70週の終わりに殺される王とは。そして殺す者とは。

f:id:yuumamatan:20240419213611j:image

 

No.236 「70週の終わりの王殺し」


テキスト:”ダニエル9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

 

本日は「 70週の終わりの王殺し」という題でメッセージします。神の統治の末の時代に不法に陥る「神の民」「王殺し」を行うということを見ていきたいと思います。

テキストはダニエル9章です。順に見ていきます。

”9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。”

ここで聖書は、「あなたの民とあなたの聖なる都」、今でいえば、新約の神の民、クリスチャンに関して「七十週が定められている」と語りました。

実際の年月を考えるなら、このエルサレムを再建せよ」との命令が出た時から、終末と思われる現在の時まで、2千数百年、経っています。この数字は、決して、70週でもまた、70 x 7=490年でもありません。しかし、聖書はそのように書き、「終末のその時までは、70週」なのだと強弁します。これを見ると、この「70週」ということばに何か隠された意味あいがありそうです。どうしても「70週」でなければならない理由が何かありそうなのです。

それを考え、70週の意味あいを見てみましょう。
70週の意味あいの一つは、「兄弟の罪を許す」期間であるということです。以下の通りです。

”マタイの福音書 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

「七度を七十倍(70の7)」までは神は忍耐されるのです。しかし、決して「無限に罪をゆるし、忍耐する」のではなく、この70週が過ぎれば「裁きの時代」にはいるのです。
70週の最後の半周(3年半)はよくいわれる大艱難時代です。この時、「真に主につく人々」への迫害が起きます。しかし、主が忍耐し、罪を赦すのは、「七度を七十倍するまで(70の7=70週)」迄であって、この三年半の「聖徒達への艱難の時代」が終了し次第、すぐに「裁きの時代」に入ります。
その時は、黙示録に記されている、「淫婦への裁き」の時なのです。

さて、70週(70の7)という数字を考えてみましょう。
聖書は「知恵ある方」が著者であるといわれている唯一の本なのですから、この書のあらゆることがらに神の知恵が満ちています。数字においてもしかりです。

聖霊にあって、これを見ていく人々はこれを悟ります。

70週(70の7)とは明らかに2つの数字からできている数字です。
すなわち70及び7です。まず始めに7という数字をみましょう。7とは黙示録に「7つの教会」と書かれているように教会と関係がある数です。

さて、70に関してみていきます。これに関して以下のような箇所があります。

イザヤ書 23:15 その日になると、ツロは
、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。”

70年は「ひとりの王の年代」なのです。

ですから、この2つの数字、70と7がかけあわされた数字である70週(70の7)とは、「一人の王が教会(旧約においては神の会衆)を治める統治の期間」であることがわかります。

この一人の王とは誰のことでしょうか。こんなに長い間、民を納める王とは誰のことでしょうか。
その一人の王についてサムエル書はこう記します。

”サムエル8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。”

この「一人の王」とは神御自身であり、教会時代においては聖霊なる方のことなのです。
そして、70週の終わりに神の民に裁きが下るとは、彼らがこの王なる方に人々が不従順であったことを暗示します。

このダニエル書の箇所では、69週の後に、すなわち70週の終わり頃、すなわち、神の民を治める方、主なる神の治世の終わりに「油塗られた方」が絶たれる、すなわち殺される事が記されています。
これは具体的には主イエスの十字架のことです。そしてこの主の十字架の死はこの70週の預言と密接に関連していることをこの箇所は述べます。ですから、いわんとしていることはこういう事です。
主イエスの十字架の死のもう一つの隠された面があるということをこの箇所は言っているのです。

この死は単にナザレの人が33年の人生を終えたということだけではないのです。そうではなく、70週に渡るこの神の国、すなわちこの地上において、唯一神が支配されるイスラエルの国の最後の最後になって、「神の民」はそのそむきのきわみに達して、あろうことか、その「王」を殺す、十字架につける、そのことをいっているのです。主イエスの死は、一面では人間としてナザレ人と呼ばれた人の死ですが、もう一面は70週(70 x 7=490年)にわたって、この国を統治してこられた方、神御自身を殺すことをさすのです。

主イエスが十字架につけられる前にポンテオピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか」との問いに「その通りだ」と答えたことを思い出して下さい。彼らはこの「王」を殺したのであり、神の国を統治したまさにその王なる方を殺したのです。これを「そむきのきわみ」といわないで何というべきなのでしょう。

上記ダニエル書の「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ」という言葉も実は、「王殺し」を暗示することばです。

旧約聖書をよく読む人は「油そそがれた」とはある特定の人々と結びついた表現であることを知っているはずです。
たとえば、秋葉原といえば、暗黙の了解として「電気街」という連想があります。また、霞ヶ関と聞けば、「役人の街」というような連想があります。

同じように「油塗られた者」とはある特定の人々と関係しています。そもそも「油注ぎ」は旧約において、「王」が建てられた時に行う儀式なのです。サウル、ダビデ、ソロモン等、歴代の王は「油注ぎ」を受けて王としてその任につくのです。

ですから、「油注がれた者は断たれ」という時、実は「王殺し」を暗示した表現なのです。
そして、もう一つ暗示していることがあれば、それは神の油、聖霊に関することがらだということです。

さて、この70週の預言はこの主イエスの時だけに成就するのでなく、終末の時代にもっと本格的に成就することは多くの人が知っていることです。
そして、この時、この「70週の終わりの王殺し」ということがらはもっと明確に成就します。

それを成就することばとして、黙示録には「ソドム、エジプトと呼ばれる都で十字架につけられる主」について書かれています。この主とは聖霊としてこの教会という神の国(王国)」を70週にわたって、統治した方のことです。新約の神の民もその70週の終わり、治世の終わり、そむきの罪のきわまった時、その象徴的なことがらとして、「王殺し」に加担します。

この時の王は聖霊として70週にわたる「教会時代」を治めた方をさします。
聖霊は霊なので、霊を殺すとか、十字架につけるとかはおかしな表現と思う人もいるかもしれません。
しかし、具体的にはこのことは、「油注がれた者」達の殉教という形で起こるでしょう。
以下の黙示録11章の預言者で象徴される終末の神の民のことをさします。

”黙11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

これは単に二人の個人をさすのではなく、二つの燭台と書かれているように終末の2つの教会をさすのです。彼らの死、死体に関して同じ章にこう書かれています。

”黙示録11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

何故、彼らの死について書かれている箇所に「彼らの主もその都で十字架につけられた」ことが書かれているのでしょうか。聖書は神の知恵によって書かれているので、ほんのささいなことがらにも神の隠れた知恵が隠れています。それは、彼らを殺すことが実は、具体的には聖霊なる方、王なる方」を殺すことになるからです。

これはあたかも2000年前、肉体をもたれた方、イエスを殺すことがそのまま70週にわたりこの国を統治した王なる神を殺すことに通じたことと同じです。
主イエス「油注がれた方」であり、「王」に相当します。そして、この黙示録の2人の預言者もゼカリヤ書によれば、「油注がれた者」なのです。

ここには、「王殺し」という隠された意味あいが語られているのです。もちろん彼らは神でも、聖霊御自身でもないのですが、しかし、聖書はこの「油注がれた者たち」を殺すことがそのまま、教会を統治した聖霊なる方を殺すことに通じると語っているのです。主がそう語られるなら、我々はそう読むべきなのです。

