No.157 ことばは神である
テキスト: ”ヨハネの福音書 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”
本日は「ことばは神である」という題でメッセージしたいと思います。
聖書の中で神ご自身がその本質について語っている個所があります。それは上記テキストの個所です。
ここで神ご自身が「ことばは神である」とはっきり述べているのです。この部分の動詞は、ギリシャ語のアオリストであり、過去、現在、未来どちらにも訳せる時制なのです。
ですから、「ことばは神であった」と過去形にも、「ことばは神である」と現在形にも訳せる
のです。
神はご自身に関して、「像は神である」とは、いいませんでした。だから、キリストやマリヤ
の像やイコンに何か特別な意味があるとは、語られなかったことがわかります。
しかし、ことばに関しては、「ことばは神である」と神ご自身がはっきり述べている以上、
私たちはこの神のことば、聖書をどのように扱うのか、慎重にならなければならないことが
わかります。
ですから、像を取り扱うことが直接、神をどう扱うかにつながるとはいえないかもしれませんが、しかし、神のことばをどう取り扱うかは、私達が神ご自身をどう取り扱ったかにつながるのです。何故なら、神はご自身について「ことばは神である」とはっきり述べているから
です。
さて、このことを念頭に置き、上記テキストを見ていきます。
”1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”
ここで書かれている「ことば」とは具体的にはキリストです。キリストは「ことば」
であると聖書は記しているわけです。
”11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。”
しかし、このキリストが地上に来られた時、悲しむべきことが起こりました。
それは、彼が自分の民、神の民であり、聖書に親しんでいる民である、ユダヤ人には受けいれられなかったのです。
”12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”
多くの神の民は彼を受け入れず、逆に十字架につけ、殺してしまいました。しかし、全ての
人がそうであったわけではありません。少数の弟子達、すなわち「その名を信じた人々には」「神の子どもとされる」特権が与えられたのです。
”14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。”
さて、上記の記述の後、もう一度このヨハネの福音書は”ことばは人となって、私たちの間に住
まわれた。”すなわち、キリストは「神のことば」なのだということを述べています。
すなわち、この章の冒頭ではっきり「ことばは神である」ことを述べ、またここで、キリストが「神のことば」であることを述べているのです。
さて、このように聖書が2度同じことを記していることにより、わかってくることがあります。また、伝えようとしていることがあります。それは上記の”11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。”ということばです。
このことばは一面、神の民、ユダヤ人がキリストを受け入れなかったことを述べています。
しかし、もう一つ隠れたような形で述べていることがあります。それは、実は彼らは「神のことば」を受け入れなかったのだということです。
そしてこのことは終末の日の型なのです。イエスの時代に彼を受け入れず、エルサレムともに裁かれてしまった神の民がいたように、終末の日にも「神のことば」を受け入れない神の民がいます。そして、彼らは裁かれるのです。
このことは黙示録に暗示されています。それを見ていきたいと思います。
”黙示1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。”
順に見ていきます。
”私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐
とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。”
黙示録は誰が書いたのかということにも語りかけ、暗示があります。
それは、使徒ヨハネであり、彼は「神のことば...のゆえに、パトモスという島」に流されて
いたのです。
使徒ヨハネは先程のヨハネ1章の「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信
じた人々」です。そして、彼はそのゆえに、すなわちキリストのことばを受け入れたゆえに
「苦難と島流し」にあっていたのです。
さて、この後にキリストに関する記述があります。ここには裁きの主が示されており、その「口からは鋭い両刃の剣が出て」いることが書かれています。
この両刃の剣とは「神のことば」のことです。何故なら、以下のように書かれているからです。
”エペソ人への手紙 6:17また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。”
ですから、黙示録の時代には神のことばを受け入れず、「進化論は正しい」「創世記は神話だ」などという人々には裁きがくることが予想されるのです。
このことは他の黙示録の個所にも記されています。以下の個所です。
”黙示録19:
13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖を
もって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶね
を踏まれる。”
順に見ます。
”13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。”
この方はキリストであり、この方は裁きの血にそまっています。そして、彼の名は「神のことば」と呼ばれます。ですから、ここでは「神のことば」を受け入れず、軽率に批判する人々への裁きが暗示されるのです。
”14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。”
”天にある軍勢”とは天にある、すなわち地についたり、この世についてはいない真の神
の民のことです。彼らはキリストのことばに聞き従います。
”15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもっ
て彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。”
”鋭い剣”とは御霊の剣、神のことばです。ですから、ここでの裁きは神のことばを受け入れない神の民への裁きなのです。
しかし、私達にあっては、このことばに忠実にみこころを行っていきたいと思います。