新しい教会が起きてきた時、我々はどの様にその新しい教会に対応すべきかを見ていく。

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NO. 425 古い着物と新しい布切れ

テキスト:マルコ2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
 

本日は「古い着物と新しい布切れ」という題でメッセージします。マルコ書の古い着物と新しい布切れに関するたとえを見ていきたいと思うのです。さて、このたとえを理解するにあたり、まず始めに「着物」とは何をたとえているのか、この理解が基本です。正直このマルコ書の箇所だけでは、今ひとつ意味あいがつかめません。着物に関して、他の箇所を「検索」することが肝要です。着物に関しては詩編に記述があります。以下の通りです。
 

詩編102:25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。
27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。
28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」”
 

この箇所から、着物は天地、すなわち教会と関係があることがわかるのです。この理解に基づきテキストを見ていきましょう。

”21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。”

ここで、新しい布切れや、古い着物について書かれています。布は着物の材料ですから、要は、新しい着物、古い着物について書かれているのです。そしてそれは新しい教会、古い教会のたとえです。

ですから、ここでは、新しい教会が起きてきた時、我々はどの様にその新しい教会に対応すべきか、古い教会についてはどう思うべきか、そんなことが書かれているのです。
そしてこの箇所における聖書の結論は、「真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。」すなわち、古い教会と新しい教会を一つにすることは正しくない、これらはわけるべきだと言うものなのです。

古い教会に対して、新しい教会が起きてきた時、その2つが並行的に存在した時とは、それは、たとえば、主イエスの時代のことでしょうか。
その日、旧約からのユダヤの会衆(集まり、教会と同じ意味合い)は、ナザレのイエス一派です。
これは教会を着物と例えるならまさに新しい布切れが台頭してきたのです。さて、この新しい会衆、教会、布切れと古い着物とが進む道はどちらが正しいのか、聖書的なのかという問題があります。どちらとはすなわち、

1. 今までの旧約の会衆の中に新しい会衆も含む。
2. 新しい布切れはそれだけで集まり、古い着物、教会とは分離する

この2つです。
どちらが、聖書的なのか、どちらが神の方法なのか。答えは明白であり、主のいわれる様に、「真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなこと」をしてはいけないのです。
何故なら、「そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくな」るからです。そうです、そしてこの破れやら、引き裂きこそ、主イエスの時代に起きたことです。主イエスの教えまた、その弟子であるパウロの教えはあらゆるところで、古い教会、古い着物の上に分裂といさかい、議論を起こしてきました。これらの2つすなわち、古い着物と新しい着物とは、あまりにも異なる存在、異なる教え、異なる霊なので一致させること、2つを一つにすることは無理だったのです。


逆にこの新しい布切れ、新しい教えは、古い着物を破り、引き裂いたのです。それで、これら2つの着物、古い着物と新しい着物(布切れ)とを一つにすることには、無理があり、賢いことでないことが明確になったのです。さて主イエスの時代はまた、終末の時代の型であることを思い起こしましょう。
何をいっているのかというと、このことは再度繰りかえされると言っているのです。

主イエスの時代の時は新しい着物であった教会もすでに2000年もの時が過ぎ、この着物もまた古くなってきたのです。そう、新約の教会もすでに古い着物になりつつあるのです。
そして終末の日、今度は古くなってしまった着物、教会に対してこのこと、古い着物と新しい布切れの問題がもちあがるのです。
そう終末の日に新たに新しい会衆、人々、教会が起きて来るのです。終末の日に新しい教会、もしくは回復の教会が起きて来ることを聖書は実は何度も繰りかえして預言しています。以前見たように、ネヘミヤ、エズラ、ゼカリヤ書には、このことが都の回復、神殿の回復等の表現で語られています。

新しい教会、会衆が起きて来ることは、喜ばしいことですが、しかし、必ず知らなければならないことは、その日必ず、対立や反目が起きてくることです。古い着物、現在の教会はそんな新しい教えをすんなり受け入れるはずもなく、争いが起きるのです。しかし、一部の人はその新しい教えに共鳴し、結果として、古い着物のやぶれ、引き裂きが起きてきます。教会内における分裂のことをいっているのです。さて、問題はその日、新しい教えに従う人は現在の教会に対してどう態度をとるべきかということです。
どうすべきかとは?すなわち、

1. 今までの教会にとどまりつつ、新しい教えも広げる
2.古い教会を出て、新しい教えに従う
どちらでしょうか?

