記されています。

”創世記2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”

これは、最初の男と女に関する記述です。そして、この記述はまた、エペソ書によれば、「キリストと教会」をさすものなのです。すなわち、最初の女に関する「私の骨からの骨、私の肉からの肉」との記述は「教会」に関するものなのです。
そのため、このエゼキエル書の骨や肉に関する記述も「教会」に関するものであることが推察できます。

聖書には、終末の教会の回復に関して異なった種々の表現で語られています。
ネヘミヤ、エズラ、そしてハガイ書の都、宮の回復はその一つです。そこでは、エルサレムの回復、神殿の回復として、終末の教会の回復を語っています。
そして、ここでは、死んだ骨が生き返るとして、「キリストの体なる」教会の終末における回復について語られているのです。これらは皆表現は異なりますが、同じことを語っているのです。

”2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。”

ここには、「非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。」と書かれています。キリストの妻たる女、「骨の骨」といわれた教会が何と干からびていたのです。干からびるとは、要するに水がないことですが、「命の水」なる聖霊は去り、教会は干からびてしまったのです。今の教会がそうだといえば、
「そんなことはない」と怒る人もいるでしょうが、しかし、聖書は、サルデスの教会には、「生きているとされているが、実は死んでいる」と語り、ラオデキヤの教会には、「みじめで哀れなものだ」と語っています。

”3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」”

ここで、主は「これらの骨は生き返ることができようか」と質問しています。聖書の一つの原則として、神様がわざわざ質問することは、大事なこと、重要なポイントが多いようです。ですから、このこと、「骨が生き返ることができるか、どうか」すなわち、終末の日に命を失ってしまった教会が再び生き返ることができるかどうかは大事なことだということがわかります。

”4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。”

主はこの骨を蘇らせるといわれます。そして、このことを預言者を通して言わせようと命じています。終末の日にもこの干からびた「骨の骨」といわれた女、教会の蘇り、すなわち、教会の回復について神に命じられて語る人々が現れてくるでしょう。

”5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。”

この「息」について創世記ではこう書かれています。

創世記2:7”その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。”

人間はその肉体ができただけでは「生きたもの」ではありません。しかし、「息」を吹き込まれた時、生きたものとなります。この「息」聖霊をさすのです。同じようにクリスチャンも聖霊を受けて生きるのです。ですから、この時、この干からびた骨なる教会に聖霊の息、リバイバルが与えられ、そして、教会は蘇るのです。リバイバルとは、再び命が与えられるという意味ですが、まさにその意味でのリバイバルがもたらされるのです。

”6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」”

骨に肉や筋、皮膚が与えられれば「生きたからだ」になります。この時、キリストの「からだ」なる、
教会が真の意味で与えられるのです。

”7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。”

この時、預言者エゼキエルの預言に従い、体は復活しました。終末の日にもキリストの体なる、
教会が主に語られた預言者、教師を通して、蘇ってきます。

”9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」”

ここでまた「息」について語られています。ですから、終末の日、キリストの体なる教会が生き返るかどうかは、ひとえに聖霊が与えられることにかかっていることがわかります。

”10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。”

「自分の足で立ち上がった」と書かれています。今の教会の問題は、クリスチャンが自分の足で立たないことですが、それがこの日、解消されます。

”11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。”

今の時代、聖霊の働き、主の奇跡は教会から去り、私達の望みは消えつつあります。

”12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。”

墓にいるのは、死人です。教会は今、「生きているとされているが実は死んでいる」のです。
以下のことばの通りです。

黙示録3:1”また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。”

彼らの肉体は生きているでしょうが、しかし、その霊は死んでいるのです。
死は罪と関係があります。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死に至る」からです。
しかし、今、「あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く」と主は言われます。
人々は罪から解放され、自由になり、命を得るのです。また、イスラエルの地に連れて行く」とのことばに注目して下さい。「つれてゆく」という以上、彼らはイスラエルから、遠く離れた地にいることが想像されます。確かに現在のイスラエル、教会は、神の約束の地、祝福の地から遠く離れ、この世の教えや、習慣のまっただなかにいます。しかし、主はその日、教会をあるべき地に連れ返します。

