2度目の警告と3度目の裁き。

f:id:yuumamatan:20240413144638j:image

 

No.229 ふたりか三人の証人


”テキスト: 2コリント13:1 「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実(word-レーマ)は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」
2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。
3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。”

 

本日は「ふたりか三人の証人」として神が終末に起きる裁きについて前もって、「ふたりか三人の証人」の証言を通してそのことばを確証していることを見ていきましょう。

聖書の終末の記事を見ていてわかることは、神は将来、終末の日に起きることを前もって、
1ー2回、類似のできごとを通して警告しているということです。
話が少し抽象的でわかりずらいかもしれません。たとえば、終末の黙示録で記されている「蛇」ということばについて考えてみます。すると以下のように神がこのことに関して、前もって2回は起きたできごとを通して、証言、警告していることがわかります。

 エデンの園で神のことばを曲げ、エバを惑わし、命の木(永遠の命を象徴するもの)から遠ざけてしまった蛇。

2 イエスの時代にはパリサイ人、律法学者が蛇と呼ばれます。彼らは神のことばをあずかりながら、それを曲げ、人々が天国へ入ろうとするのを妨げていると主に非難されています。

さて、上記2つは過去のことがらです。しかし、事実おきたことであり、「蛇がことばを曲げる」「天国から人々を遠ざける」という事実の2つの(2人)の証言です。
さて、我々にとって大事なのは、これからの未来のことであり、また終末に起きることがらです。
それを理解するには、上記テキストの「ふたりか三人の証人の口」ということばに目をとめることが大事です。すでにこの「蛇」という「ことがら」(ことば-レーマ)には、2つ(2人)のはっきりした証人がいます。それで、未来の終末に起きる3つめのことがらについてもそのことばの通りに、おきることが予想、また確信できるのです。

3 3つめのことがら(word)
として、聖書、黙示録には、「蛇」についてこのように書かれています。

”黙示録12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。”
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。”

これは、終末の日に蛇、すなわち神のみことばを曲げる人々が地上に落とされ、もう天(神のみこころの教会)の中で活動することができなくなることを述べています。
このことは未来のことです。果たして、このようなことは、実際に起きるのでしょうか。
本当にそのようになるのでしょうか?この黙示録などという、少し怪し気な本のことばを本当に信じていいのでしょうか。

そのような疑問が起きたとき、私達を力付けるのが、「証人」のことばです。
すでにこの、「蛇」については、2人(2回)の証人がおり、それらは、文字どおり行われました。それを見ていくとき、私達は三度めの未来のことがらも確かに実現することを知るのです。2つの証人とは、すなわち「蛇」に関するエバの時のできごと、そしてもう一つは
エスの時代の「蛇」なる律法学者、パリサイ人達との間に起きたことです。これらは、確かに実現し、エバは蛇にだまされた結果、エデンの園を追い出されたこと、永遠の命を失ったことを私達はみます。また、蛇なる律法学者、パリサイ人はイエスが誰だかを理解することができなかったことを見ます。これらの過去のできごとは、確かに「蛇」ということばの証人です。そして、このように
2人の証人(できごと)が事実なので、私達は逆に未来の黙示録に起きる「蛇」に関するできごとも事実であると確信を持つことができるのです。ですから、ここにおいて、確かに「2、3の証人」により、事実(ことば)は、確認されたのです。

さて、それでは記テキストについて見てみましょう。

「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。」

ここでパウロがコリントの教会を既に2度は訪問していることがわかります。これは、(この時点では)過去のことです。そして、これから三度目の訪問をすることを述べています。これは、(この時点では)未来のことです。2回は過去のことであり、3回目は未来のことなのです。
そして、彼はもうすでに2度の訪問で、具体的にいうべきことはいった、ことばでの警告は行ったといっているのです。そして、3度目の訪問は特別な意味あいがあると彼は述べているのです。それは裁きを意味します。

ですから、どうも聖書の方法は2度の警告、そして三度目の未来には、決定的な裁きというパターンのようです。
例えば以下のように:

(宮の崩壊)
1 シロの幕屋(宮と同じように神が住まわれる住まい)の崩壊
2エレミヤの時代の宮の崩壊
3 キリストのいわれた終末の日の宮の崩壊

三度目の「宮の崩壊」は終末の日の教会の裁きの予表であり、この日への警告があります。

”すべての事実(ことば:レーマ)は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」”

すべての事実が確認されるという時、第一義的には、このコリントの教会の実体をパウロが確認するということをさして語っているのでしょう。しかし、ここには、2重の意味あいがあります。上記「事実」という単語には英語のword,ギリシャ語のレーマが使用されています。ですから、ここで聖書は、実は、「ことば」「ふたりか三人の証人の口によって確認される」ことを語っているのです。ですから、神の語られたことばは単に、語られるというのではなく、2、3の証人により、確証されるのです。これは何を意味しているのでしょう。

たとえば、黙示録には、みごもった女から、うまれる男の子について書かれています。彼らは終末の日に処女(淫婦バビロンとは反対に)から生まれる勝利者のことです。確かに神のことばはそう語っています。」しかし、これは未来のことであり、ある人々にとっては、はっきりとしないかもしれません。しかし、
神はこのことがら、「女から生まれる男の子」について、2、3の証人により、確証されます。

たとえば、その一つとして、「処女がみごもって男の子を生む」と聖書は述べています。
このことばはイザヤの時代に成就しました。

イゼヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、の名を『インマヌエル』と名づける。」
これがこの「ことば」に関する第一の証人です。

そして、御存じのように、母マリヤによるキリストの出産の時、成就しました。これが第2の証人です。
これらの2つの証人によリ終末の黙示録に記されている「男の子」も事実であることを確認できるのです。

”2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。”

