終末の裁きの時の「書かれている全てのことが成就する報復の日」とは一体何を意味することばか。

f:id:yuumamatan:20240319075741j:image

 

NO.205 書かれている全てのことが成就する日

 

”テキスト:ルカ21:20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。

本日は、「書かれている全てのことが成就する日」という題でメッセージします。
福音書のルカ21章は終末のできごとに関して主ご自身が語られている箇所です。この中で、主は終末の裁きの時は「書かれている全てのことが成就する報復の日」であると述べています。
このことは一体何を意味することばなのでしょうか。本日は、そのことを考えてみたいのです。

聖書はたとえば、主イエスの誕生する日について、「書かれている全てのことが成就する喜びの日」とは書きませんでした。また、主イエス復活の日についても、そうは書かなかったのです。
主イエスの誕生や復活が大事だとか、大事でないとかいうのではなく、(勿論大事なのですが)、ただ、そうは書かれていないということをいっているのです。
そして、同じようにペンテコステの日についても、「書かれている全てのことが成就する日」とは書かなかったのです。
聖書が終末の日について、「書かれている全てのことが成就する.報復の日」と書き、他のことがらについては、決してそのような表現をしなかったことには、大きな意味あいがあります。このことに目をとめなければなりません。

さて、もう少し見ていきましょう。「書かれている全てのこと」とは、何を意味するのでしょう。
そもそも書かれているとは、何に書かれていることをさすのでしょう。この点に関しては、
クリスチャンの間で、大きな意見の相違はないでしょう。まさか、「ノストラダムスの予言書に書かれていること」などと答える人はいないでしょう。クリスチャンが「書かれていること」と聴けば、まず聖書を思い浮かべるはずだからです。そして、この箇所もやはり聖書をさして、「書かれていること」と言っているようです。

ですから、この日には、単にこのテキストのルカ伝の記事でなく、並行記事であるマタイ、マルコの終末の記事も成就するのです。また、黙示録、ダニエル、エゼキエル書等の終末の記事も成就するのです。そして、それだけでは、ありません。一般には、終末の記事とは、思われていない、しかし実際は、終末に関して書かれている多くの記事が成就するのです。それが、「書かれている全てのことが成就する報復の日」という意味なのです。

ですから、このことばは聖書という本の隠れた性質を語っています。聖書とは、そもそもどういう意味あい、種類の本なのでしょうか。宗教書?その通りです。歴史書?これもその通りです。詩や文学の書?これもその通りでしょう。しかし、忘れてはいけない、というより第一義的に取り上げられるべき聖書の性質、種類は、この本が「終末に関する本」だということです。このことを「暗黙の了解、前提」として、「書かれている全てのことが成就する報復の日」ということばが聖書で語られているのです。

例えば、ある本を私達が手にして読むとしましょう。
最初の章には、「常日頃、準備しておくもの、携帯ラジオ、水、缶詰め..」の記述があります。
次の章には、「グラっときたらまず火を消すこと」等の記述があります。
そのまた次の章には、「枕もとに常に逃げだす時、持ち出 せるよう、必要なものをリュックに入れて準備しておくこと」などと書いてあります。

「何だか、話題の限られた本だな、うまいラーメン屋のこととか、今はやっている音楽のこととか書いてないのかな」なんて思いながら、表紙を見ると「地震対策マニュアル」とか、書いてあります。「なるほど、こんな本だから、話題が限られていたんだ」と納得するわけです。

さて、同じことが、聖書にもいえます。そんな風に見えるかどうかは別として、聖書の隠れた
性格は、この本が「終末指向型の本」だということです。このことに注目していく時、聖書の謎めいた、意味不明の言葉のいくつかが、開かれてきます。あまり断定的なことはいえないのですが、しかし、多くの聖書の記事は終末の警告を含んでおり、この意味あいが重要なものとなります。

さらにもう一つ申し上げたいことは、聖書は、ある特定の時を指向して書かれたものであるということです。すなわち、ある特定の時、時代、期間を目ざし、想定して、書かれた本だということです。

地震対策マニュアル」もある非常に特殊な時を想定して書かれたものです。普段の時には、
「ぐらっと来たら、鉄製のドアをあけるようにしましょう。地震でドアがあかなくなり、閉じ込められる可能性があるからです」などという情報は、何の関係もないことがらに見えます。
しかし、一生に一度起るかどうかと思われる大地震に我々が遭遇した時、これらの知識が生きてきます。

同じように、聖書の多くの記事は終末の短い期間をめざして書かれており、それ以前の時代には、あまりぴんと来なかったり、意味不明だったりする記事が多いようです。

しかし、終末という特定の時に合わせて、これらの記述を読むと、今迄は不鮮明にピントが外れたように、よく見えなかったものが、鮮明にリアルに見えてきます。まことに聖書は「終末指向型の本」なのです。

南米に「ナスカの地上絵」というものがあるということです。地上に猿やら鳥やらの大きな絵が書いてあるということです。しかし、あまりにも絵のサイズが大きすぎるので、地上を歩いている人には、何が描いてあるのか、そもそもそこに絵が描かれていることも気がつかないようです。
しかし、地上から、ある程度の高さから見ると、全体像が見え、何の絵だかはっきりわかるとのことです。同じ様に聖書の終末の記述に関してもはっきりピントがあって、見えてくる時があり、それが、「終末」なのです。

