NO.508 あがなう(2)
テキスト:”レビ27:11 主へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。
12 祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。
13 もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。
14 人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。
15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。
16 人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。
17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。
18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。
19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。
20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。”
本日は「あがなう(2)」としてレビ27章からさらに見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。
”11 主へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。
12 祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。”
ここでは、汚れた家畜をささげることについて書かれています。基本的に、聖書は、汚れた家畜はささげるなと書いてあることを知りましょう。汚れた家畜とは、ひずめがわかれていなかったり、反芻をしない家畜です。今でいえば、この世と分離していない、またみことばを反芻しない、繰り返して読み、自分のものとしないクリスチャンのことをさすたとえと思われます。原則、これらの家畜は捧げるべきではありません。
今でいえば、この世と分離していない、みことばをろくに読んでいない、それどころか、自分のものとして信じてもいないクリスチャンの奉仕は受け入れられないのです。さて、原則はそうなのですが、しかし、そのような汚れた家畜であってもささげたい、今でいえば、自分はクリスチャンとしての歩みは今ひとつだけど、それでも神の前に奉仕したい、そういう申し出があったら、どうするか、そういう問題をこここでは扱っているように思えます。
「この人はまだまだこの世に染まっているように見える、原則、教会の奉仕をさせるべきではないのだが、しかし、立て上げのためには、若干奉仕も必要だし、さてどうしょう」そんな牧会者の悩みをここでは扱っているように思えます。この疑問に対して聖書は、「祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。」と書きます。
イスラエルの民の中で祭司といわれる特別な人々がおり、それらの人々にこの家畜をささげるかどうかの判断はゆだねられると書かれているのです。今の時代の祭司は、主に仕える弟子の歩みをしている人々、献身者や牧師ということでしょうか。彼等に判断はゆだねられているのです。それらの「若干問題のある信者の奉仕を受け入れるべきか、否か」は彼等牧会者の判断にゆだねられているのです。
”13 もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。”
もし買い戻されると(あがなわれると)、その評価が上がる、加わることが書かれています。これはどんな意味合いなのでしょう?私の今の理解では、私達は主のあがないを受けるとき、本来持っている能力や評価がより以上のものとなる、それをいっているように思えます。主のあがないにより、頭のさえている人はさらにさえ、笑顔のやさしい人はさらに笑顔がアップする、(1/5すなわち20%程アップ)そんな風に思えるのですがどうでしょう。
”14 人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。”
ここでは家を聖別することについて書いてあります。家、教会の評価も祭司により判断されます。
”15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。”
家を聖別したもの、教会を聖別した者とはもちろん、キリストのことをいいます。教会が聖別される時、その評価がアップする、またそれはキリストのものとなることが書かれています。
ここで知らなければならないことは、主により聖別される時、教会全体の評価、力はあがるということでしょうか。
この世にまさる知恵が教会に与えられ、この世にまさる能力が教会に与えられます。また、主に聖別される時、それは、所有権が移り、教会は、牧師や役員会のものではなく、また監督のものでもなく、しかし、買い取る人、あがない主のものとなるのです。それで、教会の歩みは主によってきめられるべきことがわかります。
”16 人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。
17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。”
「人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合」として、ここではある人、すなわち、キリストがその畑すなわち、みことばの種をまかれる場所としての教会を聖別することが書かれています。以前、畑の宝の箇所でも見たように、畑すべてが尊いわけでもなく、聖別されるに値しているわけでもありません。しかし、「所有の畑の一部を主に聖別する」と書かれているように、その一部は、尊く主により聖別されます。聖別された部分は幸いです。
”18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。
19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。”
ヨベルの年以降の畑の聖別に関しては、「残っている年数」に従い、その額を計算することが書かれています。ヨベルすなわち、角笛の年とは、緊急、警戒の年であり、また背教の時です。ヨベルの年、背教の時代以降は全ての人、畑が買い取り、すなわち、あがないの対象になるのではなく、残っている、すなわち、残りの者が買い取り、あがないの対象となると語っているように読めます。
また、「それは彼のものとして残る。」として、キリストにより買い取られた畑、すなわち、あがなわれた畑は、終末の背教、変革、変質、異端化、トランスフオーメーション、パラダイムシフト、パーパスドリブンチャーチ等の濁流の中でも「キリストのものとして残る」ことが書かれています。残るものは幸いであり、主から、永遠の祝福を受けます。
エデンの園以来、常に全く逆のことを信じ込ませる嘘の天才、蛇及び蛇民族は「レフトビハインド(取り残される)」を始めとした終末嘘話を通して、終末に関連して残るものはだめ、残るものは取り残された者であり、再臨のキリストに会わない等嘘八百を並べていますが、そんな嘘に惑わされてはいけません。聖書は明らかに終末の日に最後まで残るものにみこころがあることを述べています。
”20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。”
終末の背教の日、ヨベルの年に関連して、「もし彼がその畑を買い戻さず」すなわち、もしキリストがあがなわなかったらということが書かれています。キリストはあがない主なのに、そのキリストがあがなわない、買い取らない、大変なことが書かれているのです。それは終末の背教の日であり、教会が、クリスチャンが自分が買い取られた御霊の血を汚れたものとみなすようになる、盲目となる日のことです。その日、クリスチャンが自ら、自分達をあがなう血を拒絶する日に関してヘブル書は以下の様に預言しています。
”ヘブル10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。”
この日は着々と近付きつつあり、悪霊を聖霊よばわりする盲目なクリスチャンによりいずれ実現されるでしょう。「またその畑が他の人に売られていれば」他の人、すなわち、キリスト以外の者に畑、教会が売られる日が来ます。それは、黙示録に以下の様に預言されている日のことです。「黙示録13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」
ここに書かれているように、この日、獣による売り買い、すなわち、あがないがなされるようになります。そしてその日、獣、反キリストに売られた畑は、もう2度とキリストによりあがなわれることはありません。「またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。」と明確に書かれている通りです。買い戻す、すなわち、あがなうことができないのです。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー