艱難前携挙説、段階携挙説は聖書が語る教えではない

 

 

f:id:yuumamatan:20240121083351j:image

No.143  怪しい患難前携挙説
 

キリストが患難時代の前に空中再臨して、クリスチャンを携挙するという患難前携挙説、段階携挙説は広く教会に行き渡った教えです。しかし、この教えはよく調べてみると、非常に怪しい説であり、多くのみことばと矛盾します。まともに信ずるに足らない教えではないかと私は思っています。聖書はむしろ始めから患難後(末期)携挙説を語っており、この教理には他の聖書箇所との矛盾がありません。

以下のように、患難末期携挙説に比べて患難前携挙説、段階携挙説は無理に聖書の解釈をねじ曲げないとなりたたないものです。(以下は小石牧師の本、また久保有政牧師の
「終末の時代に起こること」の引用です。)

 

1. 患難前携挙説、段階携挙説は不自然なキリストの2度に渡る再臨を前提とする:

 

(X)患難前携挙説、段階携挙説はキリストが2度に渡って再臨することを前提としないとなりたたない。しかし、聖書の中にはキリストが2度に渡って再臨することをはっきりと支持する箇所はない。この説の根拠とされる1テサ4章、マタイ24:36ー42のことばからも”2度にわたる”再臨は導き出されない。

 

(○) 患難後携挙説は不自然かつみことばに支持されていない「キリストの2度に渡る再臨」を前提とする必要はない。

 

2. 教会への導入のされ方の問題:

 

(x)アメリカ宗教辞典によれば、患難前携挙説、段階携挙説はイギリスの女性霊媒の幻を通して教会に入ってきたものである。再考の余地あり。

 

(○) 患難後(末期)携挙説は昔から、普通に聖書を読むクリスチャンにより支持されてきた考えであり、特別な幻に頼らなくてもなりたつ説である。

 

3. ”第一の復活”の前に聖徒を復活させないと患難前携挙説、段階携挙説はなりたたない:

 

(X) ”第一の復活、最初の復活”が患難時代の終りにあると黙20:4に書いてある。第一と書いてある以上これが終末における最初の復活である。しかし、患難前携挙説、段階携挙説はその前に聖徒を”復活”させないとなりたたない。教理や説のために、みことばを曲げなければならない。

 

(○)患難後(末期)携挙説は復活に関するみことばを曲げなくても成り立つ。

 

4. 最後のラッパ、第7のラッパを2回鳴らさないと患難前携挙説、段階携挙説は成り立たない。

 

(x)患難前携挙説、段階携挙説に立つと聖書に「最後のラッパ、第7のラッパ」と書かれているラッパが2回鳴るという不自然な解釈をしないと説が成り立たない。本当にそうなら、神様は第8のラッパ、もしくは最後のラッパ1、最後のラッパ2とでも書くはずだし、ここには矛盾と混乱がある。

 

(○)患難後(末期)携挙説はそのような不自然なラッパの解釈をする必要はない。

 

5. 患難前携挙説、段階携挙説は「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」(黙示三・一○)とのことばの原意と矛盾する。

 

(x)患難の前にあげられて守られるという患難前携挙説、段階携挙説は(黙示三・一○)のことばの原意と矛盾する。
「試練の時には」の原語のギリシャ語はエク(ek)であり、「試練のただなかで守る」と訳すのが忠実な訳である。

 

(○)患難後(末期)携挙説はクリスチャンが試練のただなかで守られることを語っており、
このことばと矛盾しない。

 

6.  患難前携挙説、段階携挙説は「これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子(キリスト)が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタ24:33)とのみことばに矛盾する。

 

(x) 「これらのことのすべて」とは、文の前後関係を読むと、患難時代初期の戦争の多発や、偽キリスト、患難時代中期のエルサレムじゅうりん、および患難時代末期の天変地異などを、みな含んでいます。主は、「これらのことのすべて」を見たら、ご自身が再臨の「戸口まで近づいている」と知りなさい、と言われた。この記述と「これらのことすべて」を地上で経験せず、その前に挙げられると語る患難前携挙説、段階携挙説とは矛盾する。

 

(○) 患難後(末期)携挙説はこのみことばと矛盾しない。

 