さて、パウロは自分の三度目の訪問に関して、特別なことを述べています。この訪問の時には(以前と違って)容赦しないと述べているのです。この訪問がいわば「前から罪を犯している人たち」への「裁き」の時となるわけです。
ですから、ここで表される原則はこうなります。

1、2回目:警告、証言
3回目:罪を犯している人への容赦しないさばき

この原則は実は、パウロ個人のことをいっているのではなく、聖書全体の原則です。
他のケースにおいても上記のスタイルは守られています。上記の「宮の崩壊」に関しても、
以下のようになるのです。

: シロの幕屋(宮と同じように神が住まわれる所)の崩壊: 警告、証言
: エレミヤの時の宮の崩壊:警告、証言
: キリストのいわれた終末の宮の崩壊。
すなわちマタイ24章でキリストが弟子達にいわれた「宮の崩壊」:この時、罪を犯している人々(含むクリスチャン)への容赦のないさばきがある。

”3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。”

ここでパウロは、何故自分が2、3回訪問するのか、すなわち、別のことばでいえば、「2人または3人の証言」を必要とするかを述べています。それは、「あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。」このことは、終末のことばにも通じます。
終末のことば、たとえば、黙示録の「山が海に投げ込まれる」、「海が血に変わる」等のことばに関して、全ての人がその通り起きると信じているわけではありません。
逆に「黙示録は狂人が書いたものだ」「これは、聖書の一部としてはふさわしくない、第一キリストがこのようなことをいうとは思えない」などという人々がいます。彼らはこの書に関して「キリストが...語っておられるという証拠を求めている」のです。その答えが2人、または3人による証言なのです。
これらのことばは、実はすでに黙示録以前の聖書の歴史の中で語られ、実現してきたのです。1、2度、前もって実現しており、黙示録においては三度目になるのです。もちろん、黙示録と全く同じ形でとは、いえないのですが、しかし前もって実現しているのです。

 

これらの警告をとらえ、終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240413144614j:image

 

ききんの時代、御言葉を受け聖霊に触れて養われる条件とは。

f:id:yuumamatan:20240412075837j:image

 

No.228 真夜中のパン


テキスト:”ルカ11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”

 

本日は、「真夜中のパン」という題でメッセージします。

上記テキストには、友達のために真夜中にパンを求める人のことが書いてあります。

さて、終末の日は、夜、闇、にたとえられていることを思い出しましょう。
それで、このたとえも終末に関係あるたとえである可能性があることがわかります。

テキストに沿って見ていきましょう。

”5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。

6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。”

この箇所の主題は、「パン」です。パンとは、聖書の中で、「命のパン」、神のことばをさすたとえです。
さて、ここでの問題は、この人の家には、パンがなかったということです。
いくら友達が夜中に来たからといって、2つや3つのパンがないなんて、随分用意の悪い家だなと思うかもしれませんが、この「夜中にパンがない」という事実が、このたとえの中で、大きな意味のある強調点となっています。

終末の時代に関して、我々がどう思うと思うまいとこの時代は、「パンのない時代」「ききんの時代」
であると聖書は語っています。

黙示録にはこう書かれています。

”黙6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。”

1デナリとは当時の労働者が一日に稼ぐ賃金ということです。今だったら、1万円以上に相当するのでしょうか。それだけのお金をもってしても小麦、1ます(1リットル程)、大麦3ます(3リットル)しか、買えないのです。麦はパンの原料であり、みことばのききんが連想されます。
それを裏ずけるように、その後の節に「彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた」というように、ききん、みことばのききんについて語られています。

黙示録の時、終末の時は、ききん、みことばのききんの時であることが暗示されるのです。

アモス書にはこのききんの時代に関してこう書かれています。

アモス8:11 見よ。その日が来る。♦︎神である主の御告げ。♦︎その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”
13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。
14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」”

この終末のききんは、パン、聖書がないというわけではなく、「主のことばを聞くことのききん」すなわち、「メッセージを聞くこと」のききんであることが、了解されます。

どの牧師のメッセージも毒されてきて、それを聞く信者にちっとも力がわいてこない、歩めるようにならない、そんな時代が来ると聖書は語っているのです。

私は失礼ながらいいますが、今、現在の時代にこのことは、完全にとはいわないまでも、
おおきな規模で成就しているのではないでしょうか。今は、教会、クリスチャンが弱った時代です。
この原因は、今が「ききん」、すなわち、パンや水に不足している時代であることを
明確に表しているのではないでしょうか。

”7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』”

ここで「戸締まりもしてしまった」といわれている言葉は以下のことばと同じです。

”ルカの福音書 4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が<閉じて>、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが”

エリヤの時、3年半の間、天が閉じました。そして、雨が降らなかったのです。
人々は、食べるパンにも水にも窮しはじめたのです。その様な時でもこのツアレフアテのやもめには、粉(麦の粉ーパンの材料)も油(聖霊のたとえ)もつきなかったのです。
同じように、この真夜中にパンを求める人は、ききんの中で主にいのちのパン、水を求める人の型です。
そして、この求める人に対して、始めに戻ってきた答えは、「面倒をかけないでくれ、門は閉じた(戸閉まりをした)」という答えです。

「起きて、何かをやることはできない。」とはっきりこの家の主人は答えています。ですから、今は、基本的に門は閉じられ、パンも水もない、ききんの時なのだということをとらえて下さい。パンがなく、水がなくて普通なのです。テサロニケの手紙にあるように今は、「引き止める者」聖霊が取り去られている時代なのです。

”8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。”

しかし、このききんの状況、パンを与えることを拒絶した主人のことばをひっくり返す方法があります。
それは「あくまで頼み続ける」ことです。
ですから、このききんの時代にパンと水、すなわち、みことばを受け、聖霊に触れ、養われることのできる人々の条件は唯一つ、祈り、祈り、そして祈りなのだということを知って下さい。
この祈る人々こそ、「あくまで頼み続ける」人々なのです。

