ダビデの3勇士は、終末のリバイバルを引き起こす「命をかけた勇士たち」の型。

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No.207 ダビデの3勇士

 

”テキスト:2サムエル23:8 ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム(やり)。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。
9 彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル(神が助ける)。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。
10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。
11 彼の次はハラル人アゲの子シャマ
(おどろき)。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、
12 彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。
13 三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。
14 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。
15 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
16 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、
17 言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。”
 
 

本日はダビデの3勇士」という題でメッセージします。
ダビデの生涯は、は多くの人がいうように「キリスト」の型です。また、「バビロン捕囚」「イエスの時代」と同じように「14代目」に生まれたダビデは終末の型でもあります。このことを念頭におきつつ、ダビデ、そして彼の3勇士の働きが意味するものを見ていきたいと思います。

”8 ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。”

3人の勇士の最初の一人は、「ハクモニの子ヤショブアム」です。彼は何をなしたのでしょう。「彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。」のです。また、「ヤショブアム」という名前は、「槍」を意味します。だから、彼は多くの敵を槍で刺し殺した「勇士」なのです。「槍」ということばが強調されていることがわかります。さて、「槍」は何をさすたとえでしょう。
聖書の多くの記述を見ていく時、「槍」「剣」と同じような意味あいで使われているようです。
これは、あたかも羊が牛と同じような意味あいで使われていること、またオリーブの木がぶどうの木と同じ様な意味あいで使われているのと同じです。羊、牛はクリスチャンの一面をさすたとえであり、またオリーブ、ぶどうの木もクリスチャンの別の面をさすたとえです。
さて、剣は「御霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれているように、神のことばをさします。ですから、槍も同じように神のことばと関係があると思われます。

彼は一人で槍を振い、何と800人もの敵を刺し殺しました。同じように、この終末の時代、剣をかざして「神のことば」に戦いを挑んでくる多くの敵達がいます。ある敵は、「たとえを理解する」ように明確に語られた方を否定し、「霊的解釈をするな。聖書は文字どおり読め(?)」などと、偽りの教えを強調します。これらの偽りの教え、解釈に戦いを挑み、「ことばなる方」の側に立つ者こそ、この3勇士の一人、「ハクモニの子ヤショブアム」の子孫なのです。

”9 彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル(神が助ける)。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。
10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。”

次の勇士は、「アホアハ人ドドの子エルアザル」です。エルアザルとは、「神が助ける」という意味です。彼は神の助けにより、勇士として立つことができる神に信頼する聖徒の型です。

彼は何をしたのでしょう。「彼がペリシテ人の間でそしったとき」と書いてあります。何か(ペリシテ人にとっては)悪口をいったのかもしれません。私達も終末の日に神のことばなる方の側につき、「聖書のことばと懸け離れてしまった」今の教会に対して、何かいうとき、彼らにとっては、「そしった」としか、聞こえないことを覚えておきましょう。しかし、問題は、この「ことば」から懸け離れたところに立っている彼らにあるのです。さて、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。」と書かれています。このペリシテ人について聖書は他の箇所で暗示的なことを語っています。

”1サムエル13:19:イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。”

イスラエル、神の民の間には、鍛冶屋 がない、剣を作るところがないと語っているのです。逆にペリシテ人にの領地にこの「鍛冶屋」があるのです。このことは暗示的です。
剣は神のことばであり、鍛冶屋は、その剣を作る、すなわち今でいえば、聖書の説教や、神学、解釈に相当するからです。これらが皆、敵の下に置かれていいたというのです。そして、これはまさに今の時代の予表です。今の時代も聖書の神学も解釈も敵の手にあるからです。
「そんな馬鹿な」という人もいるかもしれません。それではききますが、もし神学や聖書解釈が敵の手にないのなら、何故、「神は死んだ」とか、「創世記は神話だ」「Q資料」だの、わけのわからない、教会や信仰を破壊するのが、目的としか思えない教えが次から次へと神学者や、解釈者から出てくるのでしょう。彼らが敵でなくて誰が敵でしょうか。