7. 患難前携挙説、段階携挙説は福音書の中にもその根拠を見い出せない。

 

(x)患難前携挙説、段階携挙説はキリストの二段階の再臨が前提である。しかし、四つある『福音書』のうち、三つは、患難時代とキリストの再臨について言及しているが、そのどれもが、キリスト再臨は二段階であるとは述べていない。

 

(○) 患難後(末期)携挙説はキリストの二段階の再臨を前提とせず、福音書との矛盾がない。

 

8. パウロはキリストの再臨に関して、「まず教会の携挙が起こらなけれぱ、主の日は来ない」とは書かなかった。

 

(x)彼は「不法の人、すなわち減びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」(2テサ2:2~3)と書いた。問題は、携挙がもし患難時代前ならば、なぜ使徒パウロはここで、「まず教会の携挙が起こらなけれぱ、主の日は来ない」と書かなかったのか、ということである。。教会の携挙は、誰にでも識別できるサインなので、もし患難時代に先立って携挙があるのなら、そう書いたはずである。しかしパウロは、そうは書かなかった。彼は、「まず背教が起こり、不法の人・…が現れなければ、主の日は来ない」と書いたのである。「不法の人」とは、黙示録で象徴的に「獣」と呼ばれている独裁者のことであり、「不法の人」が現われてのちに、「主の日」(キリスト再臨の日)
が来るのである。

 

(○) 患難後(末期)携挙説は「不法の人、すなわち減びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」(2テサ2:2~3)とのことばと全く矛盾しない。

 

以上のように、患難時代前携挙説、段階携挙説vs患難後(末期)携挙説の対比は0対8で圧倒的に患難後(末期)携挙説に聖書的には分があることがわかる。もう少し、詳しく調べれば更にこの差は広がると思われます。客観的に見るならどちらが聖書的なのかは一目瞭然である。

ーーーーーーーー

上記の内容をもう少し詳しく見ていきます。

 

1. 患難前携挙説、段階携挙説は不自然なキリストの2度に渡る再臨を前提とする:

患難前携挙説、段階携挙説の根拠は以下のことばとされている。

 

”テサロニケ人への手紙第一 4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。


15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。


16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、


17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

 

”マタイの福音書 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。


41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。


42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。”

 

これらの説は確かにキリストの再臨について語っているであろうが、「2度にわたる」再臨について述べているようには見えない。

 

2. 教会への導入のされ方の問題:
アメリカ宗教辞典」によれば、この患難前携挙説、段階携挙説は1830年イギリスの霊媒であるマーガレット マグドナルドが見た幻がもとで教会に紹介されたものである。近代神学のように、新しく教会に入ってきた教えなのである。
 

3. ”第一の復活”の前に聖徒を復活させないと患難前携挙説、段階携挙説はなりたたない:

患難前携挙説、段階携挙説はもともと聖書が語っている教えではないので、色々と聖書のみことばとぶつかり、矛盾する。その一つは”第一の復活”の前に聖徒を復活させないとこの説が成り立たないということである。

聖書は、患難時代末期におこるキリスト者の復活を、「第一の復活」と呼んでいます。「(イエスにある殉教者らは)生き返って、キリストと共に千年のあいだ支配した。…これが第一の復活である」(黙示二○・四~六)。「第一の復活」という以上、それは最初の集団的復活であって、それ以前に人々が集団で復活することはあり得ません。この「第一の復活」は、患難時代の終わり頃に起きるのです。聖書によれぱ、携挙が起こるのはその時です。「(キリストの再臨が起こると)キりストにある死者が、まず初めによみがえり(復活)、次に、生き残っている私たちが、たちまち雲の中に一挙に引き上げられ(携挙)…」ニテサ四:一六~一七)。

 

このように順序は、
1). キリストの再臨
2). 復活
3). 携挙です。


ですからこのうち"復活"(第1の復活)が患難時代の終わり頃であるなら、"携挙"もまた、患難時代の終わり頃でなけれぱなりません。聖書の言葉を最も単純に解釈すれば、キリストの再臨も、キリスト者の復活も、携挙も、すベて患難時代の終わり頃であるはずです。

これを無理に合わせようとすると、第1の復活が2度あるとか、(第1の復活その1、第1の復活その2とでもいうのか?)みことばを曲げなければなりません。
どんなふうにでも”説”に合わせるためにみことばを曲げていいというなら、私達はみことばを曲げる異端の人々を非難することはできなくなります。