ですから、この70週の預言には明らかに「神の民による王殺し」という隠された意味あいがあります。それを理解する時、この預言の語ろうとしていることがらが見えてきます。

次を見ます。

”25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。”

「引き揚げてエルサレムを再建せよ」とは、バビロンに捕囚された民に対して語られた命令です。
ですから、エルサレムの再建」、教会の回復とは、70週の始め、それこそ教会時代の始めから、神が命令され、計画されていることなのです。今私達はこのことに関わろうとしています。神の大きな計画にあずかろうとしていることを知るべきです。

「苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」と書かれています。広場は「人が集まる場所」としての教会のたとえでしょうか。ほりには、水があふれます。聖霊の働きが純粋なものへ、悪霊の働きの混ざったものから回復されることが伺われます。

”26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。”

油注がれた者は「断たれ」とは、以下の「断ち切られる」と訳されたことばと同じです。

出エジプト記 31:14この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」

要するに「油注がれた者」「神の民」の間から、排斥されるということです。
このことは、主イエスの時、起こり、「油注がれた者」主イエスは民の間から、排除され、殺されました。同じことが終末にも起こり、終末の日に聖霊を受けた人々が、神の民の間から、排斥され、また殺される日が来るでしょう。

その結果、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。」ようになります。
この「来たるべき君主」とは、キリストすなわち聖霊「油注がれた者」とは反対の者であり、悪霊の油注ぎを受けています。悪霊自身のことをいっているのかもしれないし、それを受けている人々のことかもしれませんが、何しろ、この霊は「町と聖所」すなわち、教会とその礼拝場所を破壊します。

「その終わりには洪水が起こり」ということですが、これはいわゆる水、H2Oによる洪水ではありません。何故なら、神は明白に、水による洪水を二度と起こさないことをノアに誓われたからです。
かえって、これはたとえであり、「水」により象徴される「霊」の洪水と思った方が正しいでしょう。
終末には、「霊の洪水」が起きます。「とりこにされるべき人々」はこれを「来るべきリバイバルが来た」と誤って呼ぶでしょうが、実際はこれは、「悪霊の洪水」です。

また「その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」ということです。
ですから、教会の荒廃は定められているのです。

その理由は何故でしょう。何故、70週の終わりに教会は荒廃するようになっているのでしょう。
それは、この神の国(領土)」である教会を70週に渡って治められた方をその治世の終わりに殺すからです。かつてイギリスのピューリタン革命の時、イギリスの王が首を切られて殺されました。
その後、この「王殺し」に加担し、署名した多くの人々は死刑になりました。王を殺して、無事に済むと思ってはいけないのです。

”27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」”

彼、反キリストは1週の間、すなわち7年の間、多くのクリスチャンと堅い契約を結びます。
この「契約」ということばは以下で使用されていることばと同じです。

出エジプト記 34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは<契約>を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。

出エジプト記 34:12 あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と<契約>を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。

出エジプト記 34:15 あなたはその地の住民と<契約>を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。

出エジプト記 34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと<契約>を結んだのである。」

出エジプト記 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に<契約>のことば、十のことばを書きしるした。”

これらのどれもこれも「神と人との契約」をさすことがわかります。聖書は、人と神との間の信仰、契約について書かれた本であり、政治に関する本ではありません。

だから、「7年の中東和平が来る」とか、「中東のイスラエルが周りの国々と7年の間、和平の契約を結ぶ」などという人々は、新聞の読み過ぎであり、「聖書の原則、基本的考え」に基づいてもう一度聖書を読みなおすべきです。

彼らは神の知恵により頼むよりも、むしろ人の知恵に満ちた解釈書を頼りにする愚か者であり、それゆえに、こんな「ガセネタ」をまんまとつかまされているのです。

ですから、聖霊を追出した神の民」聖霊ならぬ悪霊を受け入れ、信じ、頼り、祈り「契約する」7年間があるのです。そして、その中でますますこの「(悪霊の)リバイバルのうねり」は高くなり、その後半の三年半は「異端者」を排撃するようになるでしょう。

”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる”

聖霊に聞き従うことを禁止する三年半があります。

この三年半の「教会」の状態は、イエスの時代について語る以下のことばが説明していると思われます。

ヨハネ福音書 12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。”

三年半のイエスの公生涯の中で、「油注がれた者」キリストへの信仰、告白は神の民の権力者、パリサイ人たちによって「禁止」されていたのです。また、彼らはイエスを信じる者を会堂から追放しました。
これは驚くべきことです。神の長年の約束とおり、また神の民の祈りに答え、福音を携えてついに天から下った神の子を信じると、するとその人は何と神の民の会堂から追放されるというのです!

これは驚くべきことですが、同じようなことが終末にも起きるでしょう。終末の日、聖書の約束通り、後の雨は下り、約束の聖霊は下りますが、悲しいかな、その時、多くの神の民は聖霊ならぬ」霊を受けており、その悪霊の惑わしにより、この「方」を受け入れることを公に禁止し、それでもなお、この方(聖霊)を受け入れる人々を「教会から追放」するようになるのでしょう。これが、”半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる”と書かれたことの意味です。

そのような半週、3年半が70週の最後の最後にあるのです。

”荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。”

この部分は、KJV訳ではこうなっています。

「荒らす者があふれるために、彼はそれを完全に荒廃させる。定められたものが荒廃したものの上に注がれる。」

「あふれる荒らす者」とは洪水のような悪霊の注ぎかけであり、背信の教会は、このリバイバルの中で滅んでいくことがわかります。

ですから、「70週の預言」とは、神の国である「教会」を統治した王、聖霊の殺害を預言したものであることを知るべきです。

しかし、このような時代であっても私達はこの「王」なる方に忠誠を尽くしていきたいと思います。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240419213544j:image

主イエスの生涯は、後の日の聖霊の働きの「型」

f:id:yuumamatan:20240419075917j:image

 

No.235: 聖霊の型としてのイエス


テキスト:”マタイ12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。”

 

聖書を通して主イエスの生涯を見る時、はっきりと教えられることは、主イエスの肉体をもった生涯は、後の日の聖霊の働きの「型」だということです。

このように考えることが今の神学にかなったことなのかどうかは知りません。しかし、聖霊の型としての主イエスの生涯」は、確かに聖書が繰り返して語っているように思えます。それでそのことを今日は見ていきたいと思うのです。

エスはこういう方だとか、聖霊はこうだとかの類いの話をすることは、今のキリスト教会ではなかなか難しいことのようです。何をいっているかというと、これらの話題に関して少しでも今までの神学と異なることをいうと「三位一体の教理と外れている」「異端だ」などといいだすヒステリックな人々が多いからです。しかし、そうではあっても、私達がこの時代に主のしもべとして立つなら聖書が明確に語っていることをないがしろにはできないのです。

主イエスの名前、イエスキリストという名前からして、聖霊を暗示する名前です。
キリストとはよく知られているように「油塗られた」という意味あいがあり、油とは、霊、聖霊のたとえだからです。ですから、この方の生涯を見ていく時、聖霊とはどのようなお方なのかということを理解することができるのです。

