No.361 イスラエル12部族の回復
”テキスト:ロマ11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
6 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
29 神の賜物と召命とは変わることがありません。
30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。”
東の地に散らされたままになっていた、セム、すなわち黄色人種であるイスラエル12部族の子孫が、終末の日に、日の上がる方、すなわちアジアで聖霊の印を受けて、回復されることは、黙示録に明記されていることです。
このことは、具体的には、どのように起きるのでしょうか。それを見ていきたいと思います。
ロマ書のテキストから順に見ていきたいと思います。
”1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。”
イスラエル12部族は終末の日に回復しないという主張は、不信仰な言い方です。
そのような意見に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と言下に否定しています。
確かに主はセム、すなわち黄色人種の子孫である、イスラエル12部族の末裔を回復されます。
”2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。”
今、イスラエル12部族のうち、少なくとも10部族はどこに存在しているのか、ようと知られていません。だからといって、「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれた」、もう彼等は回復しないといういいかたは聖書的でも、信仰的でもありません。
彼等は必ず終末の日に回復してくるのです。
黙示録7章はまさにその12部族の終末の日における回復を語ります。しかし、ここで、必ずはっきりと明記しておかなければならないことは、その回復、聖霊の印を受けることが、日の上がる方、すなわちアジアで行われると述べていることです。
決して中東の地で回復されるとは書かれていません。
ですから、この面からも現在中東の地で行われているイスラエル国によるパレスチナ人の土地、畑、人命の略奪は、聖書の記述や、神の意志、計画とは、何の関連もない、一方的な殺人、犯罪であることを理解できるのです。
聖書は、終末におけるアブラハムの子孫の「中東の地への帰還」など述べていません。
それが読めないのは、失礼ながらはっきり言いますが、盲人だからです。
「殺すな」との十戒の教えを投げ捨てて、このような中東における殺人に加担したり、その上、自分が惑わされるだけでも恥ずかしいのに、日本のクリスチャンをも扇動してそのような「罪」に賛同、参加、同意させようとする愚か者はその日、それ相応の裁きに会うことを銘記すべきです。
少なくても私達に関しては、「他人の罪にかかわりあうな」との聖書のことばを守る者として主のいわれる位置にとどまるつもりです。すなわち、これらの殺人、略奪の罪を指摘、非難はしても決して同意するつもりはありません。私達は、かつて主イエスへの殺人の罪に同意しなかった、ピラトのように自分の手を洗い、この罪に加担はしません。かつて、ユダヤ人が叫んだように、パレスチナ人の「この血は」彼等と彼等の子孫の上に帰するべきものです。
”3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。”
このようにして主への背信の道を選んだ、イスラエル12部族の人々は、皆、神に見捨てられ、
聖書の神とは関係ない生活をするようになりました。たとえば、現在の日本は、聖書やそこに書かれている神とはもっとも縁遠い国民となってしまったのです。しかし、そのような日本にも、「今も、恵みの選びによって残された者がい」るのです。そのようなわけで、今の時にこの国で、クリスチャンであるということは、非常に特別な意味あいがあるということを知って下さい。
私の考えが正しければ、主はこの国で大きなわざを起こそうと計画しており、今その為の人々を選ぼう、選抜しようと願っておられる様に思えます。かつての12弟子の選抜のようなものです。今の日、主に目をとめられる者は幸いです。
”7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」”
そのようなわけで、主への背信を続けたイスラエル、そして、その子孫は、もっとも盲目な民となりました。欧米のクリスチャンが得ている悟り、知恵、知識よりも劣る物しか得られない様になってしまったのです。欧米の人々は、早くから聖書の神を知り、その恩恵、恵みを受けてきました。
その一方日本では、聖書に対しても、また真理である、キリストに対しても決して目は開かれず、空しいこの世の生き方、格言、方針を頼みとしてきたのです。
”11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。”
「彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか」とのパウロの質問の主旨は、「イスラエル、ユダが、この福音につまづき、受け入れなかったのは、もう神が彼等を永遠に滅ぼし、二度と彼等を顧みない程、見捨てられるためなのか」といった疑問でしょうか。
その疑問に対して、パウロ自身が、強いことばで、「絶対にそんなことはありません。」と否定しています。ですから、彼等、イスラエル、ユダの子孫、すなわち、アジア各国に今住んでいる、末裔が必ず聖書の神に立ち返る、イエスを受け入れるという人々こそ、聖書的なのです。「そんなはずはない」などという人は聖書も神の力をも知らない人です。
”かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。”
