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通算No.126 ハルマゲドンの戦い

 

テキスト:” 黙16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 

13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。


15 ♦︎見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。♦︎


16 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。


17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。


18 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。

 

19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

 

20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。

 

21 また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。”
 

本日は「ハルマゲドンの戦い」という題でメッセージしたいと思います。
 

黙示録には終末の時には、全世界の王がハルマゲドンという地に集まり、戦いをするということが述べられています。これは何をさすものでしょうか。見ていきたいと思います。 

まず、この箇所の解釈に際して気をつけなければならないことがあります。それは以下の2つです。

 

1) 黙示録はたとえの書だということを銘記すること。今の時代はたとえをとくことを求める人が少ない時代です。しかし、黙示録には我々の想像以上に多くのたとえが使われています。それで、たとえをとくことに熱心でないと正しい理解には至りません 。

 

2) そのテキストのみから考えず、他の箇所を参照すること。これは、ペテロの手紙のいわゆる”私的解釈”と訳されている箇所に述べられている通りです。
 

つけやきばということばがあります。良いといわれることでも、習慣化しないとなかなか身についたとは、 いえないのです。そして、習慣化していないことは、急の時には実行できないものなのです。私的解釈といわれることに関してもおなじことがいえます。このことばの原意は”預言はそれ自身で解釈しない”
すなわち、該当テキストのみでなく、他の箇所も参照しろということをいっているのです。しかし、それが身についていないとつい他の箇所を参照せず、そのテキストのみで考えたくなるものなのです。しかし 、この大原則を無視して解釈していく時、それは、空想や人間的な解釈に入って行ってしまうのです。
 

 

しかし、私たちは、聖書のいう解釈方法、すなわち私的解釈でない、それ自身のテキストのみでなく、他の箇所をも参照して解釈して行きたいと思います。

それはこういうことです。例えば、ハルマゲドン、すなわち”メギドの丘”ということばがでてきたら、全聖書の中で書かれている、メギドに関する記述を参照すべきなのです。 

また、”偽預言者、霊が惑わす”と書いてあるなら、他の聖書箇所でそのような箇所がないかどうか参照すべきなのです。 

また、王が惑わされて戦いに出ると書いてあるなら、聖書の中に、他にもそのような箇所がないかどうか参照すべきなのです。 

この作業を怠ってはいけません。神は聖書をそもそもそのように書かれたので、このように”私的解釈” をせず、他の箇所をも忠実に見ていく時、少しずつみことばは開けてくるのです。
 

 

テキストに沿ってみていきたいと思います 。

”13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。”
 

”神の大いなる日”とは、終末の裁きの日のことです。この日に関して、神の民はその用意をするようにエゼキエル書に記されています。
 

エゼキエル書 13:5 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。”
 

この裁きの日のために3つの汚れた霊が、世界中の王を集めるのです。これはこの王達を裁くためです。
さて、ここに記されているのと似た記事、すなわち悪い霊によって王たちが惑わされて戦いに出ていき、その結果として、王が死ぬということが、歴代史に記されています。これは、このハルマゲドンの記事を理解するヒントになります。
 

”2歴18:18 すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。


19 そのとき、主は仰せられました。『だれか、イスラエルの王アハブを惑わして、攻め上らせ、 ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、ある者は一つの案を述べ、他の者は別の案を述べました。


20 それから、ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。


21 彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。


22 今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」
ーーー


34 その日、戦いはますます激しくなった。イスラエルの王はアラムに向かって、夕方まで戦車の中に立っていたが、日没のころになって死んだ。”
 

ここでハルマゲドンの時と同じように、、”霊と偽預言者と王”という3種類の登場人物が出てきます。
どちらの時も王は霊に惑わされ、戦いに出ていきます。黙示録にはその戦いの結果は記載されていませんが、このアハブ王の記事から類推すると、ハルマゲドンの時も王たちが戦いに破れ、死ぬことが想像されます。彼等は敗北するのです。それは、神の裁きでもあります。

アハブ王の時には、400人の預言者が同じ一つの霊に惑わされ、あたかも一つの口のように同じことを語りました。それで、アハブ王はすっかりその気になって戦いに出ていったのです。同じように終末の時代にも多くの預言者の口の上に同じ惑わす霊のことばが与えられます。それで彼等は一人のように間違えるのです。
 
 

さて、ここで使われている”王たち”とは何をさすことばでしょう。これは、アハブ、ヨシャパテの記事からもわかるように、神の民の王、今でいえば、教会の指導者達をさすことばです。ですから、ハルマゲドンの戦いは終末の神の民の王の裁きについて書いてある箇所なのです。 

旧約聖書に書かれているアハブ王やヨシャパテ王が新約の我々と何の関係があるのかと思う人がいるかもしれません。しかし、旧約の彼等の記事は今の教会時代の我々に対する教訓、教えとして書かれたものなのです。以下の7つの教会へのことばを見て下さい。
 

”黙2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。” 

 

ヨハネの黙示録 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。”

 

