詩篇69編は、終末の神の民が主を裏切り、主に油注がれた者達を迫害することを預言している。

 

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No.280 務めから落ちる(2)
”テキスト:使徒1:16 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

20 実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ
。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』”

本日は、「務めから落ちる(2)」としてユダの裏切りに関してもう少し見ていきたいと思います。

新約聖書を読む時、ユダ及び彼の裏切りに関して聖書が多くの記述をしていることがわかります。
12使徒の中には、ほとんど大した記述のない使徒達もいるのですが、この裏切る人、ユダの記述に関して、聖書はかなり多くのスペースを割いているようです。

何故でしょうか?それは、このユダが単にイエスの時代に生きた一人の個人というだけでなく、新約の教会に対する預言でもあるからです。ユダは旧約の神の民の国、ユダ国に通じ、そしてこのユダ国は、新約のプロテスタント教会の予表です。

さて、上記使徒行伝の記述の中で、聖書は、このユダに関して聖霊ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかった」と書きました。
ですから、このことがら、ユダの裏切りは、旧約の時代から、預言されていたことがらなのです。
この詩編の記述から、「ユダの裏切り」の意味あいを見ていきたいと思います。

上記テキストには、「『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』とあります。
この箇所の引用聖句は以下のことばです。

詩編69:0 指揮者のために。「ゆりの花」の調べに合わせて。ダビデの調べ
1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。
2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。
3 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。
4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。
それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。
5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。
6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。
7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。
8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。
13 しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。
15 大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。
16 主よ。私に答えてください。あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。
17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
18 どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。私の敵のゆえに、私を贖ってください。
19 あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。
20 そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。
21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。
22 彼らの前の食卓はわなとなれ。彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。
23 彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。彼らの腰をいつもよろけさせてください。
24 あなたの憤りを彼らの上に注いでください。あなたの燃える怒りが、彼らに追いつくようにしてください。
25 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。
26 彼らはあなたが打った者を迫害し、あなたに傷つけられた者の痛みを数え上げるからです。
27 どうか、彼らの咎に咎を加え、彼らをあなたの義の中に入れないでください。
28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。
29 しかし私は悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。
30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。
31 それは雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。
32 心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。
33 主は、貧しい者に耳を傾け、その捕われ人らをさげすみなさらないのだから。
34 天と地は、主をほめたたえよ。海とその中に動くすべてのものも。
35 まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。
36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。”

この中の以下の節が使徒行伝に引用されています。

”25 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。”

さて、上記詩編の記述は、「ユダの裏切り」という事実に隠されたたとえの意味あいを我々に教えるものです。イエスの時代に起きた弟子ユダの裏切りは、単にユダという1個人が裏切ったということにとどまらず、終末のユダの裏切りを語るものなのです。そのことを上記詩編の記述沿って見ていきましょう。

詩編69:0 指揮者のために。「ゆりの花」の調べに合わせて。ダビデの調べ
1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。”

この詩編ダビデが歌ったものです。このダビデは油注がれた者、またイスラエルの王であり、また来るべき預言された油注がれた王、キリストの予表です。そして、彼はまた、終末の日に油注がれる 者達の予表でもあるのです。

”2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。”

この日、油注がれた人々は、大水、すなわち、終末の日の悪霊の害に悩まされるでしょう。

”3 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。”

しかし、彼らは神へ「呼ばわ」ることをやめません。また、「わが神を待ちわび」ることをも
やめません。

”4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。”

しかし、この終末の日、彼らを「憎む者は私の髪の毛よりも多」いのです。彼らこそ、終末の日のユダ、 偽りに加担するクリスチャン達です。彼らの数は多く、また勢力があります。「偽り者の私の敵は強いのです。」と書かれている通りです。

”6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。”

終末の日は、「2段階携挙説」等あらゆる偽りに加担しない者が逆に異端として、「卑しめられ」ようとする日です。

”7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。”