”13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。”

罪とこの世の習慣と、悪霊に惑わされた多くの「神の民」が、その墓、死、罪の中から、引き上げられる時が来ます。このことは起こり得ないことのようですが、しかし、これから起きます。
何故なら、「わたしが主である」と言われる方が語られたからです。

”14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。♦︎主の御告げ。♦︎」”

私の霊とは、勿論聖霊のことです。そして、「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。」というように大きなリバイバルが来ます。その中で、多くの罪の中で死んでいたクリスチャンが義に生きるようになります。今起きている「偽りのリバイバルは、この日を見越したサタンの惑わしです。「わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。」と書かれています。ですから、この日、正しい、みことばの解釈、教理が回復され、多くのクリスチャンがあるべき祝福の地に戻って来るのです。

また、「あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」と書かれています。この日、教会の回復、復活については、実は聖書の中で何度も何度も繰り返して預言されています。
「目の開かれた」人々はこれを読んでいるはずです。
いわく、エズラ、ネヘミヤ、ハガイの語った宮、都の回復、再建はこのことを語っているのです。
また、ダニエル、エレミヤの語った70週、70年の終わりの回復とは、このことをまさに語っているのです。このことを主は前もって語り、そして、その日、実現されます。何故なら、主が語られたことだからです。

”15 次のような主のことばが私にあった。
16 「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。”

杖は歩みを助けるものであり、今でいう教師のたとえと思われます。旧約の時代、神の民は、2つの国にわかれていたように、今新約の民も2つに分かれています。すなわち、カソリックプロテスタントです。

”17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
18 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか。』と言うとき、
19 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。”

2つの杖は、今1つの杖となりました。2つの部族は1つになったのです。ですから、現在、分裂しているカソリックプロテスタントが一つになる日が来ます。

”20 あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、
21 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。”

旧約のイスラエルが散らされたように、今の神の民も散らされています。今、教会には、あらゆる教派、教団があるのです。しかし、神は「その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く」と言われます。これは、福音書「四方から選びの民を集め」と書かれていることです。全ての人では無く、神により選ばれた人々は、あるべき地へ回復してきます。

”22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。”

この日、回復された神の民はもうカソリックプロテスタントと分裂せず、一つになります。
終末の日、カソリックプロテスタントが接近することは、ある人々には、「偽りの教え」に巻き込まれることにより、滅びをもたらしますが、しかし、神のみこころの民にとっては、「神の民が一つ」になる時なのです。ここでいう一人の王とは、キリストであり、主の「主任牧会」のわざが始まります。

”23 彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。”

教会内の偶像崇拝、すなわち噐崇拝はその日、選ばれた者達の間で、一掃されます。また、忌まわしいもの、マリヤ礼拝等も消え去ります。そして、その日、私達は「わたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」のです。
逆にいうと、現在の多くの神の民は、とても神が「わたしの民。わたしは彼らの神」とはいえない状態なのです。

”24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。”

ダビデは、キリストの予表であり、キリストがその日、教会の「ただひとりの牧者となる」ことを語っています。そのようにわざわざ書かれていることは、現在の教会の牧者は、「ただひとりの牧者」なる方ではないことを暗示しているのです。そうです、教会の人や、信仰者や、先生が牧者となっている今の教会の状態は神のみこころと遠く離れていることを知らなければなりません。そして、「彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行な」います。今、教会で理屈をこねる人は多いですが、神のことばを実行する人は少ないです。しかし、これも回復されます。

”25 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。”

この日、イスラエル人が戻って先祖の地に住むようになることが書かれています。そうです、
その日、教会は、かつての信仰の先祖達が歩んだ、まっすぐな命に至る道に戻るのです。
これは、「乳と蜜の流れる地」であり、約束の地、すなわち、永遠の命に至る地です。また、「わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。」と書かれています。キリストの霊、聖霊が教会の真の主となるのです。

