黙示録に記されている「1人の朗読者」に関して見ていく。

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No.387 ひとりの朗読者

”テキスト:黙示録1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
3 この預言のことばを朗読(読む)する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。”
 

本日は「一人の朗読者」という題でメッセージしたいと思います。

黙示録に記されているひとりの朗読者に関して語られていることを見ていきたいと思うのです。

上記黙示録の始めで主は、「この預言のことばを朗読(読む)する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める(保つ)人々は幸いである」と述べられました。

このことの意味あいを見ていきたいと思うのです。

上記箇所では、「朗読する」と何か特別なことのように訳されていますが、原語の意味あいは「読む」という意味です。
預言のことばを「読む」ことに関して、イザヤはこう述べています。

”イザヤ29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。”

ここに書かれていることは、預言のことばを読む、幻を読み取ることに関することがらです。

ここを順番に見てみましょう。

「11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。」

終末の日、神の民にとって、聖書に記された預言も幻も理解できなくなる日がきます。
すなわち、この聖書は神の民にとって封じられた封印された書物の様になってしまうのです。
この「封印された書物」とは、黙示録の「7つの封印がされた巻き物(書物)」と関連します。
すなわち、黙示録の時代、終末の時代こそ、このイザヤ書が語る、聖書が封じられた書物の様になってしまう時代のことなのです。

「すべての幻...封じられる」との表現も象徴的です。聖書の中には、創世記、出エジプト記とそれこそ、ありとあらゆるたとえ、謎、が隠されているのですが、悲しいかな終末の神の民にとって、これらの隠された知恵、謎は無用の長物、縁のない、宝となってしまうのです。

”これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、”

「読み書きのできる人」とは何をさすのか?それはすなわち、この聖書の権威、学者、専門家と自称している人々のことです。
彼等はこの書の幻を解き、また黙示録を始めとする幻や啓示を「読み取っている」のか?
試みにキリスト教書店へ行って彼等の書いた
預言解釈の一つの本でも読んでみればよいでしょう。
彼等が何も読んでいない、理解していない、啓示を受けていないことは自明です。
彼等の本音は、「これは、封じられているから読めない。」とのことばです。

何故彼等は自称「読み書きのできる人」なのにこの書を読めず、この書の幻、啓示を読み取ることができないのか?それは、彼等がこの書を書かれた方のことばを守ることを拒み、人や、この世の知恵、方法に頼ることを選び、真に知恵ある方に頼むことを拒否したからです。彼等はたとえを理解することを強調した主のことばを捨て去り、霊的解釈はいけない、聖書は国語的(文字どおり)に読むべきだ、などとえらそうなしったかぶりをし、結果として何も読むことができない愚か者になりさがっています。
彼等は「ソロモンにまさる知恵ある方」に聞こうとせず、その結果大恥を受ける役立たずです。

”12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。”

「読み書きのできない人」とは要するに聖書に関する専門教育を受けていない人という意味あいでしょうか。聖書学者、教師が読めないというから、じゃあと一般信徒に頼んでも「私は、読み書きができない。」、すなわち、「私は専門教育を受けていないから読めない」と断わるというのです。
要するに学者も牧師も信徒も誰も聖書の幻、啓示を読み、開くことのできないそんな時代が来るとそう預言しているように思えます。

そしてそのような時代をさして、聖書は黙示録「7つの封印がされた巻き物(書物)」の時代と表現しているように思えます。封印が一つ、二つどころか、何と7つも封印がなされ、決して開かれない、啓示が開かれない、徹底的に封じられた時代のことです。
今はまさにその様な時代であり、聖書は神学校へ通った牧師や、あまり信仰のなさそうな聖書学者にしか、解釈できない時代になっています。その上、「私的解釈はだめ」なんていう、例のペテロの手紙の箇所に関する嘘つき解釈が出回り、誰も解釈書以外のことはいえない、「聖書の幻が封印された時代」になってしまったのです。

さて、これらのことがらを背景に上記テキストを見ていきましょう。

”黙示録1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。”

イエス・キリストの黙示。」

黙示録ということばが示すようにこの書のことばは、黙示です。黙示とは、「カバーを外す」というニュアンスがあります。
このことばを元に聖書は何を語っているのでしょう?

それは、この書、「カバーがされた書」をもとに神の民が区分されてしまうということです。

ある人はカバーの中を見ず、外側だけしか見ない。ある人は、カバーを外してその内側、本質を見る。その様に区分されてしまうのでしょう。「これは、すぐに起こるはずの事」と書かれています。
聖書が度々語り、強調していることは、神は未来について語り、そして神が語られたなら、それは実現するということです。

その例はいくつもいくつも聖書の中に見い出されます。

たとえば、かつて神はアブラハムがカナンに行った時、彼に「あなたの子孫にこの地を与える」といわれました。
カルデヤのウルから来た異国人、アブラハムにそう約束されたのです。

このことは、何百年かの後、実現し、出エジプトしたアブラハムの子孫、イスラエル民族は、
カナンの地を占領しました。

神のことばは実現したのです。
また、神はそのアブラハム、行くところを知らずして、神のいわれたことばに従って故郷を出てきたアブラハムに対して、「あなたの子孫は地のちりの様に」数えきれない程、増えるといわれました。
そのことばも成就しました。ローマ書によれば、我々クリスチャンこそアブラハムのすえであり、そのクリスチャンの数は全世界で、今20億を超すといいます。
まことに神のことばは成就するのです。