かつてのイスラエル、ユダの民がこの方の福音を受け入れなかったため、救いは異邦人に及びました。
このようにして、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸というようにこのキリストの福音は伝わりました。その中で、多くの霊的にも文化的にも尊い実を産みました。
神はこれらの「キリスト教国の文化、精神、社会」を祝しました。それは、それを見た、今アジアにいるキリストを受け入れない「イスラエル(の子孫)にねたみを起こさせるためです。」
”12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。”
「彼らの違反」すなわち、キリストを受け入れなかったことの実は、結果として、「世界の富となり」ました。世界に福音が伝わったからです。今の欧米キリスト教国の良いものは、皆、キリスト教から出ています。学校、病院、一夫一婦制、日曜日に休むこと、等です。
たしかにこのことは「世界の富」となったのです。
さて、このようにして、「彼等の違反を契機として」全世界に福音が伝わったことは感謝なのですが、しかし、世界は更に感謝な日、祝福の日を経験します。それは、彼等、イスラエル12部族の末裔、の「完成」の日です。その日は、「それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」
ですから、その日、ユダ、日本を始めとするイスラエル12部族の子孫が神に立ち返るその日、
世界に、世界の教会に特別な祝福が起こります。
それは、具体的には何でしょう?今の私に察することができるのは、
「7つの封印がユダ族の獅子により、開かれた」と書かれてあるように、啓示が開かれること、また御言葉の回復、聖霊の傾注でしょうか。
”13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。”
アジアすなわち、東への伝道を聖霊によって止められたパウロはそれで、必然的に、当時の地中海一帯、具体的には、ヨーロッパへ福音を伝えました。そして、イスラエル人であるパウロは自分がそうするのは、
「それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」と述べました。
それで、ヨーロッパに福音がまず伝わり、それによって、キリスト教国化し、神の福音により
大いに恩恵を欧米諸国が受けること、そして、「同国人にねたみを引き起こ」すことは、実はこれは神の方法です。
これらの欧米諸国の繁栄、文化、洗練のその基は何だろうとアジアの我々が、疑問に持ち、そして、その後、その文化の根本にある、キリストの教えに至るという方法は神の方法なのです。
このキリスト及びその教えは、かつて最初にイスラエル人にもたらされ、そして、最初に拒否されたものなのですが、しかし、彼等アジアに散らばっている イスラエルの子孫は、多くの日の後で、その教えをうらやみ、興味を持つようになるのです。そのことは、今、アジアの諸国で起きており、また、更に起きて来るでしょう。
”15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。”
このこと、イスラエルの回復は、「死者の中から生き返ること」であると聖書は述べています。今の日本は経済、社会、教育とあらゆるものが死に瀕しているかのようですが、しかし、
その日、福音を通してこの国は蘇ります。
”16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。”
新約の民、クリスチャン、すなわち欧米を始めとする全てのクリスチャンの歴史のもとい、土台には、数千年の間の旧約の神の民の従い、信仰、忠実があったことを忘れてはいけません。
いえ、たとい人が忘れても神は忘れておられるわけではなく、終わりの日に神はそれらのイスラエル12部族の子孫に恩恵を施します。どこで?
黙示録に「日の上がる方」すなわち、アジアについてはっきりと銘記してあるではないでしょうか?
彼等は今、東の地に住んでおり、神はその終わりの日に彼等にかつての忠誠、歴史に恩恵を持って報われます。そう考えるのがもっとも妥当ではないでしょうか?
聖書を読むことのできない盲人のたわごとにだまされ、真理を見失ってはいけません。
”19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。”
かつての神の民はその高ぶりのゆえに、「枝が折られ」、外されてしまいました。
さて、同じことが終末の日に今度は新約の神の民の上に起きるかもしれません。「高ぶらないで、かえって恐れなさい。」との彼等にあてたパウロのことばは警告であり、また預言です。
”21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。”
「倒れた者の上にあるのは、きびしさです。」とのことばの通り、イスラエル12部族、またユダ、日本の国は、真の神からも聖書のことばからも切り離され、またその恵みからも切り離された歩みをしてきました。
真の神を知らずまた、この神に求めることによる祝福にもあずかることのない生活を永年してきたのです。
私達の先祖はこの神をあがめず、それゆえ、神は私達は切り離され、その結果、私達は、自分がかつてどのような民だったのか、ということさえ知らずにこの国で生活をしています。
全く記憶喪失者のような状態です。まことにこの神をあなどることは、きびしい結果をもたらすことを知ります。
しかし、この神は旧約の民に対してだけきびしい、そうなのではなく、「そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」
”23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。”
日本にいわゆるリバイバルが起きるでしょうか?この国で、多くの人々がキリストを受け入れる日が来るでしょうか?