主はかつて自分と聖霊との関係に関して「助けぬし」「もう一人の助けぬし」と表現されました。
以下の通りです。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。”

ですから、主イエスの生涯と聖霊との間には、特別な関係があるのです。
聖書は、モーセ聖霊の関係に関して、「助けぬし」「もう一人の助けぬし」とは書かず、またアブラハム聖霊との関係に関しても「助けぬし」「もう一人の助けぬし」とは書かなかったのです。
それで、我々はこの目に見えない聖霊という方を理解するのに、目に見えた方、主イエスの生涯に注目すればよいことが理解できるのです。

また、聖書は、この聖霊が実は主イエス御自身の霊であることをも語っています。以下の通りです。

ヨハネ16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。”

ここで主が「わたしはもう一度あなたがたに会います。」といわれているのは、実は聖霊として来られる主イエスについて語っているのです。だからこそ、主は「世の終わりまであなたがたとともにいる」といわれたのです。

さて、以上のことを念頭に置き、上記テキストを見ていきましょう。

”マタイ12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし”

ここで主はいやしのわざをしました。

”16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。”

そして、その後、不思議なことをされました。人々に自分のことを「知らせないようにと、彼らを戒められた」というのです。

このことは不思議です。主イエスは無名の人になりたかったのでしょうか?誰にも知られたくなかったのでしょうか。しかし、それにしては、ナザレから出て、エルサレムをめざし、そして、多くの群集に歓迎されたエルサレム入場」を果たしています。これらの事実は矛盾しています。いったい、主は人々に知られたいのか、それとも知られたくないのか、どうしたいのかよくわからないのです。

しかし、このことは視点を変えて、聖霊の型」としての主の生涯を考えるなら、理解できます。
何故なら聖霊の一つの特徴は、「そのわざが人々に認められない、知られない」ということにあるからです。
聖霊はかつても今も多くのわざをなしています。しかし、この方はへり下った方であり、そのわざを主張しません。それで、多くの人はこの方に気付かないのです。

たとえば、このようなことがあります。
ある兄弟が職場でリストラされそうになります。それでその人は主に祈ります。「何とか、私の雇用を守って下さい。」それで、聖霊なる方は働かれ、その兄弟の雇用は守られます。
しかし、この時、確かに聖霊が働かれたのですが、こんな考えが心に入ってきて、この兄弟は気付きません。「自分の能力が優れていたから、会社が認めてくれたんだ」
このようにこの方の働きは人の目にとまらないのです。

”17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。”

私の霊とは、聖霊であり、ここには聖霊の性質について書かれているのです。

”19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。”

「争うこともなく」すなわち、聖霊は、自己主張して、争うことをされない方です。
「叫ぶこともせず」、彼は自分のわざを吹聴しません。
「大路でその声を聞く者もない。」彼は、自分のことを声をあらげてアピールする方ではないのです。

”20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。”

私達がいたんだ葦のような者であり、傷ついていても彼はそれを折らず、癒してくれる方です。
また、「くすぶる燈心」すなわち、その心に聖霊の火が消えかかっているような者であっても、それを怒ってすぐ消そうとする方ではないのです。むしろ忍耐をもって再び燃えるように計らってくれる方です。
私達のうちに「公義を勝利に導く」ようとりはからって下さる方なのです。

”22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。”

ここで主の前につれられて来た「目も見えず、口もきけない人」がいやされ、「おしはものを言い、目も見えるようになった」ことが記されています。これは、勿論主イエスという個人がすばらしい方だということを示すのですが、それにとどまらず、聖霊なる方はどのような方かを示す箇所でもあるのです。
ですから、私達が「霊の目」が見えず、悪霊と聖霊の区別のつかない、聖書もどう読めばよいのか、わからない盲人であっても、聖霊なる方を求め、願うなら、その目が開かれることがわかります。
また、「おし」すなわち、神のことばの一言さえ、人前では言えないものであっても、それも聖霊にあって、いやされ、強められていくことがわかります。

2000年前、三年半の間、イスラエルの人々を助けられた「人として来られた」主イエスはすばらしい「助け主」ではありますが、年代的にも地理的にも我々とは遠い存在です。しかし、この方は「もう一人の助け主」「聖霊なる方」の型であり、その生涯は聖霊の働きを我々に理解させるためのものであることを知るなら、私達の目は開けるでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

f:id:yuumamatan:20240419075904j:image

蛇の嘘に騙される人々。

f:id:yuumamatan:20240418073117j:image

 

No.234空想話(2)


テキスト:1)”1テモテ1:3 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、
4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。
5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

 

本日は、「空想話(2)」として、聖書の語る終末の空想話について見ていきましょう。
聖書は終末の日に、人々が真理から耳をそむけ、空想話にそれていく時代が来ることを明らかに語っています。以下の通りです。

2)”2テモテ4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。”

ですから、終末の時代になったのなら、この「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く」ということがらは教会の中で必ず、起きてくると思った方が良いのです。そして、今は例えば、聖書の暗号によれば、もう「終わりの時代」に入ったとさえいわれる時代なのです。ですから、「もうすでに空想話は教会の中に忍び込んでいないのか」「もし忍び込んでいるとするなら、どの教えなのか」と吟味を一度はすべきと思われます。

たとえ、神学とあおうと、注解書と合おうとあうまいと聖書のいっていることのみが正しいのであり、聖書の警告、すすめに従う人々にのみ祝福と助けがあります。

「今が終末なら、もしかすると教会の中に『空想話」』が忍び込んではいないのか」という考えで教会の定説とされている教えを見ていくと結構色々怪しい教えがあります。
例えば、例の2段階携挙説がそうですし、また「クリスチャンと名がつけば、全て救われる」という教えもそんな感じです。

さて、このような理解に基づき、「空想話」に関連するみことばをいくつか見ていきましょう。
上記テキストから見ていきます。

”ある人たちが違った教えを説いたり、 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。”

「果てしのない空想話」とはとめどもない空想話、どんどんエスカレートする空想話というような意味あいでしょうか。このことは今、まさに起きています。

ある教会では「神は愛だから人を苦しい目にあわせることはない。だから、地獄はない」「仏教徒も、ヒンズー教徒も救われる」と説いているそうです。仏教徒でさえ救われるのですから、「キリストを主と(形だけは)呼んでいる我々クリスチャンが裁かれたり、地獄へ行くことは決してない。たとえどんな罪を犯しても、また犯しつづけていても」というとんでもない理論にいきつくのでしょう。確かに空想話が発展することをみます。

”そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。”

このような空想話を信じている人々は、「信仰による神の救いのご計画」に入ることはありません。
要はこんな空想話に惑わされる人は救いから漏れてしまうかもしれないのです。

次のテキストを見てみましょう。

3)”1テモテ4:
7 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。
8 肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
9 このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。”

順に見ます。

”7 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい”

年寄り女は、空想話をすると書かれています。
女は教会のたとえです。年寄り女とは要するに年を経た、世の終わりも近い頃の教会をさすと思われます。世の終わりの「俗悪な年寄り女」、この世についたような教会には、「空想話」が蔓延することが想像できます。