 

4. 最後のラッパ、第7のラッパを2回鳴らさないと患難前携挙説、段階携挙説は成り立たない。
 

「終わりのラッパ」とは「第七のラッパ」である。聖書は、キリストが来られるのは「神のラッパの鳴り響く」時である、と述べています(1テサ四:一六)。また別の箇所では、
「終わりのラッパの響きとともに、(私たちは)またたく間に、一瞬にして変えられる。というのはラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ(復活)、わたしたちは変えられるのである(携挙)1コリ15:52)とあります。つまりキリストの再臨・復活・携挙が起こるのは、「終わりのラッパ」の鳴り響く時です。この「終わりのラッパ」とは、黙示録に記された「第七のラッパ」に違いありません。

 

黙示録には、患難時代の各段階を示すために吹かれる「神のラッパ」が七つ記されていますが、「第七のラッパ」はその最後のものです。「第七のラッパ」は、患難時代末期の開始を告げるために吹かれます(黙示11:15)。このラッパは非常に特別なラッパとされ、それが吹かれるとき神の奥義が成就する、と言われています。「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべてある預言者たちに告げられ
たとおりに成就する」(黙示一○・七)。ここで、神が預言者たちに告げてこられた「神の奥義」とは何でしょうか。それは終末の審判と、キリストの再臨についての事柄です。

 

黙示録は、「第七のラッパ」が吹かれた時、「地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時が来た」(11:18、14:7)と述ぺています。さらに「人の子のしるし」(マタ24・30)が天に現われ(黙示12:5)、「白い雲が起こり、その雲に人の子のような方(キリスト、ダニ七・一三)が乗っておられた」(黙示14:14)、と。このように「終わりのラッパ」つまり
「第七のラッパ」は、患難時代の末期に吹かれ、そのとき神の奥義が成就します。てすからキリストの再臨・キリスト者の復活・携挙は、いずれも患難時代の終わり頃に起こる、と思われます。

 

5. 患難前携挙説、段階携挙説は「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」(黙示三・一○)とのことばの原意と矛盾する。
 

患難時代「前」携挙説をとる人々は、「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」(黙示三・一○)という聖句の「守ろう」は「携挙する」の意味である、と考えます。その理由として、「試練の時には」の「…には」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語ては「…から」とも訳されるエク(ek)であることをあげています。それで試練の時「から」あなたを守ろう、つまり試練の時を経験しないように守ろう、という意味に訳せると主張するのです。

 

しかし原語に忠実な聖書訳はみな、「試練の時から」とは訳していません。

「試練の時には」です。もし試練の時を経験しないように守るという意味であれば、エクよりはアポ(apo…を離れての意)が用いられ
たであろう、とギリシャ語学者は述べています。「試練の時には守ろう」は、試練のただ中で守る、という意味にとったほうが適切と思われます。神がクリスチャンたちを「守る」場合、患難の前に携挙して守る場合と、患難の''ただ中で守る"場合とがあります。聖書を調べてみると、神は聖徒たちを、一般的に患難の"ただ中で守って"こられました。

 

たとえば、神がモーセを通してエジプトに「十の災」を下されたとき、イスラエルの民はどこにいたでしょうか。彼らはエジプトにいました。しかし、その患難の"ただ中で"守られたのてす。また地上に大洪水が起きたとき、ノアとその家族はどこにいたでしょうか。彼らは大洪水の"ただ中で"箱舟によって守られたのです。患難時代「前」携挙説の人々は、「しかしエノクは、大洪水の前に天に携挙された」といいますが、エノクが携挙されたのは、大洪水の六百年以上前です。エノクは、大洪水が近づいたから携挙されたのではありません。エノクの携挙と大洪水との間に、直接的関係はありません。

 