しかし、これらの油注がれた者達は、実は神のために「そしりを負い、侮辱が私の顔をおおって」いるのです。彼らは主の教え、聖書の教えに忠実な者であるため、原理主義者」などという名前をつけられ、「裏切り者、ユダの子孫」により、迫害されます。

”8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。”

兄弟とは、要するに教会の兄弟姉妹のことをさすのです。この油注がれた者達が実は、同じ教会に属す人々ー彼らはことばなる方への裏切り者ですーから迫害を受けることがわかります。

”9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。”

主イエスはかつて、律法学者、パリサイ人の「家を思う熱心」のゆえに迫害されました。
彼らは神の教えに忠実だと自分では思っていたのでしょうが、事実は、「神のことば」なる方を迫害し、殺していたのです。同じように終末の油注がれた者達も「熱心」だが、しかし、盲目な人々により、迫害され、そしられるようになるでしょう。

”10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。”

断食とは、パンを食べず、水を飲まないことです。偽りの教えのパンを食べず、悪霊の盃を受けないことに通じます。実は、この断食を神は終末の民に求めているのですが、しかし、これを行う目の開けた人々は、裏切り者ユダの子孫により、そしられます。

”11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。”

荒布は旧約において、神の民が自分の罪を悲しむ時に着るものです。今こそ、終末であり、
我々はこの終末に下されようとしている神の憤りのゆえに、神を恐れ、また我らの罪のゆえに、荒布を着ようとする者ですが、しかしそのことは、裏切る者達、「終末に神の民の裁きなどない」という人々により、「物笑いの種」となります。彼らは終末の裁きとはまさに彼らの様なあざける者達の上に裁きが下される時だということを理解していないのです。

”12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。”

終末において、「油注がれた者達」は、「異端の教えを持っている」「極端な信仰を持つ原理主義だ」などと多くのこの世についた神の民のうわさのまととなるでしょう。また、悪霊のぶどう酒を受けた人々、すなわち、「酔いどれの歌」となります。

”13 しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。
15 大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。”

しかし、終末の日に神につく人々は、悪霊の「大水の流れ」から助け出されます。

”16 主よ。私に答えてください。あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。
17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
18 どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。私の敵のゆえに、私を贖ってください。
19 あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。”

「私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。」と書かれていますが、終末の日に神につく人々を「異端」と訴え、あざけるのは、皆、「あなた(神)の御前」にいる、今のクリスチャンと呼ばれる人々です。彼らこそ、終末の日の裏切り者、神のことばを「偽り」と語り、「進化論は正しい」(創世記は嘘)などとみことばをあなどる人々です。
彼らは、かつて「神の為」と勘違いして、「異端者」エス安息日を汚し」「律法を守らない」エスを迫害した人々の子孫です。
彼らは「患難前携挙説」という聖書の大教理を否定する異端者としてこれらの「油注がれた人々」を迫害するのでしょうけれど、実はそれは、「神のしもべ」への迫害なのです。

”20 そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。”

世の中にしてもキリスト教会にしても世論がうまく誘導され、これらの「主に真につく人々」がそしられる日が来るのでしょう。かつて人の子イエス「全ての人」から捨てられたように、終末の油注がれた者達が、全ての人から捨てられ、「私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません」という時が来るのでしょう。

”21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。”

食物、渇くとは、2つのトピック、パンとぶどう酒に関係したことばです。ですから、すなわち、終末の日に裏切るユダ、プロテスタントの教会において、命のパン、神のみことばの代わりに、苦み、神のことばを変型したような教えが与えられるということをさすのでしょう。
また、渇いた時の「水」聖霊ならぬ「酢」、悪霊をキリストの前に捧げるということなのでしょう。

”22 彼らの前の食卓はわなとなれ。彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。”