さて、「そこでイスラエル人は攻め上った。」と書かれています。「神のことば」につく軍と「ことばを破壊する者達」との戦いが始まろうとしているのです。さて、その時、3勇士の一人、「アホアハ人ドドの子エルアザル」の活躍が始まります。「彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。」のです。
彼は、「手が剣について離れなくなるまで」戦ったのです。これも象徴的な表現です。
多くの人々の問題は、ちょっとした事で、すぐ「剣から手が離れる」すなわち、み言葉の真理から、すぐ引いてしまうことです。堅くそこに立とう、留まろうとしないのです。しかし、彼はみことばを握りつづけました。彼こそ、多くの反対の中や、みことばのために、迫害を受けたり、追い出されたりしても、真理に堅く立ち続けた者達の型なのです。

”主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。”

そして、このような小数の者を通して主は(みことばに関する)大勝利をもたらします。「兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。」というように、後には、こちらにつく人々も戻ってきます。しかし、「3勇士のほまれ」は、今この逆風が吹きすさぶ時代に、堅く剣、すなわちみことばを握り続けた人々に与えられます。

”11 彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、
12 彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。”

さて、三番目の勇士はシャマです。彼は何をなしたのでしょうか。この時もペリシテ人が襲ってきました。
彼らは「みことばの敵」です。その時、「民はペリシテ人の前から逃げた」と書いてあります。
神の民は「みことばの敵」に対抗することが、できず、敗走し、彼らの位置に留まらなかったのです。今も多くの神の民は、「偽りの神学」「みことばの敵」の教えに敗走し続けています。「創世記は神話だ。進化論は科学的だ」といわれれば、「ああそうですか」とあっさりみことばから引いてしまいます。

しかし、ここに踏み止まった勇士がいます。
それが、シャマです。この名前の意味は「驚嘆」です。これは、彼による驚くべき勝利を意味するのでしょうか。彼はレンズ豆の畑にとどまりました。このことに大きな意味あいがありそうですが、これは、何をさすのでしょうか。レンズ豆については、以下の箇所で出てきます。

”エゼキエル4:9:あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦を取り、それらを一つの器に入れ、それでパンを作り、あなたがわきを下にして横たわっている日数、すなわち、三百九十日間それを食べよ。”

すなわち、レンズ豆も麦と同じようにパンの材料なのです。パンはみことばのたとえです。ですから、レンズ豆もみことばと関係しており、みことばをあらわすたとえの一つなのです。彼こそ、「みことば」に留まったのです。

「彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。」とはっきり書いています。彼こそは、勇士であり、最後迄、みことばにとどまり続けたのです。「やれQ資料だ、史的イエスだ。」と次から、次へと敵がくり出す、偽りの教え、神学に一歩も引かず、「天地が過ぎゆくとも変わらないみことば」の真実にとどまり続けたのです

「神学がわかってない」「非科学的だ」など、
わけのわからないことをいう人々に同調しなかったのです。彼がとどまり続けたその結果はどうなったでしょうか。「こうして、主は大勝利をもたらされた。」のです。ですから、今の「偽りの神学が圧倒しているような状態」はいつまでも長く続くものではないことを覚えて下さい。必ず、みことばの真理が回復され、「蛇が天から落とされる」日がくるのです。

しかし、今こそ、主につく勇士が踏み止まるべき時なのです。良くいえば、「よく回りの環境を見ている」悪くいえば、「ただの日和見のような人々が多い中で、「神のみことばの真実」に立とうとする人々は非難を免れないでしょう。「霊的解釈をするな。」などとの偽りの非難を受けるかもしれません。しかし、勝利は、「畑にとどまり続け、剣から手を離さない」すなわち、みことばに留まり続けた人々を通して与えられることを決して忘れてはなりません。

”13 三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。”