多くのこの国のクリスチャンはその為に労し、しかし、正直にいうなら、「この国にそんな日は果たして来るのだろうか」という思いを持っているかもしれません。
しかし、神のことばは、「神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。」と語ります。
もし、この国が真にユダ国の歴史を受け継いでおり、また神のことばが真実なら、その日はこの国に来ること、必ず来るといえることを私達は知っています。
「どのようにして?」ということはわからないのですが、それでも神のことばがそう記しているので、その日がくると言うことができるのです。
”24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。”
「もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」と聖書は、イスラエル12部族が神に立ち返る日について述べています。その日、これらの民族、国が真の神へ立ち戻る日、彼等はすみやかに、もたつかず、この神に帰り、あたかも始めからそうであるかのように、スムースに「キリスト教国」になるでしょう。
もうこのことのきざしは、韓国、中国で起きつつあるように見えます。
この国、ユダ、日本が、突然、キリスト教国に「変身」する日は、近いことでしょう。
”25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、”
「イスラエル人の一部がかたくなになった」すなわち、彼等が福音を受け入れないようにかたくなになり、目が見えなくされているのは、「異邦人の完成のなる時」までです。
もうすでにこの福音は、欧米を始めとする世界のすみずみに伝えられ、欧米においては、
福音の変質さえ起きてきています。もう異邦人の時は終わりつつあるのです。
”26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。”
「イスラエルはみな救われる」ということは、要するにアジアに散らばる、イスラエル12部族の子孫は、皆救われる、これらの国々は、皆キリスト教国になるということでしょうか。
さて、その救いはどこから、誰によりもたらされるか?
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」と書かれています。
シオンはエルサレムであり、 それはユダ族に属します。すなわち、これらの東のリバイバル、終末の聖霊大傾注は、何とこの日本を起点にして起きるということなのです(!!)
具体的には誰がこの國に働くのか?誰がって、福音を伝えるのは、クリスチャンしかありえないから、今わずかにいるこの國のクリスチャンの中からこれらの起爆剤が起き、終末の大収穫の勇者が出てくることになっているのです。何とこの國の召しは重く大きなものでしょうか。ですから、今、この國で、クリスチャンと呼ばれている人々には大きな召しと呼び掛けがあります。この召し(calling-呼び出し)に応じる者は幸いです。
”27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」”
その日、彼等は罪と不信仰を取り除かれ、神に立ち返ります。
”28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。”
その日、日本を始めとするイスラエル12部族の子孫が破格の恵みを受けるその理由は何でしょう。
それは、我々の行いにも信仰にもよらず、ただ、私達の大先祖、アブラハムを始めとする信仰の先祖の忠実と歩みのゆえです。神は彼等にかつて約束されたゆえに今、我々にその恵みを施すのです。
”29 神の賜物と召命とは変わることがありません。”
その日、私達は、そして世界の目の開かれた人々は、2千年以上の年を経てもなおかつ、神の召しと約束とは変わらないことを知るでしょう。神は、イスラエルの子孫を恵むとかつて約束されたので、今、その約束を「日の上がる方」すなわち、アジアに散らばる12部族の子孫に施すのです。
神の約束は変わりません。
”30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。”
「あなたがた」すなわち、ヨーロッパを始めとする欧米の人々は、神のあわれみと恵みを受けました。
そして、その恵みは非キリスト教国であるアジアの12部族の子孫に伝えられました。それは、「あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
”32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。”
今、日本は不従順と不信仰のただ中に居ます。しかし、それは、神から出たものであり、「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたから」なのです。
もし、それが神から出たものなら、神に立ち返ることも「神次第」だということがわかります。
この國が神に勝ち取られる日については、神が権威を持って定めておられます。
人の計画、宣教団体の「計画」に基づいてうんぬんいうことではありません。
”33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。”
しかし、こんなことを一体誰が考えたでしょうか。イスラエルの12部族は皆、アジアにおり、
異邦人の時が終わりになる頃まで、神を知らず、不従順に閉じ込められること、しかし、終末の日には、皆あざやかに救いにあずかる、これが神の計画などと誰が知っていたでしょうか?
まことに「神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう」
今、世も終わろうかというこの時、やっとおぼろげながら、我々にも見えてきたそんなところなのです。
”34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。”
これらのこと、終末の日の驚くべき神の計画をを誰が前もって知っていたでしょうか?
カルビンが?ルターが?ウエスレーが知っていたでしょうか?
それともビリーグラハムが?はたまた暦代の法皇の誰かが?誰も想像さえせず、前もって語ることはできなかったのです。彼等は人に過ぎず、神ではありません。
確かに「だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。」と書かれている通りです。
今、終わりの時になり、ようやく我々にも見えるようになったに過ぎないのです。
”36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。”
計画は神にあり経綸は神にあり、その実行も神にあるのです。人の計画通りに進んでいるわけではありません。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」と、書かれている通りです。
ですから、このこと、「終末の日におけるイスラエル、ユダの子孫の東における回復」という
小説よりも驚くべきことがらは、確かに神が計画したことなら、その日、成就することを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。