答えは改めていうまでもなく、明確であり、上記みことばによれば、古い着物と、新しい布とをわけることが大事です。すなわち、新しく起きてくる教会は、古い教会にとどまりつづける必要はない、追い出されたからと言って悲観する必要はないのです。

分裂がいい、わかれた方がいい?それでは、「分裂のあるところには一致を」といったアッシジ聖フランシスコの教えに反するではないかなどとわけのわからないことをいう人がいるかもしれません。しかし、私達は、聖書と人間のいうことがもし食い違ったら、その時は、「天地が過ぎ去ってもかわることのない」といわれた主のことばを選ぶべきではないでしょうか?人間にすぎない聖人のことばや法皇のことばを持ち出し、みことばを曲げる愚か者の誤りに従ってはいけません。

”22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」”

さて、着物と対比的な表現として今度はぶどう酒と皮袋について記されています。ぶどう酒そして皮袋の意味あいは?これはまだわかりやすいと思いますが、ぶどう酒は正餐のぶどう酒に通じ、これは聖霊のたとえです。皮袋は?皮袋は聖霊を持つものとしての教会のたとえです。

さて、どんな新品の着物でも避けられないことがらは、着ているうちに古くなっていくこと、
古くて、穴があいたり、破れたりして、いずれ着られなくなってしまうということです。
着物には耐用年数があり、永遠に着続けるということはできないのです。そして、残念ながら、これは着物としてたとえられた教会に関しても同じなのです。

さて同じ意味あいで、ぶどう酒に対する皮袋にも同じく耐用年数があることを知りましょう。
皮袋もいずれ、古び、使用に耐えない日がくるのです。旧約の皮袋、会衆、教会がもう古くなって用をなさなくなったのは、それは主イエスの時でした。この会衆、集会は、神の霊、聖霊により語ったイエスベルゼブル、悪霊の頭と呼んだのです。以下の通りです。

”マルコ3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。”

社長を「この野郎」とか、「バカ社長」などと社員が呼ぶのは、もう末期的症状であり、
そんなことをいう社員の末路はクビか、減給しかないでしょう。同じ意味あいで、聖霊を悪霊よばわりする皮袋の末路ももう、役にたたない、捨てられることになるでしょう。

かつての会衆、教会、旧約の教会は、この様に良いぶどう酒を悪霊のぶどう酒扱いをする冒涜の教会、皮袋になりさがったので、その結果、神の前に捨て去られました。
逆に新しい皮袋、新約の教会がこの新しいぶどう酒、ペンテコステの日に下った、聖霊を受け入れるものとして用いられたのです。

さて、それから2000年が過ぎました。
かつての新しい皮袋も残念ながら、年月を重ね、古い皮袋となってしまったことを知ってください。今の教会は明らかに古い皮袋であり、盲目となっています。悪霊のリバイバルであるトロント、ペンサコーラの霊すら見分けることができません。恐らくこれはさらに悪い状態、かつての主イエスの時代の様に聖霊を悪霊よばわりするところまでいくのでしょう。そしてその時こそ、この皮袋、今の教会が捨てられる日です。

かつての日、古い霊、惑わしの霊、怪しい霊に満ちた時代に新しいぶどう酒、ペンテコステ聖霊が下りました。
同じことが終末にも起きるでしょう。トロント、ペンサコーラを始めとする、とっておきの古い怪しい霊がばっこする時代に聖霊の働き、聖霊の大傾注があるでしょう。

その時の問題もこの新しいぶどう酒を古い革袋が問題なく、受け入れることができるかどうかという問題です。そしてその答えも自明であり、古い皮袋に新しいぶどう酒をいれるべきではないのです。

すなわち、古い今までの教会はこの新しい聖霊の働きを抵抗なく受け入れることはできないことが想像されます。逆にかつて、新しいぶどう酒を持って訪れた主イエスを律法学者達が「彼は悪霊のかしら、ベルゼブルを用いている」と非難した様に、終末の油塗られた者達も大いに非難されることが想像できるのです。

それでこのことの結論も、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」、すなわち終末の新しい聖霊の働きに対応する新しい皮袋が必要になってくるのです。さあ、そんなわけで、我々は目を開き、備えをしなければなりません。
それは、新しいぶどう酒のはたらき、またそれに附随する新しい皮袋の働きを見分けること、それを見い出すべく注意深くあることです。私はこのことの噂を聞いていますが、しかし、まだよくわかりません。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

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