刈り入れとは、収穫の時のことであり、これは終末の最後のリバイバルの時の予表です。アドラムとは「退却」という意味です。ダビデペリシテ人に押され、アドラム(退却)のほら穴に避難していたのです。ペリシテ人は、剣、すなわち、みことばの敵をあらわします。すなわち、これは、ゲッセマネの園で「剣に囲まれたイエスに通じるものがあり、終末の日に「ことばなる方」が剣に囲まれることの予表です。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いて」いました。レフアイムとは、「巨人」という意味です。みことばの敵は巨大であり、逆に「ことばなる方」につく陣は小さいのです。

さて、この時、このダビデのところへ、あの「3勇士」が下ってきたのです。

”14 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。”

この時、ダビデは要害、すなわち「とりで」にいました。彼は戦いの中にいたのです。同じように
今の終末の時代にも「ことばなる方」も次から、次へと繰り出す「偽りの教え」「みことばを曲げる者達」との戦いのさなかにいるのです。

ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。”

ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。すなわち、「命パン」なる神のことばは、ペリシテ人「御言葉の敵」の制圧下にあったのです。今の時代も「みことば」は、「みことばの敵」の制圧下にあります。「2段階携挙説」「デイスペンセーション主義」「霊的解釈(たとえを解釈すること)への反対」等などの偽りが教会内で幅をきかせているのです。

”15 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」”

この時のダビデの言葉には、2つの意味あいがあることを知らなければなりません。
一つは、ベツレヘムの門」です。すなわち、今でいえば、「敵の支配下にあるみことばを取りかえす」ことです。もう一つは「井戸の水」、すなわち、「命の水」なる聖霊の働きの回復です。
この2つは、例の「2つのトピック」であり、終末の日に、この2つが害されるのです。

”16 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。”

今の時代、みことばは偽りの神学により、著しく変型され、とても元に戻すのは、難しいように思えます。また、教会は、「偽りのリバイバルの火が燃えさかり」、真理の聖霊の働きからは、遠く離れているようです。しかし、ここに「3勇士」が現れます。この3勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。」のです。すなわち、神のことばも聖霊の働きも彼らにより回復するのです。

ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、
17 言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」”

この水について、ダビデ「血」であると語っています。すなわち、ここで「水」「血」であると語られているのです。このことばは、ヨハネの手紙の「御霊と水と血」ということばを思い起こさせます。すなわち、確かにここでこの水、勇士たちが奪いかえした井戸の水は、敵により、害された聖霊の働き」を意味しており、終末の日にこれらの勇士により、聖霊リバイバルはひき起こされるのです。

しかし、もう一つのことが語られていることを忘れてはいけません。「いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」とのことばです。これらの働きをもたらすことは、神の前に栄誉なことですが、しかし、それは、「命をかけた勇士」によりなされるのです。

”三勇士は、このようなことをしたのである。”

この3勇士は、実は、新約聖書にも出て来るのではないかと私は思っています。
それは誰でしょう?それは、他でも無いペテロ、ヤコブヨハネの三人の弟子です。彼らは、変ぼう山でも、またゲッセマネの園でも主に従った新約の勇士達です。そして、イエスが剣で囲まれた時には、剣を抜いて応戦したのです。

ダビデの時代、ペリシテの陣により占領されたベツレヘムの門の井戸から水を汲んでくることは、命がけの従いでした。また、ペテロを始めとする3人の弟子がパリサイ人達に命を狙われるイエスに従うこと、また、剣で応戦することは、やはり命がけの従いでした。

しかし、このペテロを始めとする、弟子、勇士達を通して、新約の教会は大勝利をつかみました。偽りのパリサイ人、律法学者達の聖書解釈はひっくり返され、力ある神のことばは、雨のごとく下ったのです。また、彼らを通して、ペンテコステの火は天より下りました。

これらは、終末の日に起きる事柄の型です。終末の日にも、私達は、神のことばの回復、また
大きな聖霊リバイバルを見るでしょう。そして、これらは、他の誰でもない「命をかけた勇士達」を通して与えられるのです。

 

終末における主の御心を行っていきましょう。

 

ー以上ー

 

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