終末の時に聖書の終末のことばを「悟る」か否かは命か滅びかの違いになる。

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No.222 悟る(2)


テキスト:”ヨブ28:12 しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか。
13 人はその評価ができない。それは生ける者の地では見つけられない。
14 深い淵は言う。「私の中にはそれはない。」海は言う。「私のところにはない。」
15 それは純金をもってしても得られない。銀を量ってもその代価とすることができない。
16 オフィルの金でもその値踏みをすることができず、高価なしまめのうや、サファイヤでもできない。
17 金も玻璃もこれと並ぶことができず、純金の器とも、これは取り替えられない。
18 さんごも水晶も言うに足りない。知恵を獲得するのは真珠にまさる。
19 クシュのトパーズもこれと並ぶことができず、純金でもその値踏みをすることはできない。
20 では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。
21 それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。
22 滅びの淵も、死も言う。「私たちはそのうわさをこの耳で聞いたことがある。」
23 しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。
24 神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。
25 神は風を重くし、水のはかりで量られる。
26 神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。
27 そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを定めて、調べ上げられた。
28 こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」"

本日は「悟る(2)」として、終末の日に神の民が悟りを得ることが大事だということを見ていきたいと思います。
 

マタイ伝には、終末の鍵となる「荒らす憎むべきもの」に関連して、「読者よ悟れ」と記されています。
しかし、一体この荒らす憎むべき者とは何か、いつ来るのか、どのようにしてくるのかは明記されていません。

しかし、この「荒らす憎むべき」ものとは、終末の鍵らしいことがわかるのです。
「悟る」とは、英語訳で「理解する」と記してあります。ですから、私達はこの終末の日のなかで、悟る、理解するかどうかが非常に強調されていることを知らなければなりません。

一流大学の入学試験で、その難問を理解して、解答できるかどうかは確かにその人の人生を変えます。

しかし、そうではあっても別に命に別状があるわけではありません。しかし、終末の時に私たちが聖書の終末のことばを「悟り」「理解」できるかどうかはそれこそ、どうも生死を分ける差が出てくるようです。そのことを見ていきたいと思います。

終末の時代に関する聖書のみことばは、他の時代に関することばと際立った特徴、違いがあります。
それは、終末のことばは、謎とたとえの中で書かれており、普通に読んでも理解が難しいことばばかりだということです。

例えば、モーセに関する記述を読んでみます。信じる、信じないは別として、その中で我々が理解できない記述はありません。
モーセがどのような民族の中で生まれたのかは、まちがえようのない程、はっきりと記してあります。
(答:ヘブル人)
また、何故、彼がエジプトの教育や、王族の学びをできるようになったのかも、誤解のしようがない程、はっきりと記されています。(答:王女の子として育てられた為)
また、彼が何歳の時、「イスラエル民族をエジプトから引き出す大きな働きを始めたのか」もはっきり読み取ることができます。(答:80歳)

これらは全て明確に記されており、議論や、討論の余地、また誤解の可能性もありません。誰でも同じ結論に達するのです。

そして、これは、モーセに関する記述だけに限りません。
聖書の一つの特徴は、非常に具体的、歴史的な記述が多いということであり、他の人物、できごとに関しても具体的な記述に満ちています。

たとえば、キリストの歴史に関しても同じように具体的な記述が続きます。
私達は、聖書を読む中で、キリストの母が誰であるか、その名前を具体的に知っています。
それだけではなく、私達は、キリストの人間としての系図に現れる人々を全て知っています。
福音書の中にはっきりと、アダムにまでさかのぼれるイエス系図の具体的な記述があるからです。
また、さらに私達は、キリストがいつ生まれたのかという、その時も聖書を通して具体的に
知っています。聖書は「昔昔キリストというえらい人がある遠い国で生まれました。」とは書かず、具体的にその時代のユダの王の名前を記して、その誕生の時を示しています。(ユダ国のヘロデ王の時代)

私は長々と何をいっているのかというと、聖書の原則を記しているのです。
聖書の一般的な原則は、誤解のしようのない記述、あいまいさを嫌う記述であるということです。
それは、新約、旧約を通して、ずっと流れる原則なのです。

しかし、例外があります。この原則は、「終末」に関する記述には、全く適用できないかのようです。
終末に関する多くの記述、多くのことがらは、それこそ、私達には、理解不能であり、一体、何がどうなるのか、はっきりとしないかのようです。