また、「あなたを守ろう」の句の前後関係も、クリスチャンたちの携挙が患難時代に入った後であることを、示しているように思えます。「あなたを守ろう」の句は、次のように続いているのです。「わたし(キリスト)は、すぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、あなたの持っているものを、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの聖所の柱としよう」(黙3:11~12)もし患難時代の前に携挙があって、患難時代に地上にクリスチャンがいないのであれば、なぜ「あなたを守ろう」と言った後に、「持っているものをしっかりと持っていなさい」とか、「勝利を得る者を・…」と言われているのでしょうか。クリスチャンたちは患難時代を通過するからこそ、その試練に対してこうした励ましが与えられたのだ、と考えたほうがはるかに埋解しやすいよ
うに思えます。 

 

かつてキリストは、次のように祈られました。「彼ら(クリスチャンたち)をこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守つてくださるようにお願いします」(ヨハ17:15)。この「守って」という言葉は、原語において、先の「試練の時には守ろう」の「守る」と同し言葉です。したがって、神がこれまでなさって来られた事柄から考えて、クリスチャンは患難時代の"ただ中で"守られると考えたほうが、より聖書に合致するように思われます。

 

6.  患難前携挙説、段階携挙説は「これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子(キリスト)が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタ24:33)とのみことばに矛盾する。

イエス・キリストは、弟子たちにご自身の再臨の時のことについて尋ねられたとき、患難時代に起こるはずの様々な出来事を語られ、その後こういわれました。「これらのことのすぺてを見たら、あなたがたは、人の子(キリスト)が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタ24:33)。「これらのことのすべて」とは、文脈上何を意味しているでしょうか。それは文の前後関係を読むと、患難時代初期の戦争の多発や、偽キリスト、患難時代中期のエルサレムじゅうりん、およぴ患難時代末期の天変地異などを、みな含んでいます。

 

主は、「これらのことのすべて」を見たら、ご自身が再臨の「戸口まで近づいている」と知りなさい、と言われたのです。すなわち、患難時代に起きるべき様々な出来事がみな起きてしまって初めて、キリストが再臨の戸口まで近づいたと言えます。これは、患難時代の前にキリストの空中再臨があるとする説と矛盾します。もし患難時代前に「空中再臨」であれ何であれ再臨があるなら、キリストがこのように言われるはずがないのです。
患難時代の様々な出来事がみな起こってしまうまでは、キリストは再臨の戸日までも近づいておられないのです。このことから、キリストの再臨は二段階ではなく、患難時代の末期にただ一度行なわれるものであることがわかります。

 

 略

 

8. パウロはキリストの再臨に関して、「まず教会の携挙が起こらなけれぱ、主の日は来ない」とは書かなかった。「まず不法の人が現われなければ」キリストは来られない次の事柄も、キリストの再臨や携挙が患難時代の前にあるのではないことを示しています。聖書によると、初代教会の時代に、ある人々が、「主の日(キリスト再臨の日)がすでに来たかのように」言いふらしていました。そこで使徒パウロは、そうした言葉に惑わされないよう、信徒らにこう書き送りました。「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち減びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」(2テサ2:2~3)

 

間題は、携挙がもし患難時代前ならば、なぜ使徒パウロはここで、「まず教会の携挙が起こらなければ、主の日は来ない」と書かなかったのか、ということです。教会の携挙は、誰にでも識別できるサインですから、もし患難時代に先立って携挙があるのなら、そう書いたはずです。しかしパウロは、そうは書きませんでした。彼は、「まず背教が起こり、不法の人・…が現れなければ、主の日は来ない」と書いたのです。「不法の人」とは、黙示録で象徴的
に「獣」と呼ばれている独裁者のことです(同2:4~12)。「不法の人」が現われてのちに、「主の日」(キリスト再臨の日)が来るのです。キリスト再臨は、「獣」(独裁者)が地上を荒らしまわるようになった後に起きます。それ以前に、キリストが「空中」までであれ何であれ、再臨されることはないでしょう。順序は、「獣」の出現ーキリストの再臨ー携拳なのです。「獣」の活動がなされるのは、患難時代中期から末期ですから、携挙も患難時代の終わり頃であるはずです。「まず不法の人が現われ」、患難時代が末期まで進み、そののちキリストの再臨、および教会の携挙がある、と考えられます。

 

教会は、患難時代の大部分を地上で経験するでしょう。しかし教会、すなわち一人一人のクリスチャンは、「全世界に来ようとしている試練の時にはあなたを守ろう」(黙示三:一○)と言われた主の御言葉に従い、そのただ中で守られるのです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240121083330j:image