"9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。"

私達に神のみことばがない、また、礼拝に人々が来るのに、飢え渇いている人がいるのに、自分には、何一つ出してやるものがない、パンの一つさえない、それは残念な状況ですが、決して絶望する必要はありません。
そもそも私達は始めからパンなど、何も持っていないのです。
荒野のマナが天から降ったように、我々もこのパンを天からもらうことができないなら、どこにも見い出すことはできないのです。それは、始めからそうでしたし、これからもそうなのです。
もし、我々が何か違うように考えていたのなら、それは我々の勘違いなのです。

ですから、私達が「求め、さがし、たたく」なら、これを受けるでしょう。それは、具体的には、祈ることなのです。天からのパン、水を「求める人」はそれを受けます。そうでない、何か人間的なものでとどまる人は、受ける事はないでしょう。

”10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。”

もう一度求める事が、繰りかえされています。私達は「ききん」だと手をこまねいていないで、求め、さがし、そしてたたかねばなりません。

”11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。”

蛇は、エデンの園で神のことばを偽りに変えた蛇、また主イエスにあ「蛇よまむしのすえよ」と非難された神のことばを変質させる、律法学者、パリサイ人、そして今、偽りの神学を人々に与える神学者、牧師、教師に通じます。

彼らがこんな「蛇」のような「たべもの」、神のことばを変質させたメッセージで、信者達の飢えを満たそうとするのは、彼らが、この方に真に求め、天からのものを受けないからです。
神の子達が、「蛇」のたべもので飢えを満たすのは、神のみこころではありません。

”12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。”

さそりは悪霊に関係しているようです。ですから、神の子達が教会へ来ながら、「悪霊の飲み物」で飢えを満たすのは、やはり神のみこころではありません。これは、真の天の父からのものではなく、この世の父、悪魔からのものです。

ですから、今の時代、人々の飢え渇きを満たすためのメッセンジャーが何と求められていることでしょう。主に示された人々はこの奉仕について祈り、求めましょう。

”13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”

ここでも求めることが強調されています。ですから、たとえ、艱難時代であろうとなかろうと、またききんであろうとなかろうと、私達がこのパンと聖霊を求める方法はただ一つ、求めること、具体的には祈ることだということがわかります。

ここには、何らの差別もありません。能力、性別、人種、年令何の関係もないのです。

求める者はこの方から、受け、そして友人の飢えを満たすことのできることを覚えましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 
 f:id:yuumamatan:20240412075820j:image

教会に於ける「みことばを聞くことのききん」について。

f:id:yuumamatan:20240410203315j:image

 

No.227 パンのききん


 ”テキスト:アモス8:11 見よ。その日が来る。♦︎神である主の御告げ。♦︎その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”
13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。
14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」”

 

本日は「パンのききん」としてアモス書から見ていきましょう。

順に見ていきます。

”11 見よ。その日が来る。♦︎神である主の御告げ。♦︎その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。”

この終末のききんは、パンのききんではありません。ですから、共産主義国であるように、聖書そのものが手に入らない、そういうききんのみをさすものではないのです。逆に「実に、主のことばを聞くことのききんである」と書かれています。ですから、主のことばを聞くこと、すなわち、教会の礼拝メッセージ、説教について語られているのです。

「どこの教会でもりっぱなメッセージがある。何がききんなのだ」という人もいるかもしれませんが、
しかし、私の見る限り、多くの人がこのききんの中にいます。

どんなにお腹がすいて、今にも倒れそうな人でもパンを食べれば普通は元気になり空腹が満たされます。
力が出てきて、足取りも軽く、元気になるものです。しかし、今の教会において、何故弱っている人、力のない人、満たされない人が多いのでしょうか。
これこそ教会において「みことばを聞くことのききん」があることを示すのではないでしょうか。

たとえば、現在でもインド、アフリカ等でよく「ききん」が起きます。それらのききんの中にいる人の特徴はなんでしょうか。体がやせていて、まともにあるけなかったり、生きているのか、死んでいるのかわからない、そんな感じではないでしょうか。

そしてこれは、今の日本の教会にも起きていることではないでしょうか。私達の肉体は弱っていないとしても、その霊において弱っており、教会をききんがおおってはいないでしょうか。

神のみことばに問題があるわけではありません。聖書のことばは、主イエスの時から何も変化はないからです。しかし、今、多くのメッセンジャーのメッセージに関して「みことばを聞くこと」に関するききんがあると聖書は語っているのです。

私達は、この声に謙虚に耳を傾けなければなりません。全てみことばに仕えるものは、祭壇の前で、主の前に泣いてそのあわれみを求めるべきではないでしょうか。ききんは、まさに私達の教会をおおい、この民をおおっているのです。

”12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”

彼らは主のみことばを探しもとめます。「しかしこれを見いだせない。」のです。
確かに今は、この預言が成就しています。多くの信者があの教会、この教会、そして、あの集会、あの聖会へとさまよい歩いているのを見ます。
「信者は、あちこちの教会を歩き回るな。それは、信仰的でない。」などという牧師もいるかもしれません。しかし、彼らは「いのちのパン」を求めて歩き回っているのです。

腹が減って、ラーメン屋を一生懸命さがし回る人はよくいます。しかし、ラーメン屋で食事をした後、さらに他のラーメン屋や、そば屋へ向かう人はいません。最初の店でたっぷり食べた人は、もうとりあえず食事やパンのことは忘れます。そして、他のこと、勉強のことやら、音楽のこととかを考え始めるものです。