これは、聖書の一般的な原則、方法とは、非常に異なり、全く例外的な特殊なものであることをとらえて下さい。

例えば、キリストの再臨一つとってみても、クリスチャンの間では、一致した見解というものは、ありません。ある人々は、キリストは2回再臨するというし、他の人は、「とんでもない1回しか来ないはずだ」といいます。反論された方は腹がたつでしょうが、しかし、どちらにも聖書に基づくいい分が少しはありそうなので、どちらかが絶対正しいとはいえない、断定できない状況です。

ですから、結論としてこう言えるでしょうか。終末に関する記述は、神が特別に定めた「難問」なのです。
このことを理解しなければなりません。人間の作った難問、たとえば、一流大学の入学試験などは、誰でも彼でも解けるというものではなく(それならみんなが試験をパスしてしまいます)、特別な理解力を持った人でなければ、正しい回答をすることができません。

同じように、終末の日に、神は特別な難問を神の民に対して、用意しているのです。そして、これは、特別な理解力、すなわち、「悟り」がない限り、決して解くことができないものなのです。

多くの人はこれらの「終末の難問」に関して、悲しいことにそれが、神が特別に用意した「問題」であることすら理解せず、ほとんど的外れな理解、解答をしています。

たとえば、主がマタイ24章で語られたことばはどうでしょう。

「星が天から落ちる」と書かれていますが、こんなことは、我々の世界では、ありえないことなのです。何故なら、夜空に光る北極星や、オリオン座の星は、地球なんかよりずっと大きく、そんなものが、地球に落ちてきたら、いっぺんで地球が破壊されてしまい、三年半の苦難も何もないのです。
現代人なら誰でもこんなことは、知っています。そして、当たり前のことなのですが、神は我々よりずっと、そんなことは御存じなのです!
主がそれなのに、わざわざありえない「星が落ちる」ことについて語られたのは、この「星」に関する、たとえ、「難問」が終末に関連して我々に出題されたことについて、我々が気付くためなのです。

船から、水の中に投げ出されても「救命胴着」があれば、助かるかもしれません。
しかし、せっかくそれを手に入れても使い方がわからなければ、何の助けにもなりません。

同じように、終末の日の私達の救い、助け、攻撃、敵、それを逃れる方法に関しては、全て、
聖書に書かれているのですが、これを「悟る」ことができなければ、この聖書の記述は私達にとって、無意味なのです。

この「悟り」についてヨブは、「金も玻璃もこれと並ぶことができず、純金の器とも、これは取り替えられない。」と語りました。

このテキストの箇所を順に見ていきましょう。

”12 しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか。
13 人はその評価ができない。それは生ける者の地では見つけられない。”

「人はその評価ができない」とは、KJVでは、「人はその価値を知らない」と訳されています。
この言葉は、まことにその通りであり、終末の人々は、「悟り、知恵」の価値を知りません。

実は、この神からの悟り、理解をもらうことができるかどうかは、私達の永遠の運命を変えてしまうのですが、それを真剣に受けとめ、真に悟りを求める人は少ないようです。

”14 深い淵は言う。「私の中にはそれはない。」海は言う。「私のところにはない。」”

ここで使われている「深い淵」ということばは、以下のことばと同じです。

詩編33:6
「あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。」”

ですから、「淵」は、さばきと関係があるのです。さばきと関係のある深い淵は「私の中にはそれはない。」
というのです。ですから、終末の日、神の裁きに入る人々の特徴は、「悟りのない」人々であることがわかります。

”15 それは純金をもってしても得られない。銀を量ってもその代価とすることができない。
16 オフィルの金でもその値踏みをすることができず、高価なしまめのうや、サファイヤでもできない。
17 金も玻璃もこれと並ぶことができず、純金の器とも、これは取り替えられない。”

純金、金、銀は、「信仰」と関係することばです。ここで神は、「悟りを得る」ことは、「信仰を持つ」こと以上に大事だといっているのです。

信仰の書、聖書に「信仰より大事だ」なんて、そんなことが書かれているとは、びっくりしますが、確かにそう述べられているのです。

私はこの聖書の考えに同意します。何故なら、例えば、例の「獣のリバイバルのことを考えてみましょう。
多くの人々は、リバイバル集会に出て、リバイバルを求め、たまものを求め、あん手を受け、恵まれます。
彼らは信仰があり、神への信仰が確かにあるから、熱心に求めているのでしょう。