旧約の王であるバラク、またアハブ王の妻であるイゼベルのことが7つの教会へのメッセージの中で引用されていることがわかります。ですから、旧約の彼等の記事の中には新約の我々に対する教えが含まれており、警告、教訓が含まれているのです。

また、ペテロの手紙ではクリスチャンを王として規定しています。

 

”ペテロの手紙第一 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。”
 

ですから、ハルマゲドンの時、集められた王達は、神の民の王をさしている可能性があるのです。 

さて次の節を見ていきます。
 

”15 ♦︎見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。♦︎”
 

ここで主の再臨について書いてあります。これは以下の記事と似ています。
 

ヨハネの黙示録 3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”
 

この時は神の民の王達が霊により惑わされ、滅びの中に入っていく時です。あたかも霊により惑わされた多くの偽預言者のことばに聞き入り、そして、戦いの中で傷つき、命を落としていったアハブ王のように、多くの神の民の王が惑わされるでしょう。そして、この時に主の再臨があるのです。
 

”16 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。”
 

ハルマゲドンとは”メギドの丘”という意味です。メギドという地名は何度か旧約聖書に出てきます。そして、興味深いことは、何人かの王がこの地で戦いに倒れているのです。この事実は、ハルマゲドンということばを理解するヒントです。以下に2つの箇所をあげます。
 

1)”2列9:22 ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」

 

23 それでヨラムは手綱を返して逃げ、アハズヤに、「アハズヤ。悪巧みだ。」と叫んだ。

 

24 エフーは弓を力いっぱい引き絞り、ヨラムの両肩の間を射た。矢は彼の心臓を射抜いたので、彼は車の中にくずおれた。


25 エフーは侍従のビデカルに命じた。「これを運んで行き、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブのあとに並んで従って行ったとき、主が彼にこの宣告を下されたことを思い出すがよい。


26 『わたしは、きのう、ナボテの血とその子らの血とを確かに見届けた。♦︎主の御告げだ♦︎わたしは、この地所であなたに報復する。♦︎主の御告げだ♦︎』それで今、彼を運んで行って、主のことばのとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」

 

27 ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハガンの道へ逃げた。エフーはそのあとを追いかけて、「あいつも打ち取れ。」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。

 

28 彼の家来たちは彼を車に載せて、エルサレムに運び、ダビデの町の彼の墓に先祖たちといっしょに葬った。”

 

この箇所を見ていきます。
 

”24エフーは弓を力いっぱい引き絞り、ヨラムの両肩の間を射た。矢は彼の心臓を射抜いたので、彼は車の中にくずおれた。”

 

ここでイスラエルの王ヨラムが殺されたことが記されています。これは裁きです。その理由について以下のように述べられています。

 

”25 エフーは侍従のビデカルに命じた。「これを運んで行き、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブのあとに並んで従って行ったとき、主が彼にこの宣告を下されたことを思い出すがよい。


26 『わたしは、きのう、ナボテの血とその子らの血とを確かに見届けた。♦︎主の御告げだ♦︎わたしは、この地所であなたに報復する。♦︎主の御告げだ♦︎』それで今、彼を運んで行って、主のことばのとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」”

 

ナボテは自分の先祖のゆずりの地を売り渡すことを拒んで殺された神の民であり、これは、捕え移された民ーバビロンとは対象的な民です。ナボテとは”果実”という意味であり、聖霊の実を結ぶ神の民を象徴的にあらわしたものと思われます。彼は終末に殉教する”油注がれた者”の予表です。彼の血について主は”わたしは、きのう、ナボテの血とその子らの血とを確かに見届けた。”と言われます。”その子らの血”とは終末に流されるナボテの子らの血のことです。この殉教者の血について、神は”わたしは、この地所であなたに報復する。”といわれます。ですから、聖霊の油注ぎを受けた殉教者の血が彼等を死に至らせた神の民、王の上に下るといっているのです。

 

 

”27 ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハガンの道へ逃げた。エフーはそのあとを追いかけて、「あいつも打ち取れ。」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。

 

そしてユダの王アハズヤもエフーによりメギドで殺されています。これも裁きの予表です。メギドはハルマゲドンに通じます。終末のさばきと関係があるのです。

 

2)”2列23:25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。


26 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

 

27 主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」


28 ヨシヤのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。


29 彼の時代に、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。


30 ヨシヤの家来たちは、彼の死体を戦車にのせ、メギドからエルサレムに運んで来て、彼の墓に葬った。この国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで、彼に油をそそぎ、彼の父に代えて、彼を王とした。

 

2歴35:25 エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。そして、男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシヤのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。これらは哀歌にまさしくしるされている。”

 

 

ユダのヨシヤ王もメギドで殺されています。このことを順に見ていきましょう。

 

”25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。”
 

ヨシュアはメギドで殺されます。彼も、ハルマゲドンの時に裁かれる王の一つの予表です。しかし、彼については、”ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。”と書いてあるのです。

 

