足のちりを払う

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通算No.125 足のちりを払う

 

テキスト:”マタイ10:5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。


6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。


7 行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。


8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。


9 胴巻きに金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

 

10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

 

11 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

 

12 その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

 

13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

 

14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。

 

15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。”
 

本日は”足のちりを払う”という題で、終末の弟子の働きについて学んでいきたいと思います。

テキストの箇所は主が12弟子を遣わす箇所です。ですから、ここで書かれているイエスのことばは第一義的には12弟子にあてたものです。しかし、これらのことばはそれにとどまらず、先の時代、終末の時代をも念頭においたことばではないかと思えます。何故そういえるのでしょう。それは、以下のようにこの箇所に終末と関係のあることばが含まれているからです。
 

”15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。”

さばきの日とはいつのことでしょう。12弟子の時のことではありません。逆に終末の日のことなのです。ですから、これらのことばは12弟子にあてたと,ともにそのすえである終末の弟子たちにあてて語られたことばでもあるように思えるのです。
テキストに沿って見ていきたいと思います。
 

”5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。

異邦人の道とは今で言えば、未信者の道です。未信者、サマリヤ人の町に行くな、逆に神の民、イスラエルの人々への働きに集中するようにと述べられています。
 

”6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。”
 

イスラエルの家とは何でしょう。これは神の民のことです。聖書を読み、異邦人とは異なり、神を信じている民です。しかし、その神の民に滅びた羊ー滅びの中を歩む者があると主はいわれるのです。
 

今も同じではないでしょうか。神を知っており、祈り、聖書を読み、多くの祝福を受けているはずなのに、実際は神の裁きの前に滅びようとしている多くの羊がいるのです。ですから、主はその弟子達に神の民への働きを第一にするように、言われているのです。

何故でしょうか。それは、さばきが近いからです。多くの神の民は、このままでは患難時代の試みを通過できず、滅びていってしまうからです。そうです、滅びてしまうのです。これが、イスラエルの家の滅びた羊”と書かれている理由です。
 

 

”8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。”

 

12弟子は、病人を直し、死人を生き変えらせるように語られています。肉体上の病をいやす働きについて述べられているのです。イスラエル、神の民の中に病人、死人、らい病人、悪霊につかれた人があり、それらをいやすように12弟子たちに主は語られたのです。終末の弟子にも同じように神の民の肉体上のいやし、しるし、不思議をともなうカリスマ的な働きをすることが大事です。
 

しかし、それとともにこの箇所はもう1種類のことをたとえで語っているように思えます。それは、今の時代、終末の時代には、肉体の病に限らず、霊的な病に悩む、神の民が多いからです。すなわち、霊的に病気であったり、罪の中に死んだ歩みをしていたり、霊的ならい病人であったり、または悪霊の影響を受けている神の民が多くいるのです。彼等はそれらの霊的な病をいやされ、悪霊の影響から解放されない限り、今来ようとしている再臨の主の前に正しく立つことができません。それで、神は主の弟
子がそれらの人々をいやし、解放するためにと遣わされようとしているのです。

 

 

”11 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。”

 

町、村、家は教会をさすたとえです。弟子が遣わされたいった時は、一つの教会にとどまって福音、解放を伝え、神のわざをなせということです。
 

”12 その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。


13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。”
 

平安とはおそらく聖霊をたとえたことばです。聖霊に関して聖書は色々なたとえを用いて表現しています。すなわち、水、鳩、炎、油、等です。水はクリスチャンに命を与える聖霊の働きをあらわします。同じように平安とは、神の聖霊の性格的な面を語るたとえではないかと思います。
 

もし、そうなら何をこの節は語っているのでしょう。語っていることはこういうことです。もしその教会が、聖霊を受けるにふさわしい教会なら受けるでしょうし、もしそうでないなら、その聖霊は働き人に戻ってくるということです。今、EUでは、聖霊を受け入れる教会とそうでない教会との区分がはっきりとなされつつあります。

 

”14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。”
 

神のさばきの終末の日が近づいています。その前の最後のリバイバルが、今起きようとしており、弟子たちが”神の民”に遣わされようとしています。しかし、全ての教会が主の弟子たちの声に耳を傾けるとは限りません。逆に迫害されたり、いやな目にあうかもしれません。その時には他の教会へ行くよう語っているのです。
 

”15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。”
 

今、12弟子のすえ、最後の弟子たちがイスラエルの家、すなわち神の教会へ遣わされようとしています。彼等は世の人、またこの世についた神の民にはカルト、セクト、またはベルゼブルとさえいわれるかもしれません。しかし、これらの人々こそ、神が終末にたてた弟子であり、預言者なのです。
もし、今この時、これらの人々の声に耳を傾けないなら、”さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町(教会)よりはまだ罰が軽いのです。”
 

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
 

ー以上ー

 

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