しかし、問題があります。彼らには、「悟り」がないのです。自分が熱心にたまものを求めて、あん手を受けている「神の噐」が、実は獣の霊を自分に授けようとしているのだと、いうことを「悟る」理解力がないのです。

そして、その結果、獣の霊を受け、霊的に死んだものとなっていくのです。
ですから、まことに「悟り」はオフイルの金(信仰)にまさるのです。

”18 さんごも水晶も言うに足りない。知恵を獲得するのは真珠にまさる。
19 クシュのトパーズもこれと並ぶことができず、純金でもその値踏みをすることはできない。”

そして、「知恵、悟り」を得ることは、たまものを得ることとにまさっているのです。
その日には、神のたまものにより「力あるわざ」をなし、「主よ主よ」といいながら、主に「私は知らない」といわれる人々が出てきます。彼らには、「悟り」がなかったのでしょう。

”20 では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。
21 それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。”

知恵、悟りは隠されています。 また、終末の預言の正しい解釈も隠されています。
これは、隠されており、普通に見てもわからないのです。このことをはっきりと理解しなければなりません。しかし、主に真の「悟り」を求める人のみがそれを理解し、悟るようになるでしょう。
「空の鳥」は霊に関係します。以下のように書かれています。

ヨハネの黙示録 18:2 彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。”

サタン、悪霊は、何もかも知っているようですが、しかし、この「悟り」とは無権です。

”22 滅びの淵も、死も言う。「私たちはそのうわさをこの耳で聞いたことがある。」”

滅びの淵や、死もそのうわさを聞いたことがあります。しかし、彼らはそれを持っていないのです。

ですから、終末の日に、「滅びの淵」に入る人々、また、「永遠の命」を受け損ない、「死」をつかんでしまう人々は、「悟り」とは無縁であることがわかります。

”23 しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。”

神のみが、その道を御存じであり、またその「悟り」の場所を御存じです。
ですから、この混沌とした多くの情報が錯綜する終末の時代、何が正しいのかの判断、理解、すなわち、「悟り」はただ、神のみから来るのだということを覚えて下さい。

”24 神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。”

神は「地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られ」ます。何のためでしょうか。
「エホバあまねく全地をみそなわし、己に向かいて心を全うするもののために力をあらわしたまわん」
と書かれています。ですから、真に神に向かって心を全うする人々をさがすためなのでしょう。そして、それらの人々にこの悟りが与えられます。

”25 神は風を重くし、水のはかりで量られる。
26 神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。”
27 そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり(数え)、これを定めて(固め)、調べ上げられた(探す)。”

神は知恵を「数え」ます。すなわち、終末の日、神から、「知恵」を受け、理解し、その結果さばきから、免れる人々の数は限られており、神はその数を「数える」のです。

また、神は、その「知恵」「固め」「安定」させます。あやふやな知恵や悟りは危ないですが、しかし、この「知恵」を受ける人々は終末に関するはっきりとした「悟り」、理解を得るでしょう。

また、神はその「知恵」を誰に与えるか、ふさわしいのは誰か「調べ上げ」ます。
私の理解が正しければ、この神の調査はすでに始まっています。

”28 こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」”

さて、結論がここに記されています。

このようにこれらの節の中で、「悟り」が非常に強調されています。この悟りは、頭が良いから、IQが高いから与えられるというものではありません。はたまた、学校の成績がよいから、与えられるというものでは、決して、決してないのです。

ここにはっきりと書かれているように、主を恐れる人々は、この知恵を得ていくでしょう。
初降臨の日、主を恐れたシメオン、アンナはまだ幼子の主イエスを見て、判然とこの方が、救い主であるとことを「理解」しました。彼等には、「悟り」「知恵」が与えられていたのです。
ですから、神は、主を恐れる者に「知恵、悟り」を与えようとしておられ、
その知恵を与えられた人は、はっきりと明瞭に何が真実かを理解するのです。これは、終末の日も全く同じです。この知恵は、神から与えられることを覚えなければなりません。

また、「悪から離れることは悟りである。」と書かれています。逆にいうと、悪の中にいる人々は、決して、終末の神の難問、錯綜した状況を「悟る」ことができず、滅んでいくでしょう。

逆に神は終末の日に「みことばを曲げること」を止めようとしない自称「知者」達をわなにかけることを計画しています。ですから、終末の日は、教会においてもこの世においても、多くの情報が錯綜し、何が真実か理解するのが、難しい日になるでしょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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