警告の角笛を明確に吹くこと、「角笛を吹く者」の責任について

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No.225 はっきりした角笛の音(2)


テキスト:コリント人への手紙第一 14:7 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。
8 また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。
9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。
10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。
11 それで、もし私がそのことば(声)の意味(
ちから)を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。”

 

本日は、「はっきりした角笛の音(2)」として、警告の角笛を明確に吹くことについて見ていきましょう。

上記テキストに沿ってみていきます。

”7 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。”

笛や琴をひきながら、それを聞いている人が、「君が代」が演奏されているのか、はたまた、「アメリカ国歌」が弾かれているのか、ちっとも理解できない、区別できないとしたら、それは、演奏者にとって、恥ずかしいことです。

同じ意味あいで、主がはっきりと警告するよう「見張り人」に語ったのに、その角笛を聞く人が、どんな角笛が吹かれたのか、警告の笛なのか、集合の笛なのか、昼飯の合図なのか区別できないとしたら悲しいことです。

”8 また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。”

ラッパとは、「角笛」のことであり、吹かれた角笛の音がはっきりしない音であり、何を警戒すべきなのか、どこが悪いのか、どう悪いのか、聞いている人が何一つ理解していないと
すれば、それは、「角笛を吹く者」の責任なのです。「神の警告は伝えなければならない。しかし、あまり名指しで非難、警告をして嫌われたり、
攻撃されたりしたくないし、とりあえずさしつかえない程度に吹いておこう」というような角笛の音を聞いても、誰も今が戦いの時だと理解せず、結果として誰も「戦闘の準備」をしません。

こんなふうに人間のことしか考えていない、見えていないラッパ、すなわち「角笛」は何と呼ぶべきなのでしょう。
本人には、「人を傷つけない、争いをひき起こさない平和的な働き人」と見えるのでしょうが、
しかし、神の前には、「日和見ラッパ」のようなものです。

”9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。”

舌は、ヤコブ書によれば、教師のたとえです。ですから、「舌で明瞭なことばを語る」とは、
教師がはっきりとした警告を与えることについて述べているのです。彼らが果たすべき、警告の働きを果たしていないので、今の時を誰も理解せず、戦いの備えをしないのです。「空気」とは、他の箇所で、「空をうつ拳闘」ということばの中で使われています。ですから、彼らの
ことばは、まるで「空気に向かって話している」ようなものです。そのため、それを聞く人々も「空をうつ拳闘」をするようになるのです。

”10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。”

ここで「意味のないことば」と訳されている文章は、原文の意味と大部違います。
原文の意味は、「おし(音のない)の声」という意味です。

「おし」と訳されたことばは、他では以下のように使われています。

コリント人への手紙第一 12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない(おしの)偶像の所でした。

「ことば(声)」は以下のように使われています。

マタイの福音書 3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

ですから、この節の原文は、こんなふうな訳なのです。「世界にはおそらく非常に多くの種類の『声』があるでしょうが、音のない(おしの)『声』など一つもありません。」

「声」の役目は、人々に何かを語り、はっきりと理解させることです。
バプテスマのヨハネ「荒野で叫ぶ者の声」として、神に示された働きを立派になしとげました。

彼がはっきりと群集に「斧がすでに木の根元におかれている」と明確に語り、今がまさに神の裁きの直前の時だと、疑問の余地のないように、語ったので、人々は続々と悔改めてバプテスマを受けたのです。

彼が、今のわけのわからない教師達のように、「教会時代の始めからすでに終末は始まっている(?)」
などと、意味不明なたわごとを語っていたのなら、誰も荒野まで来て彼に耳を傾けようとはしないでしょう。

また、彼はパリサイ人やサドカイ人に「まむしのすえ」とはっきり語ったのです。
それで、彼らは少なくともヨハネを通して自分達への神からの警告を聞くことはできたのです。
彼らの全てが、ヨハネのきびしいことばで悔改めたわけではないでしょうが、彼らは名指しにされることにより、この警告を受け、心にとめることはできたのです。
今、このバプテスマのヨハネは、私達の回りのどこにいるのでしょう。私達の回りには、あたりさわりのない、よくいえば誰をも傷つけない、悪くいえば、毒にも薬にもならない「警告」に満ちているのではないでしょうか。

獣のリバイバルが起り、どう見てもサタニストとしか思えない「働き人」が大手をふって教会を席巻しているのに、誰も彼も口をとざし、はっきりいうことはなく、自分の評判のみを気にかけているようです。
これこそ、「おしの声」ではないでしょうか。

”11 それで、もし私がそのことば(声)の意味(ちから)を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。”

この節で「ことば」と訳されている語の原意は、「声」であり、「意味」と訳されていることばの原意は、「力」です。

それで、ここでは、「声の力」について語っていることがわかります。
そうです、声には、力があるのです。警告の声には、力があるのです。それを私達は知らなければなりません。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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