「進化論は創世記と矛盾しない」といった類いの空想話です。しかし、このような空想話は「避ける」よう主は勧めます。
次のテキストを見ます。

4)テトス1:10 実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。
11 彼らの口を封じなければいけません。彼らは、不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え、家々を破壊しています。
12 彼らと同国人であるひとりの預言者がこう言いました。「クレテ人(肉的)は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」
13 この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、
14 ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。
15 きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。
16 彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。”

順に見ます。

”10 実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。”

反抗的な者、すなわち神の健全な教理に版対して、偽りの教え「2段階携挙説」に組みする者は多いです。

また、空論に走る者、「神は愛だから、人を苦しい目にあわせるはずはない。従って地獄はない、などという全くの空論を真面目に信望する空論者」は確かに多くなっています。
また、こんな空論を自分で信じるだけでも愚かしいのにあろうことか他人にまで、伝えて、「共に穴に落ち込む」人を惑わす者も多いのです。

”11 彼らの口を封じなければいけません。彼らは、不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え、家々を破壊しています。”

我々はどうするべきなのでしょうか?そうです。「彼らの口を封じなければ」ならないのです。
ですから、これらの偽りに組みせず、逆にその誤りを指摘することにこそ、神のみこころがあることを知るべきです。彼らは「艱難時代は確かに来るがその前にキリストの秘密の再臨があるから大丈夫」「地獄はないので、(何をしても)決して裁かれないから大丈夫」などと「不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え」ています。このような人々こそ、偽預言者、全ての人から賞賛される「偽預言者ではないでしょうか。これらの教えこそ、家々、すなわち教会を破壊し、終末の備えの土台をつき崩す、空想話ではないでしょうか。

”12 彼らと同国人であるひとりの預言者がこう言いました。「クレテ人(肉的)は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」”

クレテとは肉的という意味あいがあります。ですから、これらの「耳にはよい」がしかし、真理からは遠く離れた空想話に同調するのは、この世についた肉的な教師、クリスチャンだということがわかります。
彼らは、この教会の中で「昔からのうそつき」、すなわち真理のみことばを変質させようと企むものたちです。また、悪いけだもの、すなわち人ではないのです。いやしくも教会の教師や牧師を「悪いけだもの」などと呼ばなければならないのは、あまり私の本意ではありませんが、しかし、聖書が語ることを曲げるわけにもいかないでしょう。創世記によれば、アダムの肉体が作られた後、神が息を吹き込み、それで始めて、彼は「生きた人」となりました。ですから、息(聖霊)がないものは逆にいうと「人」ではないのです。聖霊がないことを「悪いけだもの」ということばで表現しているのかもしれません。

”13 この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、”

これらの空想話は、健全な教えではありません。いびつな、曲がった、特殊な無理な解釈を重ねなければ、決してできあがるものではありません。これらの「不健全な教え」を成立させるためには、多くの神のみことばを無視、捨て去らなければなりません。

例えば、試みに「キリストが2回にわたって再臨する。艱難の前に天にあげられる」という不健全な教えを成立させようとしてみて下さい。聖書のどこにもこのことを明確に語っていることばがないことに気付き、がくぜんとすることでしょう。
この教えを成立させるために無視しなければならない多くのみことばが多いのを見てびっくりすることでしょう。

”14 ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。”

聖書はここで、「ユタヤ人が空想話を作り、教会に持ち込むこと」「この空想話には心を寄せないこと、すなわち、これらを排除すること」を述べています。
「ユタヤ人が空想話を教会に持ち込むなど、とんでもない反ユタヤ主義だ」などと怒る人々もいるかもしれませんが、他ならない聖書が語ることなので一考には値します。
ある種のクリスチャンはあまりにも「正しく、正義感に優れ、反民族主義的な論調には断固として、反対し、反ユタヤ主義などとんでもない」ということなので、彼らは大変正しく、時には聖書や主イエスキリストよりも数段道徳的に優れている(?)ようですが、彼らと異なり、我々主のしもべの願いは、ただ「書かれている範囲を超えない」ことだけです。

たとえ「ユタヤ人が空想話を作り、教会に持ち込む」という考えがどれ程、キリスト教会の「常識」と異なろうとも聖書がそういう以上、このことを考慮すべきなのです。

実はこれは知る人ぞ知ることなのですが、教会の中で広く広まっている多くの空想話はユタヤ人から来たものです。これは、あまりいわれないことですが、キリスト教会の有力な神学者、働き人には(身元を隠した)ユタヤ人、ユタヤ系が多いのです。彼らの教えはキリスト教会の中核になっていますが、その多くは「空想話」です。

「神は終末の日にユタヤ民族を顧みて、約束の国を中東に復帰させた」などという話も、彼らから、全キリスト教に広がった空想話です。例えば、ベニーヒンはイスラエル生まれ、すなわちユタヤ系なのです。またビリーグラハムは息子をイスラエル帰化させようとしているということです。すなわち彼もユタヤ系なのです。

また、「真理から離れた人々」は多くの偽りを述べますが、そんな話に「心を寄せ」ることには、みこころがありません。たとえば、JNダービーは、真理から離れ、以下のように多くの偽りを教会に広げました。これらの偽りに心を寄せるべきではありません。

ー艱難前携挙説:
何度もいうようにこの説のために、今の時代の多くのクリスチャンは終末の備えをしなくなりました。
この偽りの説を広めた彼の罪は大きいです。

-バビロン=ローマカソリック説:
要するに終末には、カソリックは裁かれる、逆にいうとプロテスタントは大丈夫だという説です。
この説により多くのプロテスタントクリスチャンは終末の備えを怠るようになりました。彼は、プロテスタントの終末の備えを崩した「偽預言者」です。

ー教会とイスラエルへの聖書預言を区分するという説:
この説のために、多くの終末に関する預言は「みなイスラエル人の上に成就する。教会の上には成就しない」という手前勝手なねじ曲がった教えが横行するようになりました。こんな説にすぐ飛びつく、クリスチャンも短慮、無節操、自己中心そのものですが、だました、ダービーは全くの偽預言者です。

”15 きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。
16 彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。”

ここで、「空想話」と関連して、「汚れた、不信仰な人々」が書かれています。ですから、空想話に心を寄せる人々と「汚れた、不信仰な人々」は関連があることがわかります。
何故ある種の人々は空想話に心を寄せるのでしょう。それは、彼らが「汚れた、不信仰な人々」だからです。また、「神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定して」いるからです。
何故、「地獄はない」などという「トンデモ話、空想話」冗談ならともかく、まともに信じる情けないクリスチャンが存在するのでしょう。それは、彼らが「汚れた、不信仰な人々」だからであり、地獄があっては彼らにとってまずいからなのです。

何故、艱難の前に挙げられるなどという「聖書のみことばと矛盾する話」を疑問もなく、信じる愚かなクリスチャンが多いのでしょうか。それは彼らの行いと関係しているのです。
彼らは本当は主に従おうと思っているわけではなく、主のために苦しむなどということを本当は望んでいないのです。それで、蛇の「あなただけは艱難にあいません」などという都合の良い、嘘をやすやすと受け入れたのです。彼らの本心が現れているのです。

しかし、創世記のエバが蛇にだまされてその命、永遠の命を失ったように今の時代もこんな偽預言者、教師すなわち「蛇の空想話」に心を寄せ、その偽りを悔い改めようとしない人々は「持っていると思っている永遠の命」がまさに危ないということを覚えるべきです。

