NO.304 道について(2)
テキスト:”箴言 1:10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。
11 もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、
12 よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。
13 あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。
14 おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。”
本日は「道について(2)」として、聖書の語る道についてさらに見ていきたいと思います。箴言には道について多くの記述があります。それを見たいと思います。
テキストから見ます。
”10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。
11 もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、”
ここに書かれている罪人とは、必ずしも、未信者をさすとは思えません。むしろ、クリスチャンと名がつき、聖書を知っているが、しかし、罪を犯している人々と思われます。終末の日に義人と罪人が教会の中ではっきりと分かれ、罪人が、「罪のない者」の血を流す計画にひきずられ、巻き込まれていく時代となります。西暦2000年に国連主導で、1000人以上のあらゆる宗教の教職者が集まり、「宗教の一致」のために会合を開いたとのことです。事情を知る人々は、このことを「いよいよ世界統一宗教の誕生」「堅くみ言葉の真理に立つ人々を攻撃する準備が整ってきた」と理解しています。私も同じ考えです。
このような惑わしに偽善的な人々、罪に陥って目がくらまされている人々は惑わされて加担していきます。
”12 よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。
13 あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。
14 おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」”
この日、世界的な宗教上の惑わしが来るでしょう。そして、多くの人々が、偽りを選ぶようになるでしょう。「そんなはずはない」と思うかもしれませんが、その時、世論は巧妙に扇動されるでしょう。
「罪もないアフガニスタンへの空爆」は国連主導の偽りにより、世界的な成功を収めました。どこの国も我先にこの偽りに加担し、罪なき人の血を流すことに賛同したのです。同じことが宗教的な面でも起きるようになるでしょう。国連主導の偽りが起きるのです。
この時、罪のない人々の血を流すことに賛同するかどうかは、終末の日の人々の上に永遠の区分を与えることになります。
”15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。”
さて、ここで、彼等の道へ足を踏み入れてはならないというすすめがなされています。
ですから、この日、終末の日に、多くの人々がこの道、広い道へ入り込み、国連主導の世界統一宗教に賛同し、「一致」「全ての宗教間の争いをなくす」などともっともらしい題目を唱え始めたとしても、そのような道へ入り込むことがないようにすべきです。彼等のめざす目的は、悪魔の昔からの計画、終末に主に堅くつく者たちを攻撃することだということを知るべきなのです。
”16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。”
さて、このこと、終末の日に「罪のない者の血を流そうと急いでいる」ことは、
じつは、「網を張」ること、すなわち、わなであり、陰謀であることをここで記されています。
このことは、事実なのですが、いくつかの隠れた意味あいがあると思われます。
1). 一つはこれは、何も知らない、純真な主につくクリスチャンをだまし、滅ぼすためにしかけられた「わな」、気付かないうちにしかけたわなだということです。エステルの時、モルデカイを滅ぼすために計画された法律が密かに悪い者、ハマンの画策で、布告されたように、この終末の日の「布告」はしかけられ、実行されます。
2).もう一つの意味あいは、しかし、この「わな」は、実は、滅ぼすためにしかけた人々、上の例でいうと、悪いハマンの頭上に結局は、戻ってくる「わな」だということです。モルデカイを滅ぼそうと画策したハマンが自分で用意した木の上で、滅ぼされたように、終末の日に「油塗られた者」達を滅ぼそうと画策した人々、またそれに乗せられた人々には、滅びがわなのようにやってきます。
「鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ」という意味深なことばは、このことを暗示しているように思えます。
クリスチャンを一網打尽にし、滅ぼすための陰謀について、多くの研究者が述べています。
このような情報はまさに、この「鳥を取るためのわな」に関するみことばと符合します。
”18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。”
彼等、すなわち、終末の日にこの世に迎合し、「全ての宗教の一致」だとか、「互いの愛」だとか、耳心地の良い、しかし、ちっとも聖書的ではない、スローガンにだまされ、「あくまで、主につき、みことばにつく人々」を排他的、狭量などといって、迫害する、攻撃する人々は、それらの狭量な人々を攻撃しているつもりでも、実は、「自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのに」すぎないのです。他人のためにしかけた、落とし穴に自分が落ち込むことになるのです。
それが、具体的には、どのような方法で、手段でということまでは、よくわからないのですが、しかし、聖書に書かれている以上、これは、実現すると思えます。
”19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。”
「利得をむさぼる者」とは、バラムのような人々のこと、神の働き人にもかかわらず、報酬や、金銀により、神のことばや道を変更する人々のことでしょうか。
しかし、この道を歩む者は、「こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。」ことを知りましょう。
このように聖書は、前もって、「油塗られた者」達を迫害する側に立たないことを語っているのですが、しかし、残念ながら、終末の日に多くの人々がこの道に立つことをも述べています。
しかし、私達にあっては、正しく主の道をとらえましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
-以上-