しかし、教会においては、そこで満たされず他へ向かう人々がいるのです。
教会へ来ている人がなおかつ、遠くの集会や、聖会へ行くということは、実は、その店(教会)で、食べるべきものを食べられなかったからかもしれないのです。
いちがいに信者が非難されるべきだとは限りません。そして、彼らの「飢え」は、このようにさまよい歩いても満たされません。「しかしこれを見いだせない。」と書かれている通りです。それは、今がまさに、「ききん」の時代だからです。

”13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。”

その日は、終末の日です。「渇き」は、 水、すなわち、聖霊と関係することばです。
この終末の日、多くの神の民は、単に「みことばを聞くことのききん」に会うだけではなく、「渇き」すなわち、聖霊「水不足」にも会います。

彼らが、主のことばを退け、また聖霊なる神を「追い出す」ためにそのような時を迎えるのです。
人間にも、幼児期、青年期、老年期等の時期があります。そして、その中でも青年期は、男でも女でも一番力と美しさに満ちた時です。しかし、そのような力に満ちた青年期の信者達でさえ、その日には、「渇きのために衰え果てる」のです。
今がその時なのではないでしょうか。私は多くの人々が、その内側に霊の渇きをおぼえ、衰えているのを感じています。

”14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」”

「サマリヤの罪過にかけて誓」う人々は、サマリヤの教理、教義を受け入れている人々です。サマリヤは、北イスラエルの首都、今でいうカソリックの予表と思われます。
彼らがその罪科にかけて誓っている間は、「倒れて、二度と起き上がれない」のです。

プロテスタントと比べて見ると、カソリックの特徴は、「ローマ法皇、マリヤ礼拝、66巻以外の聖書(外典)等」です。これらを彼らは誇っているかもしれませんが、それは、「罪科」であると主はいわれるのです。

そして、彼らが、霊的に飢え、渇くーそれを満たすため、人によっては、仏教やヒンズー教まで行くようですがーその原因は、この「罪科」のゆえだと主はいわれるのです。

裏返すなら、これらの「罪科」を捨て去る人々は、この「ききんの時代」にあっても、
うえることなく、かわくことがないのです。

あの「サマリヤの罪科」の満ちあふれた時代、すなわちアハブ、イゼベルのバアル礼拝にあふれた時代、そしてエリヤの3年半の「雨の降らない期間」に、ツアレフアテのやもめのみ「パンと油」にうえることのなかったことを思い出しましょう。

終末においてであっても、ききんは、主につく人々をおそうことはありません。
このことを聖書は繰り返し、述べています。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

f:id:yuumamatan:20240410203301j:image

悪魔の教会への惑わしに関して。

f:id:yuumamatan:20240410073110j:image

 

No.226   自ら実を食らうエバ


 テキスト:”創世記3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

本日は、「自ら実を食らうエバとして、悪魔の人への惑わしに関して見ていきたいと思います。

創世記には、クリスチャンに対しての、多くの実際的な教訓が満ちています。
ですから、この書を「神話だ」とうそぶく愚かな人々、(彼らこそ聖書が語る「あざける人々です」)には、何の助けにもならないでしょうが、神のことばを真剣に求める人々には大いに助けになります。

この創世記のエデンの園の最初の誘惑の箇所は、その後、神の民と悪魔との間に何千年にもわたり繰り返されるる多くの「あざむき」の最初であり、もっとも代表的な形です。
この中に敵の惑わしに関する多くの教訓が含まれています。

この惑わしの話の中で注目すべきことは、この時、惑わされた女は、自らの手で、この「禁じられた実」を取り、そして食べたということです。それだけでなく、夫にも分け与えたのです。

勿論、だましたのは、「蛇」なのですが、しかし、この蛇が無理矢理女の口にこの「禁じられた実」を押し込んだり、強制して、食べさせたのではないのです。
あくまで彼女は自らの意志と自らの手で取り、また自ら食べているのです。

この事実は示唆的です。何故なら、今に至るまで、悪魔の惑わしに惑わされる時、いつでも女(教会)は、自らその気になって、禁じられた実を食べてきたからです。そして、
このパターンは終末においても、いや終末においてこそ、はっきりと繰り返されるからです。

この視点に基づき、上記テキストを見ていきましょう。
順にみます。

”1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」”

蛇はこうかつであり、また神のことばをよく知っています。彼が「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と女に語った時、彼はこのことばが確かに神からのものであること、そしてこのことばを守ればどのような祝福を女が受けるのか、そして守られなければ、どのような祝福を逃してしまうのか、それどころか、命を受け損なうかをも熟知していました。
そして、どのようにアプローチをすれば、この女の神のことばへの信頼を崩すことができるのかもよく知っていたのです。

今でも、いや今こそ、この蛇の働きは活発に働いていることを理解しなければなりません。
彼ら、蛇の働き人は、どのようにアプローチすれば、「神のことばを信じている」と称する人々を実質的に神のことばから、背を向けさせられるのかを熟知しています。
そして、あらゆる窓わしを繰り出しているのです。
やれ、人間イエスだ、Q資料だ、文献学だ、新神学だ、進化論だなどなど、いかにも科学的な方法で、神のことばにとどまろうとしない人々を揺り動かし、惑わしているのです。

”2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」”

女は、神が実際に言った言葉を忠実にとらえていません。「触れてもいけない」などと付け加えているし、一方では、「死ぬといけないからだ」などと弱めているのです。

”4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。”

蛇は神のことばと正反対の偽りを断言しています。

”5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」”

蛇はこの実を食べるという「神のことばを裏切る行為」に伴う、メリットに関して強調します。これらは、あながち嘘でもない、いや半分は真実なのです。そして、このパターンこそ蛇の、女、教会をだます、じょうとう手段なのです。

