「教会が悪魔礼拝者などにより踏み荒らされていくこと」をエレミヤ書を通して見ていく。

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NO.216  異邦人がエルサレムを踏み荒らす(その2)
 
テキスト:エレミヤ51:51『われわれはののしりを聞いたので、恥じている。異邦人が主の宮の聖所にはいったので、恥がわれわれの顔をおおった』。(口語訳)本日は、「異邦人がエルサレムを踏み荒らす(その2)」としてメッセージします。

終末の日に、「異邦人がエルサレムを踏み荒らす」ことが、ルカ伝に記してあります。以下の通りです。

”ルカ21:24「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」”

このことは、終末の多くの記事がそうであるように、たとえです。エルサレムは教会のたとえであり、教会の中心が異邦人、今でいう、未信者、神を信じていない人々に占領されることをさしています。
さて、このことに関連して似たような記述がエレミヤ書にあります。それが冒頭のテキストです。
異邦人が主の宮に入る日、それが終末の日であり、この日は、我々にとっては、情けない、私達の本営を敵に奪われてしまう、まさに「恥がわれわれの顔をおおった」日なのです。

冒頭のエレミヤ書のテキストの前後の記事は以下のようになっています。

”エレミヤ51:41 ああ、バビロンは攻め取られ、全地の栄誉となっていた者は捕えられた。ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。
42 海がバビロンの上にのしかかり、その波のざわめきにそれはおおわれた。
43 その町々は荒れ果て、地は砂漠と荒れた地となり、だれも住まず、人の子が通りもしない地となる。
44 わたしはバビロンでベルを罰し、のみこんだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。ああ、バビロンの城壁は倒れてしまった。
45 わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。
46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。
47 それゆえ、見よ、その日が来る。その日、わたしは、バビロンの刻んだ像を罰する。この国全土は恥を見、その刺し殺された者はみな、そこに倒れる。
48 天と地とその中のすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ。♦︎主の御告げ。♦︎
49 バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように。
50 剣からのがれた者よ。行け。立ち止まるな。遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。
51 『私たちは、そしりを聞いて、はずかしめを受けた。他国人(異邦人ー口語訳)が主の宮の聖所にはいったので、侮辱が私たちの顔をおおった。』」
52 「それゆえ、見よ、その日が来る。♦︎主の御告げ。♦︎その日、わたしは、その刻んだ像を罰する。刺された者がその全土でうめく。
53 たといバビロンが天に上っても、たとい、そのとりでを高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちが、ここに来る。♦︎主の御告げ。♦︎」
54 聞け。バビロンからの叫び、カルデヤ人の地からの大いなる破滅の響きを。
55 主がバビロンを荒らして、そこから大いなる声を絶やされるからだ。その波は大水のように鳴りとどろき、その声は鳴りどよめく。
56 荒らす者がバビロンを攻めに来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られる。主は報復の神で、必ず報復されるからだ。
57 「わたしは、その首長たちや、知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせる。彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。♦︎その名を万軍の主という王の御告げ。♦︎」
58 万軍の主はこう仰せられる。「バビロンの広い城壁は、全くくつがえされ、その高い門も火で焼かれる。国々の民はむなしく労し、諸国の民は、ただ火に焼かれるために疲れ果てる。」”

この記事を順に見ていきましょう。

”41 ああ、バビロンは攻め取られ、全地の栄誉となっていた者は捕えられた。ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。”

ここでのバビロンは、終末の日にバビロン化した教会をさしているようです。これはまた黙示録の淫婦バビロンのことでもあります。
この日、バビロン化した教会は敵に「攻め取られ」たのです。「全地の栄誉となっていた」教会は、敵に捕らわれ、その教理も霊も全くバビロン化してしまいました。

”42 海がバビロンの上にのしかかり、その波のざわめきにそれはおおわれた。”

海は水に満ちており、聖霊をあらわす水」からのたとえの連鎖があると思われます。
この場合の霊は聖霊ではなく、海なる「獣の霊」が、「バビロンの上にのしかかり」ます。

”43 その町々は荒れ果て、地は砂漠と荒れた地となり、だれも住まず、人の子が通りもしない地となる。”

町々すなわち多くの教会は、偽りの教理、獣の霊のため、「荒れ果て」ます。また、「だれも住まず、人の子が通りもしない地となる」と書かれています。ここで、注意すべき点は、「人」は、誰もすまないといわれている点です。人は住まないが、しかし、ジャッカル、狐等の「獣」は住んでいるのです。
教会が「獣化」され、神が「人」とみなす「クリスチャン」が絶えてしまうことが暗示されます。

”44 わたしはバビロンでベルを罰し、のみこんだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。ああ、バビロンの城壁は倒れてしまった。”

