NO.514 眠る
”テキスト:ルカ8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
51 イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。
52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。
54 しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。
56 両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。”
本日は「眠る」という題でメッセージをしたいと思います。かつて主が少女を復活させたことがらから学びたいと願っているのです。
"49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」"
会堂管理者は娘がいやされることを願っていたのですが、残念ながら、娘はイエスが家につく前に亡くなってしまいました。
死んでしまった: このことをどう考えればいいのでしょう?
我々の普通の考えでは、もうものごとはおしまい、ゲームエンド、何のてだてもない:そんな
結論になります。
"50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」”
しかし、主にあってはこれは、死は終わりでなく、エンドゲームでもありませんでした。
”51 イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。
52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」 ”
さて、娘のもとへ来た主はこの死んだ娘に関して、死んだのではなく、眠っているのだといいました。さてこのことは不思議です。何故なら、娘は実際、肉体的に死んでいたからです。死んだ人を見たことがありますか?私は何度かあります。死んだ人の体は生きている人のものとは全く異なり、まるで石か置き物の様に硬直し、間違えようがありません。
うかつな人や早とちりの人ならともかく、主イエスともあろう方が何故間違ったのか?もしくは、何故違ったことをいったのでしょうか?そのことを考えてみたいと思うのです。実は聖書は、他でも死んだ人をさし、「眠る」と表現しています。
以下の箇所がそれです。
”ヨハネ11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。 ”
この箇所では明らかに主は死んでいる人をさし、あえて「眠る」と表現していることを見るのです。主は間違えたのでなく、あえてそういわれているのです。さて、それは何故なのでしょう?もう一箇所、眠るということを見てみましょう。
”1テサロニケ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。”
この箇所を見るとき、主が何故、聖徒の死を眠ると表現するのかわかるような気がします。
この箇所では、終末の日、主が再臨する頃、死ぬ人々、おそらく殉教する人々のことについて書いてあります。彼等の死について同じく「眠る」という表現が使われています。死んだ少女や、ラザロの死に対して使われた「眠る」という表現が使われているのです。これにより、私達は理解できるのです。
終末の日の殉教やら、主にあって、肉の命を失うということがどの様なことなのかを。それは、聖徒の死は、眠ること、居眠りしたり、ベッドで一晩寝て次の日、すぐ目がさめて起き上がることと同じ様なものであり、必ず起きること、復活すること、命を得ることが伴っているのだということを教えるためと思われます。
終末の日、私達はよしんば主のために肉の命の危険があっても、もしくはそれを失うことがあっても、それは深刻なこと悲しむこと、大騒ぎすることでもなく、ひと眠りしたに過ぎず、一晩寝たに過ぎず、いずれは心配しなくても必ず起きてくる、そう語っているように思えるのです。
”53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。”
彼等はイエスをあざわらいました。人が死んだことを眠るだなどという、こいつは何にもわかっていない愚か者だというわけなのでしょう。さて、今さらながら、死ぬということばと眠るということばはどう違うのか考えてみましょう。
死ぬ:人生、命の終わり、二度と命を得ることはない、再び起きたり、歩いたりしない。
眠る:横になっているし、動かないが、それで人生が終わったわけでなく、明日の朝になれば、目をさまし、再び起き上がり、歩き始める。生が続いている。
こんなことでしょうか。
”54 しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。
56 両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。”
死んでいた娘は人の子、イエスの声に従い、起き上がりました。彼女はあたかも短いひと眠りから目がさめるように起き上がったのです。
それで、確かに聖徒の死は、上記「死ぬ」ということばより、「眠る」と表現する方が適切であることが理解できるのです。この少女に関しては、主のいわれた「ねむる」ということばの方が適切だったのです。
そしてそれは終末の日に主のために命を失う人々についても同じことだということを知りましょう。彼等も眠ったに過ぎないのです。時代は変わり、気付こうと気付くまいと、全く違う時代へ入ってきてしまったことを知ってください。かつての未来のこと、先のことだった、主のために命を失う、みことばに堅く留まったために命を失うということが現実味を帯びた時代にもうすでに私達は入って来ているように思えます。
そう殉教のことをいっているのです。日本の社会も政治もすでに別の時代に入っています。永久戦争放棄なんてことばが以前ありましたが、もうそんなことばには何の意味もありません。すでに、日本は他国に軍隊を送り、武器を持ち込んで、占領の手伝いを行っています。イラクのことを言っています。いつ他黒人を殺してもおかしくない状態なのです。ある人、J君が凶悪な強盗殺人犯人A君の見張りを行ったとして、またその強盗の人殺しの道具、ピストルやナイフを運ぶのを手伝ったとして、彼は罪に問われないでしょうか?
たとえ、彼が自分は無実だといいはったとしても裁判官は彼を罪に問わないでしょうか?もちろん、彼、J君は共犯者としての罪に問われます。いそいそとアメリカのイラク人殺害の罪に加わった日本はもう既に殺人の罪に荷担し、共犯者の一人に名前を列ねているのです。彼は殺人の罪に関して全く無罪ではありません。社会や政治と同じく、キリスト教会も変質の一途、背教化の一途を辿っています。ダビンチコード、死海文書をもとにした偽り、また聖書翻訳かいざんなどすさまじいいきおいでゆるがしと背教が広がっています。
また、角笛の記事にあるように聖霊の第三の波系の教理はどうどうと、彼等の教えに従わない人々を粛正、削除、迫害することを公言しています。ですから、主に堅くつき、みことばに堅くつこうとした時、私達はその代価として、自分の肉体の命の危険がある、それを失ってでも堅く主につくのか否か、そのことを真剣に考えるべきなのです。その時がもうすでに来つつあります。
「すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。」
ここで娘が「起き上がった」と訳されたことばは主の「復活」について使われていることばと
同じです。ですから、ここでいわれていることは、いわゆる後の日、主の再臨の時の聖徒の復活の型について語られているのです。
この時、この死んだ娘に関して主が命じた時娘の霊は戻って来て、そして娘の体は生き返りました。確かにこれは後の日の聖徒の復活の型と思われます。後の日にも、主にあって死んだ人々、その中には殉教者もいるのでしょうが、それらの人々に関して、主が命じます。すると、彼等の霊も戻ってきます。そして蘇るのです。
かつての日、死んだ少女の霊に関して命じた時、彼女の霊は戻ってきて、彼女は死から蘇りました。まるで一眠りして起きたように蘇ってしまったのです。同じことが世の終わりにおきます。その日、再臨の主は主にあって死んだ人々の霊に命じます。すると彼等の霊は戻ってきて復活するのです。まるで眠りからさめたように。これらの話、ことがらには矛盾はなく、難しいことも何もありません。
ただ、不信仰なもの、キリストのことばなんか本気にしない人には信じられないという問題があるだけです。しかし、私達主につくものはこれらの聖書のことば、たとえ私達が肉体の命を失ったとしてもそれは、眠ったにすぎない、ほどなくして起き上がり、復活すると聖書が語っていることを覚えましょう。
もう私達は真剣にこのことを理解すべき時にいます。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー