終末の日は、裁きの日であり、また選別、試験の日であることを見ていく。

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NO. 291 火で明らかになる日
”1コリント3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。”

本日は「火で明らかになる日」という題でメッセージしたいと思います。

終末の日は、裁きの日であり、また選別、試験の日であることを聖書は何度も何度も繰り返して語っています。そして、その選別、区分の方法は、「火」によるものだと書かれています。
本日は、そのことを見ていきたいと思います。順に見ます。

”9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。”

私たちは、「神の協力者であり、神の畑、神の建物」です。

しかし、そうであっても終末の日には、我々の上に神の裁きが行われ、義に属する者と不義に属する者達との上に、分離、区分が行われることを決して忘れてはいけません。「神の民の上には、何の裁きも行われず、クリスチャンと名がつけば、誰でも彼でも上に挙げられる」という主張は、聖書の主張と真っ向から対立する全くの空想話であることを知るべきです。

”10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。”

「しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」と書かれています。
ですから、私達は「クリスチャン」だから、全て良いわけではなく、「どのようなクリスチャン」であるかどうかで、裁きの結果が異なることを知るべきです。

”11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 ”

私たちの土台は、イエス・キリストです。

”12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

さて、終末の日は、「火」の日であることを聖書は語っています。この「火」とは、来世の
「地獄の火」ということではなく、「世の終わり」、すなわち、一続きのこの現在の歴史の終わり頃、キリスト教的に表現するなら、教会時代の終わりに起きてくる、「火」について語っているのです。
この「火」とは、ペンテコステの日に下った聖霊「火」として表現されているように、「霊」のたとえです。

ですから、教会時代の終わりに火、すなわち悪霊のリバイバルが起きてくることをここでも聖書は語っていることを知らなければなりません。これは、「世の終わりに毒麦は火で焼かれる」と書いてあることと符合します。また、それ以外の多くの「終末の悪霊のリバイバルについて語っている聖書箇所とも符合するのです。

さて上記箇所で、各クリスチャンの建てた家は、「金、銀、宝石、木、草、わら」等で表現されます。
これらの材料を「火」と比べるなら、「火の試練」を経ても残る家と残らない家とがあることがわかります。ある材料は燃えずに残りますが、他の材料は、火が燃え移って跡形もなくなるでしょう。そうです、あるクリスチャンの働き、歩みは「火」を経ても残り、ある人々の働き、奉仕は、「火」により燃え尽きて何も残らなくなります。

ですから、今、カリスマ、ペンテコステの教会を発端とし、福音派に向かって燃え上がっているリバイバルという結構な名前のついている「火」は、今の私たちの歩み、実質、神の前における真実をあらわすために用いられているということを覚えて下さい。

火はその材料が本当は何だったのかということをはっきりと示します。
たとえば、ストーブの火の中に木材を投げ入れます。するとほどなくして、木材は皆焼け落ちてしまいます。しかし、その木材についていた金属の釘等は焼かれずに残ります。

確かに火はその材料が実際はどういうものなのかを正直に表してしまいます。
終末の火はこの「火」が燃えさかる日であり、その中で、全てのクリスチャンの歩みがあからさまになります。

”14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。”

この火を経て残る建物は尊いのです。今、聖霊だか悪霊だか、見分けにくい紛らわしいリバイバルが横行していますが、しかし、このことは、「真に残る者」を区分するために神によって赦されて起きてきていることをとらえましょう。

この今、起きているリバイバルは恐らく、全教会を巻き込むようになるでしょう。
全ての人の真の状態を「テスト」するためです。その中で、もし私たちの行いが、木、くさ、わらに過ぎないのなら、この火により燃やされ、害を受けることを避けることはできないでしょう。しかし、この火を経てもなお、残るものにこそ神のみこころがあることをとらえましょう。

”15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。”

今の時の教会の多くの働きは、この火を経ても残ることはないでしょう。

”16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。”

さて、今迄は「火」について書かれていたのに、突然話題は変換して、「からだ」についての話に移っていきます。このことに注目して下さい。
このことは、急変です。まるで、今迄、みんなで「火事」の話をしていたのに、突然「からだ」や健康のことに話題が切り替わったかのように、突然の変化が起きています。

しかし、聖書は無秩序の本ではなく、これらのことがらには、一貫性があります。
今迄の「火」とは、実は霊のことであり、ここでいう「神の御霊」ということばと対応しているのです。
勿論、前者は悪霊、後者は神の霊です。

ですから、「木、くさ、わらの家が火で焼かれる」とは、ことばを変えれば、聖霊の宮である」我々の体に悪霊を受けるということに通じるのです。

”17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。”

ここでいう「誰か」とは他の人ではなく、我々一人一人のことです。ですから、我々の誰かが、もし悪霊の「火」を受け、結果として、聖霊の宮、神の神殿である、我々自身の体を損なうなら、その時、「神がその人を滅ぼされ」ることを知るべきです。何故なら、我々一人一人の体が、「その神殿」だからです。

ですから、繰り返して書きますが、今、リバイバルと称して起きつつある、一連のペンテコステ、カリスマ的働きには、よくよく注意しなければ、なりません。
これを通して、悪霊を受ける人は永遠に至る恥を受ける可能性があるからです。

 

終末における主のみこころ行いましょう。

 

ー以上ー 

 

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