さて、次に「空想話」ということばが使われている箇所を見ていきましょう。

5)"2ペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話(空想話)に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。”

順に見ます。

”16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話(空想話)に従ったのではありません。”

ここでは主の再臨と「空想話」ということばが結びつけて語られています。

ですから、今迄書いてきたようにこの「空想話」ということばが使われている箇所を見ることにより、聖書の言う「空想話」の特徴がわかります。それは以下のことがらです。

1)空想話にだまされる者は救いを奪われる:

「1テモテ1:4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」

2)空想話は人間にとっては都合の良い教え:

「2テモテ4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、」

3)空想話は使徒時代からの教えというより、教会時代の終わりに起きてくる教えに多い:

「1テモテ4:7 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」

4)ユタヤ人が空想話を作り、広げる:

「テトス1:14 ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」

5)空想話は終末に関する話、特に主の再臨に関する話に多い:

「2ペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話(空想話)に従ったのではありません。」
ーーーーーー

以上の「空想話」に関する特徴を見ていくと、どれもこれもあたっている教理がキリスト教会には、いくつかあります。

例えば、艱難前携挙説、2段階携挙説は以下のようにこれらの特徴にあてはまります。

1)空想話にだまされる者は救いを奪われる:

この教えを奉じる人々は終末の日に命が危ないです。艱難の前には挙げられるという手前勝手な教えを奉じる人々はもしその通りに主が再臨しなければ、艱難の備えがないために命、永遠の命を失うでしょう。

2)空想話は人間にとっては都合の良い教え:

終末には「かつてなく、今後もない艱難」が来ることは誰でも知っています。しかし、それらの苦難が来ても、「クリスチャンと名がつけば、その前に挙げられる」と語る艱難前携挙説は確かに、「人間には」都合の良い空想話です。しかし、聖書の本筋とは遠く懸け離れています。

3)空想話は教会時代の終わりに起きてくる教えに多い:

1830年頃の霊媒マーガレットマグドナルドの見た「艱難時代の前に引き上げられる聖徒」という幻に基づく(聖書に基づいているわけではない)「艱難前携挙説」は確かに2000年にわたる教会時代の終わりに出現した「空想話」です。

4)ユタヤ人が空想話を作り、広げる:

この艱難前携挙説を始めとする多くの「怪しい終末の教理」を広げるのに貢献したのは、JNダービーです。彼は、これらの教えをユタヤ系のイエズス会士から受けたということです。イエズス会には、その創始者イグナチオロヨラを始め、ユタヤ系の人々が多いようです。

5)空想話は終末に関する話、特に主の再臨に関する話に多い:

艱難前携挙説はまさに主の再臨に関する話であり、しかも巧妙な嘘、蛇の巧妙な嘘です。
みんなころりと引っ掛かっているようです。艱難中携挙説というのも、要するに「2段階のキリストの再臨」という嘘を標榜しているわけですから、「前」説と50歩100歩というところでしょうか。しかし、こんな蛇の嘘にだまされる人々はアダム、エバの時代以来、「永遠の命の木」すなわち、永遠の命から遠ざけられ、それを受け継ぐことはできないことを知るべきです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー 

 

f:id:yuumamatan:20240418073051j:image

艱難前携挙説、2段階携挙説‥クリスチャンにとって都合のよい手前勝手な教えについて。

f:id:yuumamatan:20240417092424j:image

 

No.233 空想話


”2テモテ4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。”

 

本日は、「空想話」という題でメッセージします。

終末になると人々が「空想話」に耳を傾けていく、そのことを見ていきたいと思います。

順に見ていきます。

”1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。”

キリストは「生きている人と死んだ人とをさばかれ」ます。その時、彼はその言葉、すなわち、聖書のみことばに基づいて裁くことを知らなければなりません。その唯一の規範である、聖書のみことばを曲げ、恐れげもなく、「空想話」を教会に持ち込む人々の罪は重いことを知るべきです。

だからこそ、パウロは、「その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」と書いたのです。
主の前に決して持ち出せない偽りの教理にいつまでもこだわるのをやめて、悔い改めて正しい道に立ち返るべきです。

”2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”

主の正しいみことばを「宣べ伝え」ることにみこころがあります。偽りの2段階携挙説、艱難前携挙説等の「空想話」の伝達者、「惑わす者」になってしまうのではなく、真理のみことばをまっすぐに語り続けるべきです。
「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と書かれています。
今が、「2段階携挙説、艱難前携挙説の偽りを警告し、正しい主の再臨説について語る」のに、適した時なのかどうかはわかりません。逆にあまりにも偽りが教会の内部にまで、いきわたっているので、もしかすると、現代はそれを語るのには、困難や苦労のいる時なのかもしれません。しかし、そのように時が良いか悪いかや、季節のことばかり、気にせず、語るべきことを語れと主は命じておられます。

また、「責め、戒め、また勧めなさい。」と書かれています。みことばの奉仕の中には、「正しくない道を歩む、偽りの教理に従っていく人々を」責めることも含まれていることがわかります。
これらの偽りを「責め、戒め」ることにみこころがあります。

”3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、”

何故、艱難前携挙説、2段階携挙説のような「クリスチャンにとっては都合のよい」手前勝手な教えがこれ程、教会の中に広がってしまうのでしょうか。しかし、ここにはっきりとその理由が書かれています。この教えは、クリスチャンにとって、「自分につごうの良い」教えだからです。

終末に関してキリストは、目をさまし、備えているように語っています。また、ダニエル書、黙示録を始めとする多くの書は、その日における神の民、クリスチャンの苦難を語っています。
これが、「健全な教えなのです」しかし、
艱難前携挙説、2段階携挙説はそれらの「健全な教え」、みことばをまっこうから否定する教えです。
しかし、そのような教えではありますが、みことばに適合しまいと矛盾しようと、「苦難なんか受けたくない」クリスチャンには、都合のよい教えなのです。

その苦難の時には、クリスチャンは地上にいないことになっているからです。
多くの人々は、建て前はともかく、本音では、「キリストのために苦難なんか受けたくない」と思っているのかもしれません。そしてそこを巧妙な蛇がついたのです。

”4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。”

しかし、この我々にとっては、結構きわまりない「艱難前携挙説、2段階携挙説」は単なる空想話にすぎないことを悟らなければなりません。

空想話ということを考えてみましょう。例えば、我々が、ヨーロッパなり外国へ行く場合、本当に行くつもりなら、お金もかかるし、時間も必要です。20万円でも30万円でもかかる費用は払わなければ、なりません。また、上司に渋い顔をされても、やはり有休なりをとって、会社の休みをとり、日数を確保しなければ、実際にその地へ足を運ぶことはできないのです。これは、大人の世界ならば、当たり前のことなのです。
しかし、子供の世界ではそうでもないかもしれません。「ドラエモンの『どこでもドア』を開ければ、ヨーロッパでもアメリカでもいけるよ」なんて答えが子供から返ってくるかもしれません。

しかし、大人ならば、誰でも「どこでもドア」なんて存在しないことを知っていますし、そんなものがあれば、望ましいけれど、実際は存在しないことを知っているのです。
そんな空想話は大人の選択肢からは外れているのです。

