「知恵ある者の知恵は滅び、悟りのある者の悟りは隠される」とのことばは再び成就する。

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NO.279  務めからおちる
”テキスト:使徒1:16 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。
17 ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
18 (ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。
19 このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)
20 実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』
21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、
22 すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。
24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。
25 この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」
26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。”

本日は「務めからおちる」と題してイスカリオテのユダに起きたことがらを通して聖書が語っていることを見ていきたいと思います。

ユダがキリストを裏切ったことはクリスチャンなら誰でも知っていることです。
そして、「あんな諷になってはいけないな、いやいくら何でも自分はあんなにはならない」と皆、思うのかもしれません。

ユダに関して注目すべことは、以下の2つと思われます。
1. 彼はキリストに(多くの人の中から)選ばれた12弟子の一人であったのに、最後は裏切り、呪われた死をとげた。

2. このユダという名前は、イスラエルの12部族の中でもっとも神に愛された部族の名前でもあること。

主イエスの時代に起きた多くのことがらが終末の日に再現されるようですが、この「ユダの裏切り」も恐らく再現されると思われます。終末においては、新約のユダ、プロテスタントの教会において、このユダに関する預言が成就すると思われます。そのことを見ていきたいと思います。

順に見ます。

"16 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。"

ここでペテロはユダの生涯に関して、聖霊ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかった」と述べています。ですから、12弟子の一人、ユダが裏切るということは、聖書で前もって語られていたことであり、このことには、また預言的な意味あいがあるのです。
この裏切りは、単にユダという一個人の生涯を語っているだけではなく、更に終末の日のユダ、神に愛されたプロテスタント教会の裏切りをも預言したことがらと思えます。
そしてこのことの深い意味あいは、旧約のダビデのことば(詩編)を読むとき、はっきり理解できるようになるのでしょう。

「イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダ」と書かれています。このことばは預言的です。
自分を特別に12弟子に選んでくれたイエスを裏切り、あろうことか、その手引きをしたユダ、まことにとんでもないやつですが、しかし、このことは今、成就していると思われます。
新約の時代のユダ族、プロテスタント教会においても、この「みことば」なる方、神のことばをとらえ、 冒涜するような人々がいます。そのことは、このプロテスタント教会の中で率先して行われています。

「Q資料」すなわち、今我々が読んでいる福音書は史実と違う、キリストは復活も昇天もしなかったという冒涜話がこの教会の中でまことしやかに受け入れられていることはこのこと、すなわち、ユダが率先して「イエスを捕えた者どもの手引きをした」ことに通じるのではないでしょうか。

また、イエスということばは、「救い」という意味であることを思い出して下さい。「イエス(救い)を捕えた者どもの手引きをしたユダ」は一面、この方による「救い」を破壊したともいえるかもしれません。

主は確かに福音書「いのちに至る門は狭く、道は狭い」ことを語られたのですが、この教会で語られる救いは随分広いものになってしまいました。

”17 ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。”

「仲間として数えられており」と書かれています。聖書の中で「数えられる」ことは、何か特別な意味あいがあることを知って下さい。例えば、黙示録の中で選ばれた聖徒の数、14万4千人のように、神のみこころの民は「数えられる」ようです。しかし、そうでない民に関しては、どうも数えられたり、計ったりされないようです。以下のように書かれています。

ヨハネの黙示録 11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。”

ですから、ユダが「仲間として数えられて」いたということは、こういう意味でしょうか。
彼は天国で名の記されているもの、神の前に「数のうちに入っていたもの」だったのです。
しかし、彼はそこから落ちて、「数のうちに入らなく」なったのです。このことは、厳粛に受け止めるべきでしょう。
これによっても、「クリスチャンと名がつけば、決して救いから漏れることはない」という教理は耳に心地よいが、しかし、「異端」の教理であることを知るのです。

また彼は「この務めを受けていました。」彼は神の前に仕事があったのです。
これは、感謝なことです。

人間の間でも仕事がない、失業しているより何らかの仕事があることは良いことです。
何故なら、無職の人は1月経って、月末になっても入ってくる給料がありません。しかし、
仕事がある人は毎月、月末に給料が入ってきます。また、年末にはボーナスも入ってくるかもしれませ
ん。
同じ意味あいで神が与えられた仕事をなしとげる人は報いを受けます。

”18 (ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。”