ベルリンの壁が東と西のドイツを隔てていたように、この国、教会の城壁も敵を隔て、侵入を防いでいました。しかし、この日、「城壁は崩れ」、敵が教会の中に自由に入り込み、偽りの教えを語れるようになりました。

”45 わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。
46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。”

この国、主に裁かれるべき教会から出てくることが必要です。

”47 それゆえ、見よ、その日が来る。その日、わたしは、バビロンの刻んだ像を罰する。この国全土は恥を見、その刺し殺された者はみな、そこに倒れる。”

「刻んだ像」とは仏像やお地蔵さんのことでは、ありません。木や石の像を罰しても意味のないことです。
しかし、これは、「噐崇拝、聖徒崇拝」のことであり、このような受けるべきでない栄光に甘んじている人々が罰せられる時が来ます。「刺し殺された者」には、「剣」ということばとの「たとえの連鎖」があります。剣は、「御霊の剣、すなわち神のみ言葉」とあるように、聖書のことばのたとえです。
ですから、「刺し殺された者」とは、誤りの教理の中で倒される人々のことです。

”48 天と地とその中のすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ。♦︎主の御告げ。♦︎”

北とは、世界の中心エルサレムの北に座す国、北イスラエル、今でいう、カソリックの予表です。
カソリックのあらゆる偽り、惑わし、悪霊の教えがプロテスタントの教会に入り込み、それを荒らすようになるでしょう。
カソリックとは、「普遍的」という意味であり、「ローマカソリック教会」ということばには、ローマのあらゆる異教的な教え、宗教を際限なく「普遍的」に取り入れた「教会」という隠れた意味あいがあるとのことです。

確かにマリヤ崇拝のような「女神崇拝」は、本来聖書が排除するよう語っているものなのですが、
この教会の中では、恥ずかし気もなく取り入れられています。これらの偽りがこれからの時代、大いにプロテスタントの中に浸透していくのでしょう。例えば、新共同訳なる聖書に彼らが相共に偽りの、悪霊的な外典「続編」などという見せ掛けの名前をつけて取り入れたことはその最初の行動です。

”49 バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように。”

このバビロンなる教会の中には、「全地の刺し殺された者たちが倒れ」ています。
彼らは偽りの教理を恥ずかし気もなく、受け入れ、「ことばは神である」といわれた方のみことばを打ち捨てた愚かな人々です。彼らはこの教会の中で倒されていきます。

”50 剣からのがれた者よ。行け。立ち止まるな。遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。”

しかし、多くの人々が「剣」、偽りの教理の中で倒されていくなかで、小数の「剣からのがれた者たちがいます。彼らは「みことばなる方」に忠実な、ことばを否定しない人々です。彼らには、「行け。立ち止まるな。」と書かれています。この教会の中にとどまることには、みこころがありません。

”51 『私たちは、そしりを聞いて、はずかしめを受けた。他国人(異邦人ー口語訳)が主の宮の聖所にはいったので、侮辱が私たちの顔をおおった。』」”

この時、「他国人(異邦人)が主の宮の聖所にはい」ります。これは、ルカ伝で、エルサレムが異邦人に踏み荒らされる」と書かれているのと同じことがらを表します。
エルサレムすなわち、町は、「多くの家が集まっているところ」としての意味あいがあります。家は、兄弟、姉妹が住む教会のたとえです。町には、家が満ちているわけですから、今でいえば、多くの教会を擁する「教団」というような意味あいのたとえになります。

それに対して、宮、聖所は、「礼拝、祈りが捧げられる所」としての教会のたとえです。
この時、「他国人(異邦人ー口語訳)が主の宮の聖所にはい」ります。最も神聖で、選ばれた祭司しか入れないはずの聖所に異邦人なる、悪魔礼拝者が入ってくるのです。

このことばは大袈裟な言い方ではなく、まさに私達の目の前で成就しています。
多くのクリスチャンが真に神に仕え、祈りを捧げる聖会の真ん中に何と悪魔礼拝者がおり、彼らが按手や、メッセージ迄しているではありませんか。例のビデオに出るベニーヒン、ロドニーハワード達がそれです。
このようなことは、かつてキリスト教会にはなかったことなのです。「侮辱が私たちの顔をおおった。」とは、まさにその通りのことばなのです。
このような情けない状態を許してしまった、私達の世代は、何故こんなことが私達の世代では、許されてしまったのかを反省しなければなりません。

もちろん、彼らが巧妙だったということはあるでしょう。しかし、主が私達の世代を「この恥にふさわしい」と認めなければ、決しておきないことだからです。

”52 「それゆえ、見よ、その日が来る。♦︎主の御告げ。♦︎その日、わたしは、その刻んだ像を罰する。刺された者がその全土でうめく。”