ヨーロッパへ行きたいけど、お金も時間もない。そんな時、お金も時間もいらない「どこでもドア」は、いい考え、アイデアではありますが、しかしこれは、あくまで「空想」の世界の話なのです。

「終末は何だか大変な時になるようだ」「何とか私だけはそんな苦難にあわないものか」そんな時、その前にもう一回キリストの秘密の再臨があるという「艱難前携挙説」がやって来たのかもしれません。この教えは良い考えに見えますが、しかし、あくまで聖書に根拠を置かない「空想話」に過ぎないのです。どこでもドアのおとぎ話と大差のないものなのです。

角笛によれば、この教えは1830年頃、イギリスのマーガレットマグドナルドという霊媒が見た「幻」が発端だということです。J.Nダービーを始めとする人々が熱心に教会に持ち込んだ「誤った教え」なのです。
ですから、この教えは、聖書のみことばに根拠を置くというより、天使だか、悪霊だかの「幻」が、根底にあるのです。

聖書をそのまま普通に読むなら、この「結構な教理」は出てきません。その証拠にこんな教えは、19世紀になるまで、教会に現れなかったからです。千何百年もの間、誰もそんな風には聖書を読まなかったのです。聖書を普通に読めばこんな教理は絶対に出てこないのです。そして、19世紀になって、突然新しい再臨に関する聖書の読み方ができたわけではなく、彼らは「幻」に合わせて、聖書の読み方を変えたのです。
あくまで「幻」が先にあるのです。

この結構な教えに適合する聖書箇所を無理矢理引っ張ってきて、つじつまを合わせたのです。
これは、カソリックの人々が、聖書的には何らの根拠もありそうには思えないマリヤ礼拝を、その幻に惑わされて継続し続けていることに似ています。マリヤの幻は今もひんぱんに現れます。しかし、それは悪霊の働きです。

悪魔の一つの戦略として、「聖書的には、無理な教理を神の民に受け入れさせたい」という時、よく「幻」を持ち込むようです。しかし、逆に「幻」で支えられなければ支持を得られない、持ちこたえられない教理などはそもそも怪しい教えであることを知るべきです。聖書は、これらの「幻」を持ち込む御使いに関してこう言っています。

ガラテヤ1:8「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」

「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く」と書いてあります。ですから、この教えは、、
「主のために苦しむ」「終末に備える」という聖書の語る真理から耳をそむけた教えであることを知るべきです。

 ”5しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。”

しかし、そのような時代であっても、主のみことばに堅く立ち、その「務めを十分に果た」すことにみこころがあります。これらの偽りに組みするものたちからの「困難に耐え」、正しいみことばの「伝道者として働」くことにみこころがあることを知るべきです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240417092404j:image

「顔おおいをはずす」とは。

f:id:yuumamatan:20240416075857j:image

NO.232 顔おおい


テキスト:”2コリント3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。”

 

本日は、「顔おおい」という題でメッセージしたいと思います。
「顔おおいをはずす」とは、何をいっているのかを見ていきたいと思います。
「顔におおいを掛ける」ということばには、KJVでは、「ベール」ということばが使われています。ベールとは、啓示や、黙示録と関係することばです。黙示録とは、「ベールをはがす」という意味があるからです。

順に見ていきます。

”12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。”

パウロはそのメッセージにおいて、きわめて大胆に語ると述べています。
彼は後の節で、モーセのように顔おおいをかけたりはしない」と述べているのですから、
要するに奥歯にもののはさまったような、、また何の啓示の光もないような語りかた、
メッセージはしないと語っているのです。逆にその聖書の解釈、メッセージのとらえかた
において、「きわめて大胆に語る」と明白に述べているのです。

これは、今の臆病なメッセンジャー達の態度とは大いに異なることをとらえて下さい。
彼らは、キリスト教会の正統な教理とかいわれている教え、(その中には、例の悪霊の教えーキリストの2段階携挙説も入ります。)から一歩でも踏み出すことを恐れ、ただただ、間違いのないように、ただただ、人から非難されないことだけを追い求めている、神の方だか、人の方だか、一体誰を意識してしやべっているのかわからない(彼らは人からの栄誉を求めています)小心者のメッセージをあきもせず繰り返しています。彼らは人の評判のみを求めているのでしょうか。

また、彼らは彼らの注解書の内容(その中には、多くの偽りが含まれています)からはみださないよう、戦々兢々としています。その結果、確かに人からは、非難されないでしょうが、ただそれだけであり、神の前にも人の前にも役に立たない説教が生み出されます。

”13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。”

「顔におおいを掛ける」ということばには、KJVでは、「ベール」ということばが使われています。
ベールとは、啓示や、黙示録と関係することばです。黙示録とは、「ベールをはがす」という意味があるからです。ですから、ここで、この箇所の隠れた意味あいとして、啓示や黙示録に関して語られていることがわかります。ここで、「顔におおいを掛けた(ベールをかける)ようなことはしません」と書かれています。ですから、ベールで隠す、すなわち、啓示や黙示を開かないようなメッセージをしないと語っているのです。裏返すと、パウロがメッセージをするなら、多くの啓示の解きあかし、解釈がその中に伴っていたことがうかがえます。これは、今の時代の教会のメッセージからはなくなって久しいことがらです。

”14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。”

この「思いは鈍くなる」ということばは以下の「心をかたくなにされた」ということばと同じです。

ヨハネ12:40”「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」”

イスラエルの人々の心はかたくなになり、正しく「ことばは神」であるといわれた方を理解することができなかったのです。

”というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。”

古い契約とは、英語では、old testamentと記されています。ですから、他でも無いこれは、旧約聖書のことをいっているのです。ですから、このことばは、旧約聖書が語られる時、神の民におおいがかけられている」そのため、正しく理解できない、そのことを述べているのです。しかも「今日に至る迄」すなわち、この平成の時代に至るまで、私達は、おおいかけられた状態で、旧約聖書を読んでいる、そのことを述べているのです。

ですから、この箇所は、今の我々に対して、旧約聖書の読み方について実は述べているのです。
今のクリスチャンが旧約聖書を読まないわけではないでしょうが、しかし、その読む時、ヘールがかけられ、啓示が開かれていない、そのことを指摘しているのです。

モーセに顔おおいをかける時、その顔の光は外へ出ていきません。その光はとどめられるのです。
同じように今の時代の私達も「顔おおい」をかけて旧約聖書を読んでいるので、その啓示の光は、決して外へ輝き出さない、そのことをいっているのです。
そして、このことは、「今に至る迄」と書いてあるように現在まで、そうなのです。

例えば、私達が、旧約聖書でアハブ、イゼベル、エリヤについて読みます。
その時、それらの記事を読んで、「昔のイスラエルの悪王、悪女の話」としか読めないなら、
実は、我々の「顔おおい」は取り除かれていないのです。ベールがかかった光の来ない状態で、我々も旧約聖書を読んでいることになりるのです。

さて、聖書の中で「ベールをはがす」ことと密接に関係した書があります。
それは、他でもない「黙示録」です。この書の原語の意味は「ベールをはがす」という意味なのです。
そして、この「ベールをはがす」ということばこそ、この黙示録の性格をはっきりと示すものです。