この様に神が語られたことばはどれもこれも成就します。その神が「すぐに起こるはずのこと」について黙示録の中で語ったと聖書は述べているのです。

それで誰でも終末について知りたい、未来について知りたいと望む者はこの書を読まなければならないことがわかります。

そういえば話は簡単なのですが、一つ問題、大きな問題があります。
それは、この書が封印されており、誰も読めない、読むことも理解することもできない、そうなっているのです。

それで、終末の問題、黙示録を読む、終末の預言を読むという時、大きな問題は、それを読むことができない、啓示が開かれない、理解できない、その様な問題であることがわかります。
”そのしもべたちに示すため”

これはキリストがそのしもべ、弟子に与えたものです。従って、主の弟子でない人に啓示される、開かれるということはあり得ないと思われます。

”その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。”

ヨハネという弟子の名前を通して聖書が語ろうとしていることは何でしょうか?
ヨハネはかつてペテロが主に「この人は?」と尋ねた時、主により「たとえ私が来るまで、
彼が生きながらえるのを望んだとしても」といわれた弟子であり、また他の弟子から、「彼は死なない」という噂の流れた弟子です。

ですから「主の再臨まで残る弟子」の型なのです。

”2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。”

この黙示録のことばはヨハネ、すなわち主が最も愛した弟子により、証されました。
同じく終末の日の預言もその日、主にもっとも愛された弟子を通して開かれるのかもしれません。

”3 この預言のことばを朗読(読む)する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。”

さてここに「朗読(読む)する者」は幸いであると書かれています。
この読むという何気ないことばも上記、イザヤ書「読み書きができる人」さえ、
「封じられているから読めない」と語っている聖句と比べて考えるなら、
そこには、特別な意味あいがあることがわかります。

すなわち、これは「読み書きのできる人」、聖書解釈の専門家となっている人も、預言を解くことができない、また、「読み書きのできない人」すなわち聖書解釈の学問を学んだことのない一般人もやはり、預言を解釈できない、そのような時代を前提に書かれているのです。

神学校や教会を覆う偽りのため、聖書を読む方法も預言を解く方法も失い、だれも彼もこの幻を解くことができない、封じられた巻き物の様になったこの書、終末の預言書ですが、しかし、ある日、終末の日に主は「一人の朗読者」を送る、その日についてこの箇所は書かれているのです。

ここの「読む」という何気ないことばは、実は終末の日に大きな意味あいを持つようになることは正しくとらえるべきと思われます。

いつだか、私の知り合いの人からフランス語で書かれたはがきをもらいました。
何かが書いてあるのでしょうが、悲しいかな私の家にはフランス語を読める人が一人もいません。それで、何年も経っているのですが、いまだにあのはがきに何を書いてあるのか、誰もわかりません。こんな時、フランス語に堪能な人が現れてさっそうとその内容を読み上げてくれれば拍手喝采です。

同じ意味あいで、ここに書かれている「読む(朗読する)」ということばが大きな意味あいを持つ日がきます。それは、誰も彼もがこの封じられた書を読めなくなる、その終末の日です。

さて、この箇所で、朗読者は複数ではなく、単数で書かれています。すなわち、朗読者、終末の預言を解く人、読む人は、一人の人もしくは一つのグループであると理解できます。
ですから、この箇所が語っている「一人」ということが正しいなら、こうなるはずです。

すなわち、一人のもしくは、一群の正しく解釈する人(人々)、及び、それ以外の正しく解釈できない人々、その様な区分があるはずなのです。

そして、この様なことはあり得ません。
すなわち、総てのキリスト教のグループに一部ずつ正しいことが明かされる、
その様なことはありえないと思われます。

何故そういうかというと、この箇所には、「朗読者達」については書かれておらず、ただ、「一人の朗読者」について書かれているからです。

さて、この視点に立つとき、あの獣の国、アメリカの偽りものども、ピーターワグナーを始めとする、偽使徒、偽預言者達のしていることは一面聖書的であることがわかります。
逆説的ながら、彼等は一面聖書的な方法をとっています。何をいっているかというと、彼等は数は多いのですが、しかし、同じことを語っているからです。もちろん、その啓示は悪魔からのものですが。

この流れの彼等は誰も彼も同じ曲を弾き、同じメロデイーを奏でるようになってきました。
すなわち、
終末の日に教会は変革する(トランスフオーメーション)
終末の日に新しい啓示が起きる
キリストは、2回に渡って再臨する。その最初の再臨は、目に見えない
霊として来て、教会の勝利者、すなわちピーターワグナー、ベニーヒン
の様な使徒預言者受肉する。結果として、彼等はキリストの権威と主権を帯びる。
彼等使徒預言者に従わない者は「反キリスト」の霊にやられた者であり、彼等を地上から削除し、地を浄めることが必要である。

こんな様なシナリオを誰も彼もが語るようになったのです。
ですから彼等もある意味、逆説的ながら、「一人の朗読者」ということばを成就しているわけです。
悪魔的な方法でですが。

終末に一人の朗読者、すなわち、今まで封じられて誰一人読めなかった幻を開き、啓示を解く預言者が起きることを聖書は明らかに語っているように思えます。

それがどの様な形でくるのか、実現するのか、まだわかりません。

しかし、私達はそれを「聞く」ことができるように求めましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 
 
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