何故このようなすばらしい王がメギドで殺されるようなことになったのでしょうか。考えてみましょう。
聖書の中では、イスラエルの王の歴史が歴代、列王の書に記されています。この歴史の記述をどのように解釈すべきかは人によってとらえかたが異なると思います。私の考えをいわせていただけるなら、私はこれは、教会時代の歴史の予表ではないかと思っています。

もしこれらの歴史が教会時代の予表なら、ヨシヤ王の時はいつに相当するのでしょう。”主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。”と書いてあります。私はこれは教会時代にかつてなく、また今後もないようなリバイバルの時をさすのではないかと思います。

 

 

”26 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。”
 

しかし、主はマナセの行いのために、ユダへの怒りを静めようとしなかったと書いてあります。マナセの”あのいらだたしい行ない”とは何のことでしょう。それは、このように書かれています。
 

”2列21:16 マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行なわせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。”
 

マナセとは忘れるという意味です。神の恵を忘れる者、時代をさすのでしょう。そして、彼は”罪のない者の血まで多量に流し”たと書いてあります。これも、終末の日に流される殉教者の予表です。”それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。”とあります。これは、終末の日に各地の教会で流される殉教者の血のことをさすと思えます。
 

”27 主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。
わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」”
 

”わたしの前から移す”とは先祖からゆずられた約束の地から移されることです。また、神の契約から外されることです。これは、教会時代の歴史にあてはめるなら、黙示録のバビロンのことをさします。

 

”29 彼の時代に、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。”
 

ここで、ヨシヤ王はパロネコによりメギドで殺されます。このことを通して神は何を我々に語ろうとしているのでしょう。もしヨシヤの時代が終末のリバイバルの時代の型ならこういうことをさすのではないかと思います。

すなわち、終末のリバイバルで主に立ち返った多くの民も結局はこの世に戻り、そしてメギドにおける裁き、すなわち終末のハルマゲドンにおける裁きに入っていってしまう、そのことを予表するように思えます。

 

”2歴35:25 エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。そして、男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシヤのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。これらは哀歌にまさしくしるされている。”
 

エレミヤの哀歌はヨシヤのことを歌っているのです。哀歌にはエルサレムの裁きのことが書いてあります。このことは終末にあてはめると次のことをさします。ヨシヤ、すなわちリバイバルの世代こそ、後に終末のさばきにあう世代なのです。

 

さて、黙示録の次の節を見ていきます。

 

”17 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。”
 

さて、この節以降、このハルマゲドンの王達に関する記述は黙示録にはありません。彼等は一体どうなったのでしょう。その戦いの結末はどうなったのでしょう。表面的に考えれば、わかりません。しかし、実は、この黙示録には、その結果が暗示されているのです。ハルマゲドン以降の節はこの結末を別の表現で暗示した箇所なのです。ここで、「事は成就した。」と書かれています。神のさばきはなされたのです。
また以下の節を見て下さい。
 

”18 すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。”
 

ここで、”いなずまと声と雷鳴”があったことが記されています。これは、神のさばきです。
た、地震については、ヘブル書に記されています。

 

”ヘブル人への手紙 12:25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

 

26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」


27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。”
 

ここでは、”警告を与えた方を拒んだ”神の民の裁きと関連して”地を揺り動か”すー地震について記されています。ですから、黙示録の”大きな地震も警告を与えた方ー聖霊の声を拒む神の民への裁きであることがわかります。

ですから、聖書はハルマゲドンの王達の結末について記す代わりに”いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった”ことを記しているのです。そして、これらのことばはハルマゲドンの王達の結末ー裁きを暗示するものなのです。

 

”19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

 

ここで、”大きな都は三つに裂かれ”たことが記されています。都は教会をさすたとえとしてよく用いられます。ですから、これは終末の日に神の民が分けられていくことのたとえかもしれません。このことに関して詩篇には、このように預言されています。
 

詩篇 22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。”

また、大バビロンが”神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた”ことが記されています。これも神の民への裁きを記したものです。ですから、ハルマゲドンの戦いの結末は、また別のことばでいえば、都が3つに盛れることであり、大バビロンへの裁きであることがわかります。ですから、これらの王達は別の表現でいえば、大バビロンのことをさすのです。

 

”20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。”

 

山は教会をさします。それが見えなくなるとは、要するに消滅するということです。ヒトラーユダヤ人の絶滅を政策にとなえて登場し、政権獲得後、それを文字通り、実行しました。終末の反キリストも同じことをするのでしょう。彼は教会を”絶滅”するのです。

 

”21 また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。”

 

ここで、雹が降ってきたことがわかります。これは、以下の出エジプト記の記事と似ていま
す。

 

”出9:24 雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。


25 雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。


26 ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。”

 

この時の雹はエジプト全土を打ちました。しかし、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった”ことがわかります。ですから、黙示録の時の雹もあくまで、エジプトーこの世についた神の民への裁きなのです。逆にイスラエル人ー真の神の民にはその雹ーさばきは下りません。

 

終末における主のみこころを行っていきましょう。

 

ー以上ー

 


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