食卓とは、パンとぶどう酒が与えられるところです。具体的には、教会の礼拝のことをさします。
この礼拝は、神の前に捧げる場所、もっとも聖なる所のはずです。しかし、裏切るユダ、プロテスタントの教会においては、何とこの礼拝が「わな」となり、それが「落とし穴」となるというのです。
このことはもうすでに教会で起きています。今はこのように時が切迫した時なのですが、
教会の講壇では、「1000年たった後、ゴグ(ロシア)が中東に攻め込む」というのどかな話や、「患難の前には、キリストが(聖書には書かれていない秘密の)再臨をするから大丈夫」などというおとぎ話が公然と語られているのです。これらの嘘話を聞かされた信者は、安心して更にぐっすり眠りに入るということになります。
たしかに「彼らの前の食卓はわなと」なり、「落とし穴」となっています。

”23 彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。彼らの腰をいつもよろけさせてください。”

このように彼ら、ユダ、プロテスタント教会は、「ことばなる方」を裏切り、偽りの教えを受け入れていくため、かれらの「目は暗くなって、見えなく」なります。
このことは、今、文字通り、成就していることを知らなければなりません。

彼らは、誰も彼も終末の預言を読むことができません。「目は暗くなって、見えな」いからです。
彼らはたとえに関する主のことばを「誇張的表現」などともっともらしいことばで否定しています。
このような裏切り者がどうして、「この書」を読むことができるでしょうか。

”24 あなたの憤りを彼らの上に注いでください。あなたの燃える怒りが、彼らに追いつくようにしてください。”

「ことば」なる方を裏切ることは、大きな問題です。何故なら、そのことのゆえに、神の「燃える怒り」が注がれるからです。
今、何故日本のプロテスタントの教会に背信と無力と人の力が横行しているのかを思いおこすべきです。
その理由は神の「燃える怒り」がこの教会に注がれているからです。

”25 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。”

さて、このことばがユダの裏切りに関連して使徒行伝で引用されていることばなのです。
ここに彼ら、ユダ、プロテスタントの教会が荒廃することに関して書かれています。
ですから、ユダのように、終末の日にこの「ことばなる方」を教会が、裏切る時、教会が荒廃するのです。 そのことを予表しているのです。
私たちは主を恐れましょう。

”26 彼らはあなたが打った者を迫害し、あなたに傷つけられた者の痛みを数え上げるからです。”

「あなたが打った者」とは、主イエスの時代においては、むち打たれ、十字架につけられた主御自身のことでしょう。ユダ部族の人々は、この主を「他人を救いながら、自分を救えない」と嘲りました。
同じように終末の日には、神のみこころの中で苦難に会う、油注がれた者達が、あざける者たちに嘲られる日が来ます。

"27 どうか、彼らの咎に咎を加え、彼らをあなたの義の中に入れないでください。"

終末の日に、ユダ、プロテスタントの人々はこのように自分の兄弟である人々を正しく判断することができず、それゆえ、彼らは道を誤ります。あたかも主イエスの時代、この方をユダの国の人々が正しく判断できず、結果として神の怒りを買ったように彼らも終末の自分の兄弟、油注がれた人々を正しく判断できません。
そして、彼らは、神の「義の中に入」らないのです。

”28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。”

このことは彼らの罪となり、結果として彼らは「いのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされること」はありません。

”29 しかし私は悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。
30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。”

この時は、終末に主につく者達にとって、「悩み、痛」みの時です。
しかし、彼らは「高く上げ」られます。

”31 それは雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。
32 心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。
33 主は、貧しい者に耳を傾け、その捕われ人らをさげすみなさらないのだから。
34 天と地は、主をほめたたえよ。海とその中に動くすべてのものも。
35 まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たち
の所有とする。
36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。”

この時、「主のしもべの子孫はその地を受け継」ぐのです。永遠の財産を受け継ぎます。

まとめますが、使徒行伝のユダの裏切りに関連して引用されているこの詩編の箇所は、今迄見てきたように、明らかに終末のユダ、神の民が、「主を裏切り、その結果、主に油注がれた者達を非難、迫害する」 ことを預言しています。かつて、主イエスの時に起きた「ユダの裏切り」は明らかにこのことの予表です。
このことの警告を受けていきましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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