刻んだ像とは、「聖徒崇拝」のことです。像は人の手により刻まれて完成します。すなわち、神の手ではなく、「人手」により造られるのです。彼らは人の手の力に頼る人々です。「刺された者がその全土でうめく」とは、偽りの教理に刺され、倒されていく人々のことです。

”53 たといバビロンが天に上っても、たとい、そのとりでを高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちが、ここに来る。♦︎主の御告げ。♦︎」”

「たとい、(バビロンが)そのとりでを高くして近寄りがたくしても..荒らす者たちが」来るとのことです。この意味あいを考えてみましょう。

この時代、いつでも敵が攻めてくる可能性があるので、町はみなその「とりで」を高くしました。
とりでは敵を押し返します。しかし、終末の日、敵は、そのとりでを超えて、教会に押し寄せてきます。今の時代、多くの教会で、異端の教えに敏感になっていないでしょうか。また、
「正統的な教え」に少しでも異なることを言い出す人々を教会から排除し、教理を大切に守っていないでしょうか。しかし、敵は、その高くした「とりで」を超えて荒らすというのです。

このことばはまさに私達の目の前で成就しています。すばらしいリバイバルの噐が来るというので、その集会に出かけて見ると、何とその外国の噐、働き人は「獣」の霊を呼び寄せているではないですか。
これらの「獣」の霊は、すでに教会のとりでを越えてそして、その内部を席巻しているのです。

そして、イギリスの霊媒マーガレットマグドナルドによって紹介された「悪霊の教え」(1テモテ4:1)「艱難前/段階携挙接」は、教会のとりでを越えて教会に侵入し、今や正統的な教えと(いうことに)なりました。今はこの悪霊の教えを指摘する人々が逆に教会から非難されるという情けない状況になっています。

”54 聞け。バビロンからの叫び、カルデヤ人の地からの大いなる破滅の響きを。
55 主がバビロンを荒らして、そこから大いなる声を絶やされるからだ。その波は大水のように鳴りとどろき、その声は鳴りどよめく。”

バビロンの下で教会は「大いなる破滅」を被ります。
みことばは「バビロン化され」、その霊も「バビロンのカバラに影響されたものとなります。

”56 荒らす者がバビロンを攻めに来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られる。主は報復の神で、必ず報復されるからだ。”

ここでの「荒らす者」は具体的には、かつて「バビロン捕囚」された民のことでしょう。
彼らのバビロンじこみの「たるむーと」は、今や教会の聖書解釈に大きな影響を与え、
それをバビロン化するのに、成功しています。その中で、信仰の「勇士たちは捕えられ」ていきます。
死海文書」の嘘等で信仰をぐらつかせられていくのです。

「主は報復の神で、必ず報復されるからだ。」と書かれています。このことばを考えてみましょう。
終末の日、主は誰に報復されるのでしょう。このことを考えるのに、かつての起元70年のローマによるエルサレム攻撃が良い例になります。
この時、神の民の都、エルサレムは攻撃され、ユダヤ人は最後の一人迄、殺されてしまいました。これは、まさしく神による報復の日だったのです。神は何を報復されたのでしょうか。それは、この都で起きた「ことばは神である」ヨハネ1章)といわれた方、イエスへの殺害に関してです。
ヨハネ福音書 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれているように、この民は彼を受け入れず、その為に、神からの報復を受けたのです。

さて、これは終末の予型であり、終末の日に同じように成就することを知らなければなりません。
終末の日に、「ことばは神である」といわれた方のことば、「これは私のからだである」といわれたそのことばを侮り、裏切る神の民への報復があることを預言しているのです。

私達が聖餐式で主のからだ、みことばを予表するパンを食べる時、必ず、「主は渡される夜、パンをとり」と語られていることを忘れてはいけません。渡されるとは、主が「死に渡される」ことを意味します。
いわんとしていることは、このパン、みことばには、主の命がかかっているということです。
仇おろそかに扱うべきではないのです。それが、聖餐式に関連して、「自分を吟味すること」「ふさわしくないままでパンを食べる」すなわち、ふさわしくない方法でこのみことばに接することに、警告が発せられている理由です。

はっきり申し上げますが、このようなキリストのみことばに対して、恐れげもなく、「創世記は神話だ。進化論は正しい」、すなわち、聖書の言葉は嘘だと高言している人々こそが
まさに「ふさわしくないままでこのパンを食べる」人々です。
彼らが終末の日に「報復」を受けなければそれこそ、不思議ではないでしょうか。

”57 「わたしは、その首長たちや、知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせる。彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。♦︎その名を万軍の主という王の御告げ。♦︎」”