この手口で教会は、何度も何度もだまされてきました。そして、極め付けは、この終末において、この敵に同じパターンで大敗北を決しようとしているのです。
それで、誰でも、主の知恵を得たものは、この敵のパターンを見破り、警告のわざをなしていくべきです。

人間の間でも詐欺師というものは、だいたい「うまい話」を持ってくるものです。

「あなたのお金を私に下さい。利子もつけないし、返金もしませんが、どんと1000万円程、私に下さい。お金がなかったら、借金をしてでも私に下さい。」などと虫のいい話をして、
お金をくれる人はいるでしょうか?我々の想像ではそんな人は、皆無でしょう。

しかし、ものごとはそれこそ、話のもっていきかたしだいで、おどろくべきことには、1000万でも2000万円でもだす人がいるのです。

「今、お金を出せば、1000万円が、1年で10倍になる」などという「うまい話」にして持ち込めば、それを本気にして、ありたけの財産を差し出す人は今でも多いのです。

「蛇」を用いたサタンは、この女、エバをだまそうとした時、心の中で随分、虫のいい計画をもっていたのです。神は確かにアダム、エバにはっきりと、『この実を食べると死ぬ』と語った。この言葉をくつがえして、エバに自分で、この実を食べさせたい。それにはどうしたら良いものか。
そして、彼は考慮に考慮を重ね、「この実を食べると神のようになる。善悪を知るようになれる」といううまい話を持ち出したのです。

そして、彼女はみごとにこのうまい話にひっかかったのです。このひっかかったエバは、愚かです。
しかし、彼女を笑ってばかりはいられません。何故なら、教会は今に至るまで同じ手口に引っ掛かり続けているからです。

最近、聖霊の波がやってくる、第三の波だ、この中で、すばらしい聖霊のたまものの働きがある、なんていう結構ずくめののうまい話が、日本の教会にやってきました。結構ずくめの話のようなので、みんな乗ってしまいました。しかし、この働き、リバイバルには、裏があり、何とこのリバイバルの中には、獣の霊が働いていたのです。ここに入っていく多くの人々が「獣の印」を受けていきます。
そうです、うまい話には気をつけなければいけないのです。

18世紀頃、英国を中心にいわゆる「兄弟達の働き」(今のブラザレンにあたるようです)が始まったということです。J.N.ダービーを始めとする「兄弟達」を通して多くのすばらしい聖書の真理が解き放され始めたとw.ニー兄は書いています。

それは、それで、すばらしいのでしょうし、ブラザレン系の働き人には、確かに神から来ている働きもあるので、一概にはいえないのですが、一つどうしても言わなければならないことがあります。

それは、それらの「すばらしい聖書の知識」とかいう教えの中に多くの教会を破壊する教理が入っているということです。いわく、J.N.ダービーがアメリカ各地で、一生懸命伝えたという「艱難前携挙説」です。
これこそ、悪霊の教えであり、終末の日の神の民の備えを崩壊させたものです。
彼らの「深い教え」に感心した人々は、疑問もなく、この「悪霊の教え」を受け入れていき、そして、今では、この悪霊の教えは教会内で「正統的な教え」ということになっています。
まるで、どろぼうが入ってきてその家の主人になってしまったようなものです。

この教えを始め、教会を破壊するいくつかの重要な教えがこの「兄弟達」の働きには入っています。ですから、「うまい話」には気をつけなければならないのです。

「すばらしい光だ、深い教えだ」なんて感心している間に、もっとも大事な部分に攻撃を受けるからです。
「悪霊の第三の波」が用意周到な計画的なものであったように、もしかするとこの「兄弟達の働き」にも再考慮すべき点があるかもしれません。

”6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。”

女は、神のことばを離れ、蛇の惑わしに入りました。この時、彼女の命を奪い、永遠の命への道を絶ち、破滅に至らせるはずの実は、彼女の目に「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」のです。

何の不都合もこの実にあるようには見えなかったのです。
しかし、結果はどうだったでしょう。この実を食べた結果、エバもアダムも「命の木」への道を絶たれ、「彼らが永遠に生きないように」その道は閉ざされたのです。

ですから、アダムとエバは、その道が開かれていたのにもかかわらず、みすみす「永遠の命を獲得」することに失敗するクリスチャンの型です。
彼らと同じように惑わしに入る人々は、決して永遠の命を獲得することはできないことを覚えるべきです。

惑わしということをどうぞ、深くとらえて下さい。狼が羊を捕まえることがいとも簡単なことであるように、悪魔が人をまどわしに入れることは、簡単なことであり、いつでもあり得ることなのです。
ただただ、神のあわれみにより、助けられた人のみ、それを逃れるのです。

たとえば、統一原理にいる人々も「惑わし」の中にいます。
あの韓国の文なんとかという名前の人は、我々にはどう見ても「再臨のキリスト」には、見えないのですが、惑わしの霊が働く時、彼らにはすっかりそう思えてしまうようです。そしてその中に入ると、それを逃れることは難しいのです。

また、マリヤを礼拝する人々も惑わしの中にいます。マリヤをかたる霊は悪霊なのですが、
それを礼拝する人々には、何だかこころよい霊に思え、これがとても悪い霊には思えないのでしょう。

同じように例の獣のリバイバル聖霊(悪霊)の第三の波も悪霊なのですが、その渦中にいる人々には、何だか聖霊に満たされているように思えるのでしょう。
彼らは等しく、惑わしの中にいるのですが、神のあわれみがない限り、それから
目覚めることは困難です。

”それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。”

敵は惑わし、そして女は自ら手を延ばし、その「死に至らせる実」をとって食らうのです。

獣のリバイバル、悪霊の第三の波は、けっこうずくめのように思えます。
それで、主に聞くより、自分の感情、思索、意見を重視する人々は、その実をとって食らいます。
彼らは自分でこの中に入り込み、そして惑わしの霊を受けているのです。皮肉にも、まさに「聖書的」です。