この聖書の最後にある、論議をよくよくひき起こす書、「黙示録」とは一体何の意味あい、目的があって、書かれたのでしょう。主はその書の目的、意味あいを「ベールをはがす」ということばで、はっきりと明言しています。

ですから、この書に関連して主が語られているのは、このようなことです。

聖書、特に旧約聖書は、「ベールのかかった」書、深い意味あいが隠された書なのです。
しかし、この書のベールがかけられたままでいるのは、主のみこころではありません。

それで、これらの旧約聖書を始めとする書の「ベールをはがす」ことを目的として、神は、
一つのヒントの書、ベールを剥がすことの助けとなる書を最後に用意されたのです。
それこそ、聖書66巻の最後の書、「黙示録」なのです。この書の名前「ベールをはがす」ということばが何よりもそのことを明白に語っています。

しかし、今の時代、一つの問題があります。このせっかく神が用意された書が「神の子達」の目を開くのに役立っていないということです。
この書がちっとも彼らの助けになっていない、本来の目的どおり使われていないということが問題なのです。たとえば、昔の電話器の使用方法は非常に簡単でした。
ただ、番号をダイヤルするだけでよかったのです。
しかし、最近の電話器は、Fax付きやら、留守番機能やら、色々と複雑です。
ですから、お年寄りなどは、かえってつかいこなせなくなっています。せっかくの機能に追い付かないのです。

黙示録についても同じことがいえます。この書は聖書の「ベールをはがす」ための書なのですが、その本来の目的どおり使われていないのです。

さて、その「ベールをはがす」とは具体的にはどのような意味あいで使われているのでしょう。それを見ていきたいと思います。

たとえば、黙示録の7つの教会の一つ、テアテラの教会の記述の中に、上記イゼベルについて書かれています。

ヨハネの黙示録 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」

教会時代への預言である、黙示録の中に「イゼベル」についての記述があるということは、
この旧約のベールを剥がす一つのヒントになります。

「旧約は昔のこと。現在や未来の教会時代とは直接は関係ない」と皆思い込んでいます。しかし、この黙示録の記述は、この先入観、あやまった教会の教えのベールを剥がすヒントになります。

新約の教会の預言である黙示録の中に旧約のイゼベルについての記述があるということは、「もしかすると、旧約聖書の記述は、新約の教会時代を預言したものなのではないか」と我々の目を開くヒントになるのです。また、イゼベルは、旧約聖書を読めばわかるように、北イスラエルの王アハブの妻です。
「北イスラエルの王や妻と関係ある記述がテアテラへの手紙の中に含まれているということは、このテアラはローマカソリック、の予表ではないのか」と我々の目から、ベールを取り除く働きをするのです。このようにして、この書は我々に「ベールをはがす」助けを与えます。

”16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。”

私達の旧約聖書に対する、「顔おおい」すなわち、ベールはどうしたら、はがすことができるのでしょう。
また、どうしたら我々は、神から啓示の光を受けることができるのでしょう。
それは、私達が「主に向く」時、はがれるです。啓示の光は、注解書、人の教えからではなく、主から来るのです。

”17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。”

主に向くとは、具体的には、私達が御霊なる方を求め、向くことです。
すなわち、この旧約のみことば、また新約のことばに対しても、「御霊」である方に求め、
尋ねていくのです。聞いていくのです。その時、人の知恵にまさる神の知恵により、この隠された
ことばが開かれていくのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー

f:id:yuumamatan:20240416075838j:image

「3人目の証人」の出現で、裁きの最後の用意が整う。

f:id:yuumamatan:20240415055249j:image

 

No.231 ふたりか三人の証人(3)


テキスト:
”ヘブル人への手紙 10:25かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
28 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。”

 

本日は「ふたりか三人の証人(3)」として、この件に関してヘブル書からもう少し見ていきましょう。
このヘブル書にも「ふたりか三人の証人」及び「終末の裁き」について書いてあります。

順に見ていきましょう。

”25かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。”

「かの日」とは終末の裁きの日のことであり、その日は近付いていることがわかります。

”ヘブル人への手紙 10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。”

終末の裁きは「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続ける」人々に対しておこなわれることが、理解できます。

”27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。”

「さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火と」がその人達の上に下ると書いてあります。
このことは聖書ではっきりと神が明言している以上、実際に終末の神の民の上に起きてくることを理解して下さい。
これは、具体的には、悪霊のリバイバルという形で実現します。

”28 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。”

そして、このこと、「終末の日に悪霊のリバイバルにより神の民が滅びる」ということに関しては、
もう既に「二、三の証人のことばに基づいて」語られていると聖書は語ります。
もう聖書でいう「手続き」は済んでいるのです。

「二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。」

かつて旧約のイスラエルの民の中で、「死罪」にあたる罪を犯した人々は「二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられ」ました。これは、聖書の方法であり、神の方法です。

終末の日の「火による裁き」に関しても「二、三の証人のことば」がそろうなら、後は裁きに進むことを覚えて下さい。

もうこの「火によるさばき」に関する証人は与えられているようです。

1. ロトの日のソドム、ゴモラの「火のさばき」の証言は前もって与えられ、私達はその
裁きの後を今でも見ることができます。(死海はそのあと)このことは事実起こりました。

2. また、エルサレムは前もって語られたようにバビロン軍により、「火で焼かれ」滅びました。(エレミヤ52章)

3. そして主は終末のバビロンの裁きに関して「淫婦バビロンは火で焼かれる」ことを黙示録で述べています。
確かにこのことに関しても2、3の証人はそろっているのです。

”29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。”

裁きは「恵みの御霊を侮る者」に与えられます。そしてそれは「悪霊の裁き」なのです。その時、神の民は惑わされ、「自分を聖なるものとした契約の血」すなわち、聖霊「汚れたもの」とみなします。
聖霊を悪霊と呼ぶのです。それは彼らの裁きを招きます。

”30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。”

「主がその民をさばかれる。」とは要するに終末に「その民」、クリスチャンへの裁きがあるということなのです。「クリスチャンと名がつけば決して裁かれることが無い」などというねぼけた教えにだまされてはいけません。

”31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。”

多くの人々が生ける神の裁きの手に入ろうとしています。私達は神を恐れなければなりません。

さて、繰り返すようですが、聖書が「裁き」の前提に、「二、三の証人のことば」と何度もいう時、「裁きのために」4人の証人は必要としない、別なことばでいえば、「3人目の証人」が出現するなら、もう裁きの最後の用意が整ったことがわかります。すなわち、3ということばは最後を示す、最後通牒のような数字なのです。

すると何故、あの獣のリバイバルを彼らが「聖霊の第三の波」と呼ぶのか、その理由がわかってきます。
これらの悪霊のリバイバルをひき起こし、継続している人たちもそれなりに聖書的な数字を使っていることがわかります。「聖霊の第三の波」という数字の意味するところは「最後通牒」「最終、最後の悪霊の波」というようなニュアンスがもしかするとあるのかもしれません。もちろん、これは私の想像ですが。
もしそうなら、聖書もそして、敵の働きもすでに「最終段階へ以降」していることをとらえましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

f:id:yuumamatan:20240415055226j:image

神は終末に裁きが起こることを前もって、2、3人の証人を通して語っている。

f:id:yuumamatan:20240413174936j:image

 

No.230 ふたりか三人の証人(2)