ユダは不正を行いました。ですから、ユダ、終末におけるプロテスタント教会は、不正、罪の中に入っていくということでしょうか。彼は、「地所を手に入れ」ていました。
私たちが旧約聖書を読むなら、「地所を手に入れ」るとか、相続地を得るということは何か特別な意味あいがあることを知るでしょう。これは、我々が神の前に受け継ぐべき土地、また、永遠の住まいがあるということと関係します。しかし、彼は「まっさかさまに落ち」たのです。
終末の日のユダ、プロテスタント教会も永遠の住まい、相続を受け継ぐべき位置から、「まっさかさまに落ち」ることが類推されます。また、この教会、キリストの体としての教会は、終末の日に、「からだは真二つに裂け」ることでしょう。すなわち、「主につく人々」「そうでない人々」とに分かれるのかもしれません。

「はらわた」は以下の語と同じです。

”コロサイ人への手紙 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。”

ですから、終末の日にこの教会の良いもの、「深い同情心、慈愛」等がなくなっていくのでしょうか。

”19 このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)”

彼、ユダが不正の報酬として受け取った地所は、『血の地所』と呼ばれるようになりました。
血はたとえとして、霊のたとえであり、恐らく悪霊のたとえです。

ですから、終末の日、ユダ、現在のプロテスタント教会は、この方、ことばなる方を売り、いつわりの教え「2段階携挙説」等のあらゆる偽りを受け入れるようになります。彼らはそれでも、自分達には、受け継ぐ天の御国があると夢想、誤解するのでしょうが、彼らの受け継ぐ地とは、実は『血の地所』、すなわち、悪霊の惑わし、偽りのリバイバルの火だということを述べているのでしょう。

実は詩篇には、こう書いてあるのです。 ”20『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』”

『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』との預言は、単にユダという一個人が問題を指しているというだけではないと思われます。ユダは旧約のユダ国に通じ、そしてこの国は、新約の時代の新教、プロテスタント教会の予表です。

彼の住まい=家=教会をさします。ですから、終末の日にこの方を裏切り、偽りを述べる教師達の後を追っていくプロテスタント教会「荒れ果て」、「そこには住む者がいなくな」ることを預言しているのです。

また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』とこの教会が神から与えられた職、勤めから外されていくことが述べられているのです。

ユダ、プロテスタント教会は神の働きをになってきました。世界宣教も彼らを通して進んできたのです。しかし、終末の日、この教会はこの「勤め」から落ちていきます。
他の教会がこの勤めをになうようになるのです。
まさかと思うかもしれませんが、しかし、神がそう語られたなら、このことは実現します。

”21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、
22 すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」”

ここでユダ以外の他の者が「イエスの復活の証人」として立てられます。プロテスタントは復活の証人というより、「生きているとされているが、実は死んでいる」者であり、罪の中で死んでいくようになり、
「復活の証人」にはふさわしくなくなります。その日、ふさわしい教会が立つようになるでしょう。

”23 そこで、彼らは、バルサバ(なぐさめの子)と呼ばれ別名をユストというヨセフ(彼を加える)と、マッテヤ(神のたまもの)とのふたりを立てた。”

その日、プロテスタントの代わりに神が選ぶ教会は、神を「なぐさめ」ます。それゆえ、彼は現在の教会に「加え」られます。この教会には、「神のたまもの」があるでしょう。

”24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。
25 この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」”

この日、ユダに任されていた務めは、他の者へと渡されました。同じように、終末の日に、プロテスタント教会に任されていた神の務めは、他の者へと渡されることでしょう。

どんな勤めでもそうでしょうが、神の務めをになう者には、資格があるといえます。
腰がよぼよぼになって歩けなくなれば、新聞配達はできないでしょうし、目がかすんで見えなくなれば、飛行機の操縦は無理です。
同じ意味あいで、神の勤めには、厳然とした基準、資格があることを知るべきです。
「進化論は正しい」(創世記は嘘話)などという人、神の霊と獣の霊との区別がつかなくなった盲人は
この勤めにふさわしくないということになってしまいます。

”26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加
えられた。”

この時、くじはマッテヤにあたりました。そして、彼が使徒に加えられたのです。
くじはどうも他の箇所を参照すると殉教と関係することばのようです。
ですから、この「後から加えられた働き人」、終末の教会は、殉教と関係のある教会かもしれません。

殉教とは、今のこの世にすっかりついた教会では、忌避され、極端とされることばですが、イザヤを始
めとする旧約の預言者達、ペテロ、パウロ等の聖徒達が歩んだ道です。

「私のために自分の命を捨てるものはこれを得る」といわれた方のことばを思い出しましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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