繰り返しますが、聖書にはある特定の意図して目的としている時代があり、それが終末であり、その時、黙示録に書かれているように「封印が開かれる」のです。

そして、もう一つのことがいえます。聖書は、同じ時、終末に関して、いくつもの異なった複数の表現を通して、語っているということです。すなわち以下のようにです。

-淫婦の裁き
-宮の崩壊
-エルサレムの荒廃
-ノアの洪水
-ソドム、ゴモラの火の裁き
-バビロンへの捕囚
ーエジプトへの裁き
ーゴグ、マゴグ

まだまだいくらでもあるのですが、これ位にしておきます。これらが皆、同じ時に関して語られているのです。これらが皆、同じように成就する日、それが「書かれている全てのことが成就する報復の日」なのです。
 

以上のことを念頭において、上記テキストを見ていきましょう。

”20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。”

この日、神の民の教会にたとえられるエルサレムが軍隊に囲まれることが書かれています。
これは、ある面では、教会への裁きであり、ある面では、主につく民の苦難の時です。
ここでいう、軍隊とは、戦車や飛行機の軍隊ではありません。聖書はたとえの書なので、軍隊ということばのたとえを始めに考えなければ成りません。この「軍隊に囲まれる」とは、例えば以下のゴグに関する記述と同じことをいっているのです。

”エゼキエル38:8 多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる
9 あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。”

この時、ゴグで象徴される「民」が主につける人々を襲ったように、終末の日にエルサレムで象徴される神の民に苦難の時がきます。

また、以下の時でもあります。

”黙示録16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。”

このハルマゲドンの時、霊に惑わされた王達が戦いに出ていくように、終末の日に悪霊のリバイバルの中で、霊に惑わされた教会の牧師、指導者達(王にあたる)は、エルサレムで象徴される神の民と戦うようになるでしょう。

”21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい”

「都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい」とは、”バビロンから去れ”と語られている黙示録のことばに通じます。この日は、この民に災いが及ぶ日だからです。主につく民はこの裁かれるべき都を離れ、そうでない人々はここに残り、裁きにあいます。

”22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。”

この日に聖書に「書かれているすべてのことが成就する」のです。
すなわち、ノアに関する預言、ロトに関する預言、ダニエル書、エゼキエル書等の全ての終末に関する預言が成就します。

”23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。”

「身重の女と乳飲み子を持つ女」とは教会(女)に関するたとえです。「身重の女と乳飲み子を持つ女」に共通して必要なものは、「乳」です。そして「乳」とは、ヘブル書に書かれているように、「たとえを解すること=堅い食物」とは、対称的な食物です。ですから、「身重の女と乳飲み子を持つ女」とは、「たとえを理解しない」教師、信者に満ちた教会のことです。終末のみことばは「たとえ」に満ちているので、このような教会は「悲惨」になります。

”この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。”

この日は教会への裁きの日です。

”24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。”

これは、クリスチャンについて語られている「たとえ」です。「剣」とは、「御霊の剣、すなわち神の言」と書かれているように、「み言葉」に関することがらのたとえです。御言葉に関する神学、解釈が変質するため、人々の信仰は「倒れ」ていきます。「クリスチャンと名がつけば、誰も裁きにあうことはない」などという、偽りの神学に倒されていくのです。

「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」と書いてあるのはどういう意味でしょうか。
かつてのユダ、エルサレムは不信のゆえにバビロンへ捕らえ移されました。同じように、終末の日にも教会はバビロン化されます。物理的にクリスチャンがバビロン(イラク)へ移住させられるということはないかもしれませんが、しかし、霊的には捕らえ移されるのです。バビロニアタルムードゆずりの神学は、教会の神学の中枢を襲っており、バビロンを起源とするカバラの魔術の影響は、連金術のように、信者の歯を金歯に変えたりして、今、教会のリバイバル聖会の中で活動しています。

教会は確かにバビロンへ捕らえ移されているのです。また、黙示録に「ソドム、エジプトと呼ばれる都」について書かれていますが、これも教会の別名です。一面教会は、バビロンに捕らえ移されており、また別の一面では、ソドム、エジプトに捕らえ移されています。これが、「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」ということばの意味です。

”異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。”

エルサレムは教会をさすたとえです。その時迄、教会が異邦人(未信者)に踏み荒らされるというのです。このことは、今、成就しております。角笛によれば、ペンテコステ「いやしの伝道者」として、有名だったキャサリンクールマンは何と、魔女であったということです。魔女、悪魔を礼拝する人物である以上、クリスチャンなはずはなく、未信者、それも全くキリストと懸け離れた人間です。しかし、彼女は事実、エルサレム(教会)のまん中を席巻していき、多くの人々の信仰に(悪霊の)影響を与えました。このような人物が教会のまん中で用いられること、これこそ、エルサレム(教会)が異邦人に踏み荒らされ」ることでなくて何でしょう。しかし、主の定めた時は近付いており、その時、「異邦人のとき」は終わります。

”25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、”

「日と月と星」は天の万象であり、クリスチャンの噐、働き人のことです。ここに「前兆が現れ」るのです。すなわち、何か異変があらわれるのです。確かにこの「異変」は現れており、角笛によれば、多くのリバイバリストなる人々は、サタニストであり、カソリック内でも多くの高僧がふりーめーそんなる悪魔礼拝者にとってかわっています。これが「前兆」でなくて何でしょうか。

26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。”

「天の万象が揺り動かされる」とは、すなわち、牧師、教師達が揺り動かされる時のことでしょう。
恐らく、「獣の印、霊を受けていない働き人は説教が許されない時」が来るのでしょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240319075722j:image