終末には、聖書に関する神学や解釈が、「ことばは神」といわれた方に公然と害したり、反対するようになる。

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No.206 剣に囲まれるイエス

テキスト:”マルコ14:42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
44 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」
45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。
46 すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。
47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。
48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

 

本日は「剣に囲まれるイエスとして、メッセージしたいと思います。
福音書によると、主イエスが十字架にかけられる前、彼は「剣に囲まれた」ことが記されています。このことのたとえを見ていきたいと思います。

以下、テキストに沿ってみていきます。

”42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」”

主イエスの時代を考えるなら、その時代は、バビロン補囚の時と同じ14代目です。バビロン補囚の時、終末の時、淫婦バビロンの時に通じます。すなわち、主イエスの時は、終末の時の型なのです。
さて、その時代の中で、このゲッセマネの祈りの後で、「裏切る者」ユダが近付いたと、主は語られました。

この裏切りについて考えてみましょう。彼は、勿論一面、人間としての主イエスを裏切ったわけです。しかし、この裏切りにはもう一つの隠れた一面があります。
それは、何かと言うと、「言葉は神であった(ある)」というヨハネ福音書のことばです。
すなわち、このユダの裏切りとは、単に一人の人を裏切ったというより、「ことばなる方」を裏切ったことをもさすのです。これは、何をたとえているのでしょう。これは、終末の日、神にもっとも愛された国、ユダの名前を冠らせられた「神の民」がこの「ことばなる方」を裏切るということの予表なのです。

”43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。”

この裏切る者、ユダの登場のしかたに注目して下さい。彼は、「剣や棒を手にした群衆もいっしょ」に現れたのです。剣は、「御霊の剣、すなわち神のことば」と書かれているように、「神のことば」に関することのたとえです。この時、この群集達は、イエスを害するために、剣を持ってきました。

ですから、終末の日には、「剣」すなわち、聖書に関する神学や、解釈が、「ことばは神」といわれた方に公然と害したり、反対するようになるでしょう。また、「群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。」という言葉も象徴的な表現です。すなわち、これらの剣は、みな「祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたもの」だったのです。祭司長は今の時代の教会指導者、律法学者は神学者、牧師、教師にあたります。残念なことですが、今の時代、これらの人々が「ことばは神である」といわれた方に剣を差し向ける人々になるのです。

確かにこれは当たっているのです。聖書には、書かれていない「2回にわたる再臨の教え」、2段階携挙説を声高にふりかざしたり、「主よ主よと呼ぶ者が全て、神の国を見るわけではない」と明確に聖書に書かれていることばを否定して、「クリスチャンと名がつけば、全く裁かれることはない」などと、いう人々は「言は神である」と言われた方に向かって剣をふりかざしているのです。

”47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。”

さて、このようにイエスは剣で囲まれたのですが、しかし、ただ、囲まれていただけでなく、「イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて」防戦したことが書かれています。

剣で防戦するなんて、博愛精神のキリスト教にそぐわないなどという人がいるかもしれませんが、主は終末の日に「剣を用意するように」命じています。以下の通りです。

”ルカ22:35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
36 そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
37 あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
38 彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。”

この時、2振りの剣が用意され、主はそれで十分といわれました。ですから、私達は「剣」の用意をしなければなりません。偽りの解釈、「ことばは神である」といわれた方を冒涜しているとしか思えない。「創世記は神話だ」などという人々と戦うために、この剣を備えなければならないのです。

”48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。”

ここで、使われている「強盗」ということばは、以下のことばと同じです。

”マタイ21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」”

主が宮浄めをして、この宮を「強盗の巣」といわれた時、隠れた意味あいがありました。それは、「神のことばを盗む」者たちを非難して語ったのです。教会は今や強盗の巣になっています。「神は愛である」ということばを盗み、仏教徒もビンズー教徒も皆、そのままで、信仰を変えることなく、救われる。何故なら、神は愛であるから」などというのです。
こんなことをいう人々こそ、イエスが宮浄めをする時、追い出したかった「強盗」なのです。

そして今、彼らの剣はイエスを取り囲み、彼らはイエス「まるで強盗にでも向かうように」扱っています。神のことばを盗んでいるのは、「祭司長、律法学者、長老」達なのに、「ことばは神である」といわれた方に剣を向けるとは、まさに「盗人たけだけしい」とは、このことです。

このことはとんでもない冒涜なのですが、しかし歴史上、事実起ったことがらです。そして、同じように、終末の日にも起きるでしょう。すなわち、終末の日には、「ことばは神である」といわれた 方そのものが、「剣」に取り囲まれるのです。それだけでなく、剣で取り囲む者たちは、この「真理のことば」「まるで強盗(盗人)にでも向かうように」対するでしょう。すなわち、偽りの教えが「真理」を異端扱いするのです。

長年の間、「終末に関する真理のことば」を堅く守っていた教会に1830年頃、イギリスのマーガレットマグドナルドなる霊媒の見た「艱難時代の前に再臨するキリスト」なる幻を契機に「艱難前携挙説、二段階携挙説」なる偽りの教えが入ってきました。

この偽りの教え、「艱難に備えよ」とのイエスのことばと真っ向から対立する教えはあっという間にキリスト教会に広がり、今やこの教えの方が「正統的な教え」ということになっています。確かにこの偽りに組みする「裏切り者」達が今の時代、多いことは事実ですが、しかしこんな聖書にも書いていない偽りをうのみにして、「正しくみことばに留まる人々」を迫害したり、追い出したりすることこそ、「まるで強盗(盗人)にでも向かうよう」に剣をかざすことであることを知らなければなりません。

”49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」”

ここでは、イエス「宮で..おしえる」ことについて書かれています。すなわち、神のことばを教えることについて書かれています。ここでもさりげなく、「神のことば」に関連することが書かれているのです。ですから、ここでの主題は神のことばに従うか、それとも剣をかざして敵対するかということであることを理解しなければなりません。

今も、いいえ今こそ、偽りの剣は、「ことばなる方」を取り囲んでいることを知らなければなりません。このことが見えない人々は、失礼ながら、「盲目」であり、主に「目薬」を真剣に求めなければなりません。

この終末の日、偽りの刃に組みするか、それとも「ことばなる方」に従って、剣をとるか、私達は、いずれは主にあって、決断しなければならないでしょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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