”26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。”

この日、主は、これらの民と「平和の契約を結」ぶといわれます。この日、結ぶということは、今、「平和の契約」は破れていることになります。そうです、今の多くの神の民と神との平和の契約は破れていることを知らなければなりません。
妻が夫に貞節を尽くせば、二人の間に交わされた結婚の契約は破棄されません。逆にこの契約は、妻を保護し、妻に夫の財産を始め、多くの益を与えます。しかし、妻が夫に背信を行ったら、どうでしょう。
夫は怒って、妻との契約を破棄しないでしょうか。その結果、彼女は、夫からの益を期待できない、それどころか、夫の怒りの対象にならないでしょうか。

今の新約の神の民が大きく間違えているのは、この「契約」ということばです。
彼らは不倫を行っても、背信を行っても、それも極端な背信を行ってもなおかつ彼らと神との「契約」は有効であり、神は、どこまでも許し、一方的に益を施すと「誤解」しているのです。

しかし、これらの「契約」イスラエルの不信のゆえに破棄されたと神は聖書で書き、また
今の神の民に語っているのです。

彼らは愚かな盲目な人々であり、彼らの極端な不信、神のことばを投げ捨て、進化論や、
法皇のことばをとったにもかかわらず、神が契約を守ると夢想している人々です。
彼らと神との契約は既に破棄されていますが、この日主は、「彼らと平和の契約を結ぶ」と語られます。

また、「わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く」と書かれています。終末の日に神の聖所、神殿、都は、廃虚となると度々語られています。事実、今の教会は荒廃しています。「そうではない。大きなリバイバルが起きている」というのは、盲目な人々がいうことばです。目が開かれるなら、都なる教会には、「獣」の霊が満ちており、偽りのリバイバルの中で人々が馬や猿、ライオンのように「獣化」しているのを見るでしょう。これは、かつて預言者が、「バビロンは荒れ果てジャッカル(獣)の住むところとなる」と言われたことばの成就なのです。しかし、全ての人々が永遠にこの霊にだまされているわけではなく、立ち返る人々がおり、その時、荒廃した都、聖所は回復するのです。そして、その時、「わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く」とのことばが成就します。

”27 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。”

「私の民ではない」といわれた人々がその日、神により「彼らはわたしの民となる」といわれます。

”28 わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」”

ここで「諸国の民」について、書かれ、またイスラエルの民」について書かれていることに注目して下さい。これらの民は神の前に異なります。イスラエルは神により選ばれた民であり、神による奇跡を拝します。しかし、諸国の民といわれるそれ以外の神の民はそうではありません。
この日、主はイスラエルと呼ぶ、「選ばれた神の民」を通して奇跡を表し、今も神が生きておられることを、またこれらの民を確かに聖別し、選んだことをキリスト教会に明確に示します。

ですから、このエゼキエルの箇所では、終末の日に、中東のイスラエルの地に「失われたイスラエルの部族が帰還すること」など語られていないことがわかります。

終末の日に「かつてのイスラエルの血筋を引いている民族」が現れてくることはありえるでしょうが、それらの民族が「物理的に中東の地に帰還すること」には、信仰的に何の意味もないことですし、聖書はそんなことは語っていません。

それらの教えは終末の神の民にしかけられた巧妙な惑わしです。主イエスの初降臨の日、ダビデの子、王としてのメシヤ」という「文字どおりの預言の成就」を待ち望んでいた人々は、「わな」にかかりました。同じことがこの終末にも起きるでしょう。私達はたとえを理解しなければならないのです。
「その日、悲惨なのは乳飲み子を持つ女と妊婦」であり、たとえを理解しない教会は終末の日に悲惨です。
たとえを理解しない人々をつまずかせるため、そのために巧妙なわながしかけられていることを知るべきです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー


 f:id:yuumamatan:20240322075928j:image