 ”テキスト: 2コリント13:1 「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実(word-レーマ)は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」
2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。
3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。”

本日は「ふたりか三人の証人(2)」という題でメッセージしたいと思います。
神が終末に裁きが起ることを前もって、2、3の証人を通して語っていること、その後に裁きが来るということを更に、見ていきたいと思います。

聖書は「ある人が有罪であるかどうか」という時、「二人または3人の証人の証言によって有罪となる」という原則を語っています。以下に書かれている通りです。

申命記17:6 ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」

例えば、ある人が「隣人を殺す」というような死罪を犯した時、聖書は一人の証人の証言のみによって裁きを執行してはいけないと語っています。逆に2、3の証人があれば、それは「有罪」となることを語っているのです。

それで、神が裁きを執行、まして終末の大きな裁きの前には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって」行われることがわかるのです。

さて、旧約の証人に関する記述を見ると、我々にはこれらの証人は皆、横の関係で現れるように見えます。横とは、すなわち、例えばペテロ、ヨハネヤコブのように同時代の証人ということでしょう。
ペテロという一人の人だけでなく、ヨハネヤコブという2人または3人の証人が加わって始めて、裁く対象になるということです。

しかし、上記テキストでパウロ「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です」と語った時、彼はこの「ふたりの証人または三人の証人の証言」ということばに関して少し違ったことをいいました。

ここで彼は、彼の「3度目の訪問」に関して、「三人目の証人」だといっているのです。ですから、彼はこの「ふたりまたは三人の証人」ということがらを縦の関係、または時間の関係に関して語っていることがわかります。
ですから、パウロの一度目の訪問は一人目の証人であり、2度目の訪問は2人目の証人であり、3度目の訪問は3人目の証人であると語っているのです。その上、彼は三度目の訪問に関して、「前から罪を犯している人たち」に対して「今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」といいました。
すなわち三度目には裁きがあることを語っているのです。

まとめます。以上のことから、聖書は「ふたりまたは三人の証人」に関して、以下のようにいっていることがわかります。

1. 「ふたりまたは三人の証人」とは基本的に2、3回にわたる異なる人を通しての証言、警告について語る。

2. 「ふたりまたは三人の証人」とはまた2、3回にわたる時間をずらした証言、警告について語る。

3. 「ふたりまたは三人の証人」すなわち2、3回にわたる証言、警告の後で「裁き」が行われる。

上記のことがらを聖書は「終末の裁き」に関しても語っていることを覚えて下さい。

聖書を読むとこの原則は確かに用いられており、このことがらはまさしく聖書がはっきりと明示している「裁き」の原則であることがわかります。
たとえば、終末に起きる「宮の崩壊」について考えてみましょう。
「神の住まい」である「宮」すなわち教会が終末の日に見捨てられるということがらに関して、聖書は確かに前もって「ふたりまたは三人の証人」を通して語っています。

この件に関する一人目の証人、すなわち一回目の証言は以下のダビデの証言です。

詩編78:59 神は、聞いて激しく怒り、イスラエルを全く捨てられた。
60 それで、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し、
61 御力をとりこに、御栄えを敵の手に、ゆだねられた。」

このシロにおける神の住まい、幕屋が捨てられたことに関して、ダビデは証言しているのです。
そして事実この「神がその住まいを見捨てる」ということがらは神の民の中でシロで実際に起きました。
これは歴史的な事実なのです。

この件に関する2人目の証人、すなわち2回目の証言は以下のエレミヤの証言です。

「エレミヤ7:14 それで、あなたがたの頼みとするこの家(宮)、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行なおう。
15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたを、わたしの前から追い払おう。」

エレミヤは「神の住まい」である宮が見捨てられること、その崩壊について証言したのです。
そして、このエレミヤの証言もその通りに成就したことを私達は知っています。
バビロンのネブカデネザル王の攻撃の中で宮は焼かれてしまい、捨てられてしまったのです。(エレミヤ52章)興味深いことにこのエレミヤの「宮の崩壊」に関する記述の中に「シロの神の幕屋の崩壊」について言及されています。すなわち、シロで起きたこととこのエレミヤの宮の崩壊とは関係があるのです。
すなわちこれらは同じシリーズ、ひと続きの証人達なのです。

更に同じ「宮の崩壊」に関して主イエス御自身が警告しています。これは3回目の証言です。

「マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

ここでの主の語る「宮の崩壊」に関しては、2種類の成就があります。
一つは西暦70年のローマ軍のエルサレム攻撃の時、成就しました。そして、もう一つはここに「世の終わり」と書かれているように終末の「宮の崩壊」すなわち「教会の崩壊」のことです。これは終末に成就します。

さて、以上のようにこの「宮の崩壊」の証人、証言に関して考えるなら、すでにその証言は2ー3回にわたって、前もって警告され、しかも成就していることがわかります。
すなわち、シロの幕屋が捨てられることも前もって語られた通りに成就し、エレミヤの語った「宮の崩壊」もその通りに成就し、また主の語った「宮の崩壊」もその最初の成就は語られた通りに成就したのです。
後は終末の「宮の崩壊」の成就を待つだけなのです。

繰り返しますが、聖書は、人が裁かれる条件として、「ふたりまたは三人の証人」の証言という原則を語りました。これは聖書の原則であり、また神の方法なのです。

たとえばある人が「隣人を殺した、有罪だ」と訴えられた時、聖書は一人の証言、たとえば、ペテロの証言だけで有罪としたり、死刑にしたり、裁くようには語りません。それだけではまだ、間違えがあるかもしれず不確実だからでしょう。もしかすると最初の証人、ペテロの勘違い、彼がそう思っても犯人を他の人と見間違えるということもあるからです。

しかし、一人だけでなく、他の二人目、また3人目の証人、すなわちヨハネヤコブという他の証人、証言が現れてくるなら、その時には「有罪」であり、「裁くに足りる」と聖書は語るのです。聖書は決して有罪とするのに、四人目、5人目の証人が必要だとは語っていません。逆に「2、3人の証人」があらわれるならこれは「裁くに足りる」と語っているのです。そして「宮の崩壊」に関しては「ふたりまたは三人の証人」の証言は既に与えられているのです。

終末の裁きに関しては色々な面があります。本日はただ「宮の崩壊」「終末の日に神がその住まいである教会を見捨てられる」という面だけを見てみました。
そしてこの訴えに関して、「異なった人を通した2、3の証人の証言」「時代の異なる2、3の証人の証言」は既に与えられていることを私達は見るのです。

ですから、これらの「2、3人の証人」を通して語られた宮の崩壊、教会の崩壊は確かに終末の日に起きることを私達は理解できるのです。

さて、以上のように「2、3人の証人」について理解できると私達は何故、黙示録には終末の証人について記してあるのかがわかってきます。

ヨハネの黙示録 11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。”

彼らは終末の神の民に「来らんとするさばき、教会(宮)の崩壊」について証言し、そしてそのゆえに「このことばを受け入れない」神の民に殺されるのでしょう。かつて、「宮の崩壊」について語り、その故に迫害されたエレミヤ、主イエスに対して行ったと同じように終末の神の民は、彼らは行うのでしょう。

しかし、私達にあってはこのことに関して正しく理解し、みこころをとらえていきたいと思います。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240413174915j:image