7日目、教会時代の最後の日々は、教会には啓示も正しい御言葉のメッセージもなくなる日。

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NO.441 安息日にパンを集める

テキスト:”出エジプト16:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
30 それで、民は七日目に休んだ。”
 

本日は、安息日にパンを集める」という題でメッセージをします。かつての日、主は出エジプトした民に対して、7日目、安息日にパンを集めてはいけないと語りました。このことに関して語られていることがらを見ていきたいと思います。

テキストを順に見ます。

”22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、”

このパンとは天から降ってきたパン、マナに関することがらです。出エジプトの日、パンは天から降ってきました。それは、特別な方法で入手されました。何故パンが天から降ってきたのか?それは、一つには神が奇跡の神であることを知らせるため、しかし、それだけではなく、このパンというものに関する教えを我々に与えるためです。パンとはもちろん、今でいうみことばのことであり、もっと教会に関連して詳しくいうなら、それは、私達が毎週受ける、みことばに関するメッセージをさします。

聖書は明らかにパン、マナ、メッセージは天から来ることを教えています。今では悲しいかな勘違いしている牧師、教師、メッセンジャーが多いようで、メッセージは注解書や、トラの巻やら、古今のメッセージ集やら、万巻の書から来ると思っている人が多いです。マナは創世記のみでなく、終わりの書、黙示録にも記されています。

”黙示録2:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。”

ですから、メッセージ、パン、マナは天から来るものであり、降るものであること、それは聖書全巻を通した常識の中の常識、基本の基本の知識であることを覚えてください。
愚かな現代の勘違い教師どものたわごと、人間中心の考えに惑わされてはいけません。

”六日目には、彼らは二倍のパン”

1週間は7日間であり、この六日目とは第一義的には、6日目である土曜日をさします。
しかし、我々はそれにとどまらず、聖書はたとえの書なので、もう一つの意味あい、たとえの意味あいをも理解したいのです。聖書は1000年は一日のごとくと述べています。すなわち6日目とは6つのミレニアム、アダム以来6000年の間をさすと理解することは正しく、また聖書的な解釈です。


さて、ここで神は6日目すなわち6つ目のミレニアムには通常の時代と異なり、大変な祝福、すなわち2倍のパンを与える、降らせることがかたられています。具体的には、このミレニアムは特別な祝福の時期であり、多くの天的なメッセージ、素晴らしい聖書解釈、霊的な器、聖徒を排出する時代であることを聖書は語っているのです。今、私達は7つ目のミレニアムにいますが、過去1000年、6つ目のミレニアムはそういう時であると聖書は語っているのです。これは事実と合っているのか?


明らかにこれは、事実と符合しています。プロテスタントカソリックを問わず、過去の時代には、ルターを始め、確かに素晴らしいキリスト教のメッセンジヤー、働き手が現れました。

”23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」”

さて、ここでモーセは7日目が当別な日、非常に特別な日であることを語っています。
この日が特別であるいくつもの特徴がありますが、パンに関していうなら、この日は、何とマナが降らない、パンがなくなる日なのです。

パンがなければどうなるのか?もちろん、朝、昼、晩の食事に困ります。それでは、どうすれば良いのか?モーセの答え、また聖書の答えは、6日目のパンを保存しておけ、とっておけというものなのです。

さあどうぞこの箇所をよく理解してください。
ここでは、何げにしかし、非常に大事な警告、注意が書かれていることをよくよく理解してください。

それは、
1.)7日目には、パンが降らないこと
2.) だから、6日目のパンを保存しておくことこの2点が書かれているのです。

これを守らない人は7日目には、パンなし、そして飢えるようになるでしょう。

これを私達の時代にあわせていうなら、
1)7つ目のミレニアムには、パン、マナすなわち、神からの啓示にもとづくメッセージはもう教会には与えられない。

2) だから、私達、7つめのミレニアムにいる私達はもうこれからの教会、堕落してエジプト化した教会ではなく、かつての過去のキリスト教会の顕然なメッセージにより頼むべきである。

その様に理解できます。

”24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。”

なま物は、あまり日数を置くとすぐに腐ったり、虫がわいたりします。食べられなくなるのです。驚くべきことには、パン、天からのパン、マナも同じく日もちはしない、次の日には、臭くなり、うじがわくことが書いてあります。これは驚くべきことがですが、しかし、事実、その様に書かれています。


それで、我々は知るべきです。神が教会にパンを与え天的なメッセージを与えるが、しかし、それには時代的な制限があること、次の時代にはもう用いることができないこと、それを神は語っているということです。
神のことばに変化があるといっているのではありません。かつての日のメッセージ、たとえばモーセの時代のメッセージは次の時代には、もう食べることができないものとなるのです。この件はまた別途。

しかし、例外の日があり、6日目のメッセージは7日でも用いることができるとここではのべています。だから、我々は進んで、また積極的に過去のキリスト教会のすばらしいメッセージを保存し、用いることに意を用いるべきです。