しかし、その結果は、ビデオの中で、ケネスクープランドが叫んでいるように「獣の印」をその額につけられる結果になるのです。

惑わしに入る事のないように主のあわれみを求めましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240410073040j:image

警告の角笛を明確に吹くこと、「角笛を吹く者」の責任について

f:id:yuumamatan:20240409171151j:image

 

No.225 はっきりした角笛の音(2)


テキスト:コリント人への手紙第一 14:7 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。
8 また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。
9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。
10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。
11 それで、もし私がそのことば(声)の意味(
ちから)を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。”

 

本日は、「はっきりした角笛の音(2)」として、警告の角笛を明確に吹くことについて見ていきましょう。

上記テキストに沿ってみていきます。

”7 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。”

笛や琴をひきながら、それを聞いている人が、「君が代」が演奏されているのか、はたまた、「アメリカ国歌」が弾かれているのか、ちっとも理解できない、区別できないとしたら、それは、演奏者にとって、恥ずかしいことです。

同じ意味あいで、主がはっきりと警告するよう「見張り人」に語ったのに、その角笛を聞く人が、どんな角笛が吹かれたのか、警告の笛なのか、集合の笛なのか、昼飯の合図なのか区別できないとしたら悲しいことです。

”8 また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。”

ラッパとは、「角笛」のことであり、吹かれた角笛の音がはっきりしない音であり、何を警戒すべきなのか、どこが悪いのか、どう悪いのか、聞いている人が何一つ理解していないと
すれば、それは、「角笛を吹く者」の責任なのです。「神の警告は伝えなければならない。しかし、あまり名指しで非難、警告をして嫌われたり、
攻撃されたりしたくないし、とりあえずさしつかえない程度に吹いておこう」というような角笛の音を聞いても、誰も今が戦いの時だと理解せず、結果として誰も「戦闘の準備」をしません。

こんなふうに人間のことしか考えていない、見えていないラッパ、すなわち「角笛」は何と呼ぶべきなのでしょう。
本人には、「人を傷つけない、争いをひき起こさない平和的な働き人」と見えるのでしょうが、
しかし、神の前には、「日和見ラッパ」のようなものです。

”9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。”

舌は、ヤコブ書によれば、教師のたとえです。ですから、「舌で明瞭なことばを語る」とは、
教師がはっきりとした警告を与えることについて述べているのです。彼らが果たすべき、警告の働きを果たしていないので、今の時を誰も理解せず、戦いの備えをしないのです。「空気」とは、他の箇所で、「空をうつ拳闘」ということばの中で使われています。ですから、彼らの
ことばは、まるで「空気に向かって話している」ようなものです。そのため、それを聞く人々も「空をうつ拳闘」をするようになるのです。

”10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。”

ここで「意味のないことば」と訳されている文章は、原文の意味と大部違います。
原文の意味は、「おし(音のない)の声」という意味です。

「おし」と訳されたことばは、他では以下のように使われています。

コリント人への手紙第一 12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない(おしの)偶像の所でした。

「ことば(声)」は以下のように使われています。

マタイの福音書 3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

ですから、この節の原文は、こんなふうな訳なのです。「世界にはおそらく非常に多くの種類の『声』があるでしょうが、音のない(おしの)『声』など一つもありません。」

「声」の役目は、人々に何かを語り、はっきりと理解させることです。
バプテスマのヨハネ「荒野で叫ぶ者の声」として、神に示された働きを立派になしとげました。

彼がはっきりと群集に「斧がすでに木の根元におかれている」と明確に語り、今がまさに神の裁きの直前の時だと、疑問の余地のないように、語ったので、人々は続々と悔改めてバプテスマを受けたのです。

彼が、今のわけのわからない教師達のように、「教会時代の始めからすでに終末は始まっている(?)」
などと、意味不明なたわごとを語っていたのなら、誰も荒野まで来て彼に耳を傾けようとはしないでしょう。

また、彼はパリサイ人やサドカイ人に「まむしのすえ」とはっきり語ったのです。
それで、彼らは少なくともヨハネを通して自分達への神からの警告を聞くことはできたのです。
彼らの全てが、ヨハネのきびしいことばで悔改めたわけではないでしょうが、彼らは名指しにされることにより、この警告を受け、心にとめることはできたのです。
今、このバプテスマのヨハネは、私達の回りのどこにいるのでしょう。私達の回りには、あたりさわりのない、よくいえば誰をも傷つけない、悪くいえば、毒にも薬にもならない「警告」に満ちているのではないでしょうか。

獣のリバイバルが起り、どう見てもサタニストとしか思えない「働き人」が大手をふって教会を席巻しているのに、誰も彼も口をとざし、はっきりいうことはなく、自分の評判のみを気にかけているようです。
これこそ、「おしの声」ではないでしょうか。

”11 それで、もし私がそのことば(声)の意味(ちから)を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。”

この節で「ことば」と訳されている語の原意は、「声」であり、「意味」と訳されていることばの原意は、「力」です。

それで、ここでは、「声の力」について語っていることがわかります。
そうです、声には、力があるのです。警告の声には、力があるのです。それを私達は知らなければなりません。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240409171137j:image

「角笛」を吹くことを神に語られたなら、「明瞭に」「誤解の余地のないように」吹き鳴らすべき。

f:id:yuumamatan:20240408075910j:image

 

NO.224 はっきりした角笛の音


”テキスト:コリント人への手紙第一 14:7 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。
8 また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。

本日は、「はっきりした角笛の音」という題でメッセージをします。
私達が警告の角笛を吹き鳴らす時には、はっきりした「音色」で明確に警告をするようにとの聖書の教えについて見ていきたいと思います。

