焼かれる町は終末の教会への警告

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通算NO.128 焼かれる町


テキスト:”マタイ22:1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。


2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。


3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。


4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』


5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、

 

6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

 

7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。

 

8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。


9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』


10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。


11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。


12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。


13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。


14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」”

 

本日は、「焼かれる町」という題で、マタイ21章のたとえを見ていきたいと思います。テキストを順に見ていきます。

 

”1エスはもう一度たとえをもって彼らに話された。” 

 

”もう一度”という表現によりこのたとえはその前に書かれているマタイ21章のたとえと関連があることがわかります。そこでは、ぶどう園のたとえが書かれています。そしてその時は、”さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。”というように、収穫の時、終末の大リバイバルの時と関係することがわかります。ですから、この婚姻のたとえも終末に関係することと思われます。このたとえは基本的にはイエスの時の律法学者、長老達にあてて語られたものです。しかし、それとともにこれは2重のたとえなのです。終末の私たちにあてても語られたものなのです。

 

”2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。”

 

ここで結婚のことが出てきます。聖書に出てくる結婚のたとえは多くの場合、キリストと教会との婚姻をさすたとえです。たとえば、以下のように;

ヨハネの黙示録 19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。”

 

ですから、これは終末において、再臨される花婿なる主とそれに招かれた神の民との物語と思えます。

 

”3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。”

 

しもべたちとは旧約時代でいえば、旧約の預言者達のことです。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等、多くの預言者イスラエルの民に送られました。しかし、彼等は神のもとへ来ようとせず、祝福を逃したのです。その結果、救いは異邦人に及んだのです。

 

”4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。”

 

もう一度と書いてあります。別のしもべが遣わされたのです。神はその民を簡単には見捨てません。他のしもべを通して、再度、再再度、警告、忠告を与えるのです。もし、その警告に聞くなら彼等は婚姻に招かれた者としての祝福に入ります。

 

”『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。”

 

普通、結婚式には、自分の親戚や知り合いを呼びます。全然知らない人、町の通りすがりの人は呼ばないのです。神もそうです。神も昔からの知り合い、すなわち、異邦人ではなく、神の民としての歩みを長年続けてきた、イスラエルの人々をまず初めに呼んだのです。彼等は招かれた人々です。

 

”さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』”

 

”食事の用意”とは主の食卓、すなわち、主の体なるパンと罪をゆるすために流された血のことをさすと思われます。”雄牛も太った家畜もほふって”とあります。雄牛は罪のあがないのため、殺されます。ですから、み子の死による罪のあがないは完成したことをさすのでしょう。”何もかも整いました。”とあります。ですから、全ての神の整え、用意はできたのです。もう結婚式を開くばかりとなったのです。

 

”5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、”

 

昔からの神の民は、神の語りかけを気にかけなかったのです。

 

”6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。”

 

そればかりか、彼等は神のしもべに恥をかかせ、殺したのです。確かにこのことは起こりました。旧約の時代には”義人アベルからゼカリヤまでの血”が神の民により流されました。そして、これは新約の時代でも同じなのです。新約の終りには”油注がれた者達”は世についた神の民により迫害され、殺されるのです。油注がれた者達は黙示録11章に象徴的に記されている終末の預言者であり、彼等は神のことばの証のゆえに殺されるのです。

 

”7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。”

 

ここに記されていることは神の裁きです。主イエスが十字架で殺されたあと、”彼等の町”エルサレムは、兵隊により滅ぼされ、焼き払われました。彼等は裁かれたのです。このことばの通りになったのです。さて、これはこのことだけにとどまりません。これは、終末に起きることの予表なのです。終末にも油注がれた者達が殺されるため、さばきが起こります。このことは以下のように聖書の中で何度も預言されています。

 

1)”ルカ21;20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。


21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。


22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。


23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。”

 

エルサレムは教会のたとえです。ここには、エルサレム、すなわち教会が軍隊に囲まれることが書いてあります。これは、”この民に御怒りが臨む”日のことです。
 

2)”黙18;18 彼女(バビロン)が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』”

 

このバビロンは裁かれるべき教会をさします。彼等は火で焼かれます。このことは文字通り起こると思われます。その日はアウシュビッツの日のようになるでしょう。

 

3)”マタイ13;40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。


41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、


42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

 

4)”ルカ19;41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、


42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。


43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、


44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」”

 

ここでも、イエスエルサレムの崩壊について嘆くことばが書かれています。”おまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ”とは、軍隊による破壊をさすと思われます。”一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。”とは、教会が徹底的に破壊される日のたとえです。

紀元70年にエルサレムはローマの軍達により火で焼かれ、滅ぼされました。これは、イスラエルー神の民が油注がれた方を排除、殺したことへの裁きだったのです。そして、救いは異邦人へ及んだのです。そして、このことは大きな規模で終末の日に起きることの予表です。終末にも同じことが起こるのです。

 

すなわち、神の民ー今の教会、クリスチャンが捨てられる日が来ます。そして、救いは異邦人、すなわち、未信者に及びます。以下はそのたとえです。

 

”8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。


9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』


10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。”

 

”招待しておいた人たち”とは、旧約のイスラエル人、今のクリスチャンです。彼等はふさわしくなかったのです。彼等は長年、神に仕えてきたのに、最後のどたんばで、祝福を逃してしまうのです。ですから、多くのクリスチャンが、終末の時に、ふさわしくないと神に定められてしまうというのです。どうぞ、ここでは、神は我々に大変なことを語っているのだということを悟って下さい。

”大通りに行って、出会った者”とは、要するに今まで、神を全然知らなかった人達を連れてこいということでしょう。キリスト教のキの字も知らなかった人、神のカの字も考えたことのない人達を連れて来いということです。恐らく彼等は終末のリバイバルで救われる人達ではないかと思われます。

 

ですから、ここで述べられていることは教会時代の最後の最後に起きる大逆転に関することなのです。

教会の長年の不信のゆえ、彼等はバビロン(混乱)へ捕え移されてしまい、その結果、彼等はエサウのように祝福を逃すのです。そして、最後の最後に救われた多くの未信者が祝福を代わりに受け継ぐことになるのです。

 

”14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」”

 

このことばは終末の日に文字どおり、成就します。”招待される者”とは、子羊の婚宴に招かれる人々です。全てのクリスチャンはそこに招かれているのです。ですから、”招待される者は多い”のです。しかし、”選ばれる者は少ない”と書いてあります。患難時代を経て、なおかつ神の招きにとどまるクリスチャンは少ないのです。

ですから、私たちは目を覚まさなければなりません。何故なら、このことばは多くのクリスチャンが祝福を逃すこと、また患難時代の中で滅ぶことを暗示しているからです。

 

少なくとも私たちが今の多くのクリスチャンと同じように歩んでいるから、だから大丈夫とはいえないのです。真に主に聞いていかなければなりません。

 

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー

 

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