嘘つきピーターワグナー達のたわごと、パラダイムシフト トランスフオーメーションニュースイングだの、もう古いものは捨て去り、新しい教えに従う人が正しいなどとの嘘についていくべきではありません。またアメリカ神学校の怪しい教理を吟味もなく受け売りする愚かな日本の牧師の後をついていくべきではありません。

”25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」”

聖書は明らかに1週間の最後の日、7日目には、パンが降らないことを語っています。
7日目はまた7つの教会時代の最後とも関連するでしょうし、ダニエルのいう70週とも関連するかもしれません。何をいっているのかというと、聖書は7日目について書く時、実は世の終わり、終末の日について隠されたことがらを語っているとも理解できるといっているのです。聖書は何気ないことばの中に恐るべき意味あいを秘めることの多い書です。


そして、その書が実は、7日目、教会時代の最後の日々とは、何と教会には、もうパンの降らない時代、啓示も正しいみことばのメッセージもなくなる日であると暗示しているのだということをくり返していいますが、どうぞ覚えてください。7日目にはもうパンは降らないと神は語り、そして悲しいことには、我々はもうすでに7日目にいるのです。ですから、我々のすべきことは、もうこれからは、キリスト教会にはパンもマナもないのだということ、これからパンらしく見えるがしかし、実際はパンではないもの、パンもどきしかないのだということを知ることです。

そう思ってたとえば、キリスト教書店を見れば、新しく出る本は、オカルトまがいの本、魔術の原則をキリスト教の看板をつけて売っているもの等、たしかにパンではないものが多くなっています。

”27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。”

ある者は7日目に集めたけれど、何もなかったこと、それをモーセが私の教えを守らないといって怒ったことが書いてあります。これは暗示的です。ここでいわれていることは、7日目に集める者とモーセの教えを守らないことが関係あるかの様に書かれていることです。
そして、これらはおそらく関係あると思われます。
私達が7日目、すなわちこれから始まる新しいミレニアムで集めることのできるもの、パンらしきもの、それは、モーセの教え、すなわち、聖書の律法を守らず、破ることを教えるものとなることが暗示されるように思えるのです。

そんなばかなと思うかも知れませんが、それらしい兆候はすでに見えています。フェミニスト神学、エコロジー神学、同性愛養護神学等の影響で聖書は曲げられ、聖書翻訳は改ざんされ、もう教会はことばは神であるという方の教えを守ることより、人間的な理屈、考えを優先して、この方を冒涜し、教えを曲げることに力を入れています。
確かに「「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。」との
モーセの怒りはこの日、7日目と関係があるのです。

”29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
30 それで、民は七日目に休んだ。”

”七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。”とその日には、自分の場所を出るべきでないことが書かれています。このことも偶然に書かれたのでなく、7日目ならではの教えであることを覚えてください。
神は他の日には、そうは命じず、しかし、7日目に関しては、自分の場所にとどまることを命じています。このことには隠れた意味があるのだと想像できます。


先生は砂漠のまん中では、水に入ってはいけません、溺れるからとはいいません。見渡す限り、砂ばかりの場所で溺れる子供はいないからです。しかし、これが変わって、水辺の散歩をするようになると、この注意、「水に入っていはいけません」という注意は非常に大事です。

聖書の教え、律法も同じ性質のものであり、必要のないところには書かれず、必要な場所、必要な時期あてにこれらの戒めは書かれたのだということを理解すべきです。
神は1日から6日までに関しては、パンが降らないことも語りませんでした。しかし、7日目にはそう語りました。この日が特別な日であることが大いに理解できるのです。さらにこの日は特別であり、この日に関しては、


仕事をするな(行いをするな)
この日を聖とせよ
とも書かれています。
逆接的にいうなら、この日、7日目とは、実は「行いが強調される日」「冒涜の日」であることが想像できるのです。

聖書の他の箇所には、律法がそれを守る人のためというより、守らない不従順な人のために与えられたことが書かれています。
ですから、安息日に関する戒めはこの7日目において、神を冒涜し、行いを強調し、また「パンが降らない日」にパンを求める愚かな人々向けに書かれたことが理解できるのです。


7日目、安息日とは、他の日と異なり、これらの特別な戒めが必要な日であり、これは、他の日と異なり、冒涜と不従順と神の戒めを破ることがまんえんする日となるのでしょう。結論として、安息日に関する戒めは逆接的なものであり、この日、7つ目のミレニアムはすばらしい1000年王国どころか、冒涜と偽りと偽教理がまんえんする恐るべき時代になることをとりあえずは理解してください。ユダヤの嘘つきども、 ピーターワグナーやシンデイージェーコブスなど、第3の波系のほら話に惑わされて時代のみわけを間違えてはいけません。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー


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