さて、このように「ことばは神である」といわれた方を公然と嘘つき、偽り者とする人々が「永遠の眠りについて、目ざめることはない」ことについてここでは書かれています。
ここに「酔わせる」と書いてあるので、「酒」との「たとえの連鎖」があることがわかります。
酒は、霊のたとえであり、終末の日、このように神のことばを偽りとする人々は霊に酔っていきます。
これは彼らのことばでは、リバイバルが来た」ということであり、神の前には、「獣のリバイバルという現象です。「その首長たちや、知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせる。」と書いてあります。
ですから、「首長」すなわち、その教会の長である牧師達や、また「知恵ある者」、すなわち神学者や学者も、また「総督や長官」すなわち、教会の有力者も、また信仰の「勇士たち」もこの偽りの霊に酔っていくのです。彼らはこのことばなる方を捨て、偽りに聞き入っているため、このような偽りの霊に巻き込まれていくのです。

また、「彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。」と書かれていますが、
これは、とても恐ろしいことばです。
彼らは寝てしまうため、最後迄、終末の終わり迄、真実を知ることができないのです。どんなしっかりした人でも電車の中でうっかり眠りこんだりすれば、降りるべき駅を通り過ごしてしまったりします。
同じ意味あいで彼らも眠り込むため、終末でもっとも大事なことがらを「見過ごして」しまうでしょう。

今起きているトロント、ペンサコーラ等のリバイバルは終末の日に、来る「真のリバイバルを迎え撃つため、サタンによって特別に計画され、予定された「獣のリバイバルなのです。これは、
マタイ13章に記されている「毒麦」を焼くための火なのです。
ですから、同じリバイバルでも、ここに天地の差、違いがあります。この現象は、「悪霊」で満ちており、この霊を受けた人々、666の印を受けた人々は、これから起きてくる「真の聖霊によるリバイバルを決して受け入れることができないことを知るべきです。
彼らが既に受けている「悪霊」がこの聖霊に関して、偽りを述べるから、決して彼らは理解、判断できないのです。「彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。」とはこのことをさすのです。

かつての時代、律法学者、パリサイ人達が聖「霊によるイエスの働き」を目の前にしながら、何と「彼はペルゼブルにつかれている」と言ったことを思い出して下さい。

エスがそのように彼らの目に見えてしまった、聖霊の働きが何と悪霊のものに見えてしまったということは、すなわち、彼ら自身の受けている霊が「悪霊」であることを示します。この判断の違いの原因は、知識や、考えというより、それぞれ各自がどのような霊を受けているかという問題なのです。

彼らはみことばを曲げ、イエスから「蛇よまむしのすえよ」と言われた人々であり、その偽りのゆえに、聖霊ならぬ悪霊を受けていたのです。そして、彼らの目は、「永遠の眠りについて、目ざめることは」なかったのです。彼らは真理なる方を目の前にしても最後迄、理解できなかったのです。
今、獣の霊を受けている人々もこれから起きる真理の回復やリバイバルを決して理解できず、受け入れないでしょう。

”58 万軍の主はこう仰せられる。「バビロンの広い城壁は、全くくつがえされ、その高い門も火で焼かれる。国々の民はむなしく労し、諸国の民は、ただ火に焼かれるために疲れ果てる。」”

「バビロンの広い城壁は、全くくつがえされ」ると書かれています。ですから、バビロン化した教会の城壁はくつがえされ、倒されるのです。城壁が倒れれば、敵が自由に占領します。その、結果町は、敵の思いのままに荒らされてしまうのです。終末のバビロン化した教会は、敵である悪魔の思い通りの場所になります。
既にこのことは成就し、角笛によれば、ペンテコステ、カリスマの教会では、「獣のリバイバルが横行し、カソリックでは、そのトップを始め、多くの高僧の中にふりーめーそん、悪魔礼拝者が浸透しています。

「国々の民はむなしく労し、諸国の民は、ただ火に焼かれるために疲れ果てる。」と書かれています。
多くの人々の働きがその日、火で燃えてしまうので、空しい結末に至ることを語っているのです。

一生懸命お金をため、労力をつくして、家や店を建てるのは、価値があるようですが、
しかし、ある日、その家が阪神大震災のような大地震で崩れ、火で全てが燃えてしまうなら、それは結果として空しい努力だったといえるでしょう。

同じ意味あいで、今の教会の多くの働き、奉仕の結末は火で燃えて、空しく終わるでしょう。

みことばを曲げたり、偽っている神学校、教会、牧師、信者が火を経てなおかつ、残ることはありえません。これらは全て、火によるためしに耐えることができず、獣のリバイバルの中に巻き込まれていくことでしょう。

サムエル記に「従いはいけにえにまさる。聞くことは雄羊の油にまさる。」と記されているように、今はいけにえ(奉仕)より、主にきくことを求めていかなければなりません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー 

 

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