上記テキストには、「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。」
と書かれています。ここで使われている「ラッパ」とは、旧約聖書「角笛」に相当します。
訳語が大部違うようですが、同じものをさすのです。
それで、ここでは、「角笛がもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。」という意味なのだということがわかります。

角笛は神が民に警告を与える時に使われます。以下の通りです。

”エゼキエル33:2 「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。
3 剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。
4 だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。
5 角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。
6 しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。
7 人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
8 わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。
9 あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。”

ここで書かれているように、民の中から選ばれた「角笛」を吹き鳴らす人は、民に聞こえるように
角笛を吹き鳴らさなければならないのです。

全ての人がこの「剣」のわざわいに気付くわけではありません。しかし、神に選ばれたこの「見張り人」は気付くはずなのです。「いつ、どのように気付くのか」などと、いわれても私にはうまく説明できないのですが、しかし、はっきりしていることは、神がその「見張り人」を選ぶなら、必ず彼は、気付くのです。何故なら神が彼に示すからです。

しかし、見張り人が「気付く」ということは、一つの行為ですが、「角笛を吹き鳴らす」ことは、また別の異なる「行為」なのです。

何をいっているのかというと、明瞭に神により気付かせられたのにかかわらず、「角笛」をはっきりと吹き鳴らさない見張り人がいるということを語っているのです。

敵がすぐ陣営の目の前にまで、押し寄せてきたのにもかかわらず、そして、そのことに神が気付かせて下さったのに、それにもかかわらず「はっきりと」した明瞭な「角笛の音」をださず、敵が来たのか、昼飯の合図なのか、ひよろひょろと意味不明な音色を吹く「見張り人」は災いだと聖書は、語っているのです。

こんなことを書くと笑い話みたいですが、しかし、このことは今、私達の目の前で現実に起きています。

例えば、例の「獣のリバイバルです。このことの危険に神により気付かせられても、はっきりとした音色で「角笛」を吹き鳴らす人々は残念ながら、少ないようです。

しかしもし、私達が「角笛」を吹くことを神により語られたのなら、「明瞭に」「誤解の余地のないように」吹き鳴らすよう心掛けるべきです。

何故なら、「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。」と書かれているからです。意味不明な警告の角笛を聞いても誰もどのように、何を警戒すべきなのか、わからないからです。

ばくぜんとした「悪い霊の働きが終末にある」というあいまいな表現でなく、「何が、どのリバイバルが危険なのか、悪霊の働きなのか」はっきりと名指しで警告すべきなのでしょう。
もちろん、主がそう語られたらの話ですが。

旧約の預言者の警告の方法はこの際、私達の助け、また標準になるでしょう。それを見る時、エレミヤにしても、エゼキエルにしても、「いつか、どこの国の誰とも知らない王がこのユダの国に攻めて来る。だから気をつけろ」というようなどうとでもとれるあいまいな警告をしたりはしなかったようです。

逆に「バビロンの王ネブカデネザルがこの国を占拠する」と具体的な警戒すべき国名、また王の名前を具体的に述べたのです。
これが角笛、すなわちラッパを吹き鳴らす者の標準なのです。

「終末にはサタンの働きがあるから気をつけましょう」などとばくぜんとしたことをいっても
誰が真剣に耳を傾けるでしょうか。「そんなことは、わざわざいわれなくても昔から知っているよ」などと、軽くあしらわれるのがおちではないでしょうか。

もちろん、私達が具体的なリバイバルの名前をあげたり、働き人の名前をあげれば、それを聞いて怒りだす人があらわれるでしょう。
しかし、これこそが、角笛を吹きならす者が通らなければならない「十字架」なのです。

そしてこれはまた、旧約の預言者や、見張り人が通ってきた道であり、標準なのです。
そうです、神からの警告を語れば、怒る人や、文句をいう人やが色々現れ、迫害されてしまうことは今、始まったことではなく、昔からそうなのです。

それなのに神から与えられた警告に忠実であるより、回りの人から嫌われたり、悪く思われないことが第一であり、色々まわりに気を使い過ぎて、結局は角笛を吹く者から意味不明、音声不明なラッパの音が出てくるということは悲しいことです。

しかし、この時代においては、人からの賞賛や、誉れ、評判よりは、「神のみから来る栄誉」を求めることにみこころがあることを知りましょう。

 

終末のおける主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー

 

f:id:yuumamatan:20240408075828j:image

終末には神の警告が「見える」かどうかが問われる。

f:id:yuumamatan:20240406161237j:image

 

NO.223 悟る(3)


 テキスト:マタイ24:15「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見た(eido)ならば、(読者はよく読み取るように。)」

「悟る(3)」として、もう少しこの「悟る」ということを見ていきましょう。

上記、有名な終末の警告のことばの中で、「見る(eido)」ということばに注目して見ましょう。

終末に関しての警告は、確かに聖書に書かれているのですが、問題は、その終末の時、何が「荒らす憎むべきもの」なのかを私達が「見る」ことです。
もし、私達が、それを「見る」ことができず、「見過ごす」なら、私達の終末の日の運命は危ういものとなるでしょう。

「そんなはずはない」「俺に限って大丈夫」などと、変な自信は持たない方が良いでしょう。
何故なら、聖書の歴史を振り返ると、「書かれているのに見過ごした人」「前もって、警告されていたのに理解できなかった人」が非常に多いからです。

例えば、旧約の北イスラエルの滅亡、ユダの捕囚に関しても前もって何度も警告されているのです。
しかし、やっぱりその通りに警告の預言は実現してしまいました。同じことは、ノアの時、ロトの時にもいえます。警告を正しく理解し、それを逃れらる人は少ないのです。これが聖書の語る一つのパターンです。

上記テキストの「荒らす憎むべき者」が、聖なる所に立つのを「見る」(eido)ということばは、以下の箇所でも使われています。

”マタイ13:14「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない(eido)”

