黙示録に出てくる金銀の神々とは何か

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通算NO.135 金銀の神々
 
テキスト:”黙9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、


21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。”

 

本日は「金銀の神々」という題でメッセージしたいと思います。聖書の中では、よく金銀の神々を拝することが書いてあります。これらは何をさすのでしょうか。それを見ていきたいと思います。

さて、テキストの黙示録の箇所では、人々が金銀の神を拝んだことが書いてあります。このことは何を意味しているのでしょうか。

私たちがこの書を解く前に、まず、黙示録はたとえの書であることを理解しなければなりません。主イエスはかつてたとえを理解しない弟子達を叱責しました。聖書の他の書もそうでしょうが、特に黙示録は特にたとえが多く使われている書なので、それを正しく理解することが必要です。

 

<金銀>については以下のような聖書の箇所があります。

 

”2テモテ2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。


21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。”

 

ここでいう金銀とは、神の家の器、働き人のことをさすことがわかります。ですから、テキストの黙示録の箇所がもしたとえだとしたなら、金銀の器、すなわち神の働き人を拝む罪について語っているのかもしれません。

また、テキストには、”見ることも聞くことも歩くこともできない偶像”ということばが使われています。これらに対しても似たような表現が他にあります。

 

使徒28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。


26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。


27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』”

 

この箇所では、パウロユダヤ人の霊の目が見えず、耳が聞こえないことについて語っています。ですから、”見ることも聞くことも”できない偶像とは、霊の耳、目が開いていない器を拝むことをさしているのでしょう。また、”歩くことができない”とは、歩み、行いのない器のことでしょう。

また、偶像を拝むことについて考えてみましょう。十戒の一番初めに偶像崇拝について記してあります。

 

”申命5:7 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。


8 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。


9 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。”

 

何故、このような教えを新約のクリスチャンである我々が日々読まなければならないのかを考えてみましょう。これらの言葉は、バアルやアシラを拝んでいた旧約の民への警告としてならわかります。しかし、今の時代に、教会へ行きながら、なおかつ、仏やお地蔵さんを拝むクリスチャンはいないのです。カソリックの人々が、マリヤやキリストの像を拝む可能性はあるかもしれませんが、それにしても大多数のプロテスタントの人にとっては、決して犯しそうもない罪についてここには、書いてあるのです。

これらのことばは今の我々に何の益があるでしょう?


しかし、聖書の多くのことばは今の時代の私たちにあてて書かれたものです。ですから、十戒を通して神が真に語ろうとしていることを正しく捕えなければなりません。クリスチャンこそ実は偶像を拝みやすいものであり、目に見えない神より、目に見える器に仕えやすいものであることを知らなければなりません。

 

さて、冒頭の黙示録の箇所には人々が”金、銀、銅、石、木で造られた”偶像を拝んだことが書いてあります。似た表現が以下のダニエル書にあります。

 

”ダニエル5章 1 ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。


2 ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。


3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。


4 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。


5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、


6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

 

22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。


23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。


24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。”

 

バビロンの王ペルシャツアル王はこのできごとの後、すぐ滅ぼされてしまいました。ですから、このできごとは神の前に彼が滅ぼされる理由となるできごとです。更に見るなら、バビロンは終末の日に滅ぼされる淫婦バビロンの型です。ですから、このでぎごとは終末の淫婦バビロンが何故、滅ぼされてしまうかを理解する鍵ともなるのです。順に見ていきましょう。

 

”1 ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。”

 

ペルシャツアル王がもしたとえなら、何をたとえた人物なのかを考えてみましょう。彼がバビロンの最後の王、最後に滅ぼされた王であることがヒントになります。バビロンはユダの民、すなわちダビデ以来の神の民の王朝の最後の世代が捕え移された町です。それはそのまま、新約の神の民が最後に捕え移された状態、淫婦バビロンの型となるのです。

ですから、旧約時代のバビロンの最後の王が何故滅ぼされたのかを解くことは、新約の淫婦バビロンが何故、滅ぼされるかを解く鍵となります。

 

”ぶどう酒を飲んでいた”と書いてあります。ぶどう酒は聖霊をあらわすたとえとして用いられることが多くあります。ですから、ここでの記述は教会に関するたとえ、予表としても解釈できるでしょう。ですから、この箇所は異邦の王に関することがらについて書かれているようですが、実は、終末の神の民の王に関する預言なのです。

 

”2 ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。”

 

エルサレムの宮から取って来た金、銀の器”についてここで書いてあります。これらの器はエルサレムがバビロンにより征服されたために、略奪され 持ってこられたものです。終末の日にも同じことが起こります。本来神の宮にあり、そこで神を礼拝するために用いられていた器達、すなわち神のはたらき人がその本来の場所、先祖のゆずりの地から捕え移され、バビロン、すなわち乱れー混乱の中へと移される日がきます。

 

”3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。”

 

ここでも、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器”について書いてあります。この箇所で、このような表現が計3回も使われています。意味があることだということがわかります。本来神をたたえるために用意されていた神の宮の器をバビロンの地へ捕え移した罪は大きいのです。すなわち、神の器をバビロン、乱れの中へ捕え移した、この終末の時代への裁きは大きいのです。

 

”4 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。”

 

ここで、彼等が排しているのは、偶像の神々であり、それは、終末の時代における器崇拝ー働き人を拝するーをたとえで表わしたものです。終末の日にも人々は”金、銀、青銅、鉄”の神の器達を崇めるようになります。そして、これは偶像崇拝の罪なのです。さて、ここで一つ気づくことがあります。それは神々をさす時も、また器をさす時も<金銀>という似た表現が使われているということです。以下のようです。何故なのか、考えて見て下さい。

 

1)エルサレムの宮から取って来た金、銀の器”

2)”金、銀、青銅、鉄、木、石の神々”

 

何故でしょうか。それは、すなわち、エルサレムの宮の金銀の器こそ、ここで人々が拝んでいる金銀の神々に通じるものであることを暗示しているのです。すなわち神々を拝むことは、器崇拝のことをさすことを暗示しているのです。そして、エルサレムの宮の器とは今で言う、神の宮、教会の器、働き人のことなのです。

 

”5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、


6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。


24 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。”

 

ここで書かれている”人間の手の指”は複数です。私はこれは聖書をさすのではないかと思っています。ここでは神から送られて文字を書く複数の人の手の先が記されています。そして、聖書はまさにそのような書だからです。多くの人の手がこの書を書いたようですが、しかし、それらの真の著者は神ご自身だからです。そして、この書はこのバビロン、世についた神の民への裁きについて書かれているのです。

 

”23 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。”

 

ここでも主の宮の器と金、銀の神々が平行して書かれています。確かにこれらは関係があるのです。聖書はことさらのようにこの2つを対比的に書いているのです。

また、”見ることも、聞くことも、知ることもできない”神々との表現に注目して下さい。このことばはテキストの黙示録の以下の表現ととても似ています。

 

黙9:20”金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け”

 

ですから、確かにこれらは<器崇拝>のことをさしていることがわかります。ですから、私たちは、この終末の時代に、”あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえ”ないようではいけません。

 

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
 

ー以上ー

 

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