ここでは、たとえを悟らない民に関して使われている「決してわからない(eido)」ということばが、この同じeidoなのです。

ですから、終末の「荒らす憎むべき者」に関しても私達が、「決してわからない」可能性があるのです。
実は、そのことを暗示する意味あいで、このことばが使われているような気がするのです。

この同じeidoは以下の三人の賢者(知恵あるもの)が、星を通して、初降誕の主イエスをさがした場面にも使用されています。以下の通りです。

”マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので(eido)、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ(eido)、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て(eido)、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見(eido)、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。”

彼らは星を見(eido),幼子(eido)を見ることができました。

この見る(eido)ということばは、「荒らす憎むべきものを見る(eido)」と同じことばなのです。

他の多くの人が見ることはできなかったのに、初降誕の主イエスを彼らが見ることができたことは、幸いです。
歴史の本によるとその当時、「私こそメシヤだ」「私がその救世主だ」というように、名乗りをあげる人は多かったようです。
それらに惑わされず、この博士達は正しく、唯一の方、主イエス見る(eido)ことができました。このことは、尊いのです。

そして、終末の日に難しいのは、多くの次々に現れてくる、色々な事件や、情報、ものごとの中で何が正しいのか、何が神からのものか、それとも惑わしの霊からのものかを見ることです。また悟ることなのです。

初降臨の時も、多くの自称メシヤがいたのです。
ですから、以下のナタナエルの様な慎重な態度は必要です。

ヨハネ1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」”

何でもすぐ、ついていかないで、吟味することが大事でしょう。何故なら、100人の自称メシヤのうち、99人は、にせものかもしれないからです。じゃあメシヤと聞けば何でも偽物かというと、しかし、100人目は本物かもしれません。そして、それを「悟らない」時、神の時を見過ごしてしまいます。その中で、ナタナエルは、正しく、そのメシヤを「悟る」ことができました。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」”

ナタナエルは、多くの偽者のメシヤの中から、この方が本物だと「悟った」のです。
律法学者、パリサイ人、祭司等、多くの宗教の専門家が間違えたのにも関わらず、彼は奮然と
悟り、理解したのです。多くの聖書の専門家の教える教理と異なるパターンだったのにかかわらず、すなわち、イエスは王宮の王子としては、来られなかったにもかかわらず、彼は理解したのです。そして、これが「悟り」なのです。
「常識」「否、メシヤではない」と判断し、また当時の宗教の教師も、「否」とし、また当時の聖書の専門家も、やはり「否」というこのナザレのイエス、この方こそ「神の子。イスラエルの王」であると正しく判断すること、これこそ、「悟り」なのです。

そして、この彼の「悟り」は、彼、ナタナエルを救い、滅んでいったエルサレムの多くの宗教の専門家達とは異なり、裁きから彼を守り、永遠の命を彼に獲得させたのです。まさに、この「知恵」「悟り」は、オフエルの金にまさるものなのです。

聖書が、終末の私達に対しても、実はこの「悟り」について述べていることを知らなければなりません。

終末の日にもこのイエスの時代と同じように一体何が真実、真理なのか、何が惑わしなのか、誰にきいても、はっきりしない、いえ多くの宗教(教会)や聖書の専門家が間違える時がきます。いいえ、今、私達の目の前にすでにその時は来ているのです。

ある人々は、あの大きなペンサコーラ、トロントリバイバル「獣のリバイバルだといいます。そんな途方もないことが本当なのでしょうか。教会のどまんなかでそんなことがありえるのでしょうか?このことを理解するのに、私達は「悟り」が必要です。どちらが、正しい、正しく無いといっているのでなく、正しく判断するために「神からの悟り」が必要だといっているのです。

またキャサリンクールマンは魔女だとある人々はいいます。そんなとほうもないことがありえるでしょうか?しかし、もしかするとこれはあり得るかもしれません。どちらが、正しいのでしょう。そうです、それらを正しく理解するために私達は「悟り」が必要なのです。

また、ある説によれば、現在、ユタヤ人と呼ばれる人々の90%以上は、人種的にアブラハムの子孫(彼はセム黄色人種)でも何でもなく、全然関係ない種族のカザール人種、すなわち、白人種の一族だということです。そんな途方もない、「間違え」がありえるでしょうか?
それが本当だったらみなひっくり返ってしまうのではないでしょうか。
しかし、ユタヤ人アーサーケストラーの「13氏族」という本を読むと、確かにこれは、歴史上の事実のようにも見えます。そういえば、キッシンジャーやら マルクスやら アインシュタインやら、よく知られているいわゆるユタヤ人は、誰も彼もどうみても「セム族」(黄色人種)というより、「白人」です。
一体これは本当の話なのでしょうか。それとも単なるデマなのでしょうか。
これを悟るために、「知恵、悟り」が必要になるのです。

やさしい小学1年生に出すような1+2=?などという質問に答えるのに、特別な理解力や優秀な頭脳は必要ありません。しかし、いざ難問が来た時、たとえば、東大の入学試験を解いたりする時、私達は、明せきな理解力(悟り)を必要とします。

全ての人が東大の試験を受けるわけではないでしょうが、しかし、終末の難問は全ての人に等しくやってきます。だからこそ、「荒らすに憎むべき者」に関連して、「読者よ悟れ(理解しろ)」と語られているのです。

私達がこのことに気付くかどうかは別として、終末の日は確かに「難問の日」です。
そして、かつてのイエスの時代に、ナザレのイエスという難問を理解、「悟った」人々が、命と祝福を得たように、終末の日もこの終末の難問を悟る、理解する人々に命が与えられるのです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。 

 

ー以上ー 

 

f:id:yuumamatan:20240406161216j:image